霧の谷から

― 無印第2章背景 ―



比叡山西塔。
霧が流れている。
麓から見たなら、山は雲に覆われていことだろう。
生い茂る木々は白い視界に薄墨色に滲む影。
ひんやりとした微細な水滴が頬に触れる。
この湿り気こそ、弁慶の慣れ親しんだ比叡の山の気だ。
だが、今は昔を懐かしんでいる時ではない。

弁慶は白い帳の向こうに鋭い眼を向けた。
「出てきてはどうですか。こんな霧の中では後を尾けるのも大変でしょう」
射るような眼光とは裏腹に、その口調は慰撫するかのように柔らかい。

塔頭を結ぶ道から外れ、森に分け入ってからずっと尾行されている。
だが追尾者に主導権を握られたままでいる弁慶ではない。
まずは相手の姿を露わにすることだ。
気配だけを頼りに尾行をまくのは危険すぎる。
確実に逃げ切ったかどうか判断できないからだ。

逡巡の気配もなく、穏やかな声が答えた。
「そのお声は弁慶殿か」
下草を踏む音が近づき、霧の中から人影が現れる。
僧形の痩せた男だ。その顔には見覚えがある。
弁慶より二つ三つ年長の学僧で、同じ西塔で修行をしていた男だ。

学僧は弁慶の前まで来ると、悲しげな笑みを浮かべて一礼した。
「拙僧は尾行していたわけではない。
もしやして、初めて山を訪ね来た僧が、数多ある塔頭に迷い、
道を探して彷徨っているのかもしれぬと思うたまで。
だが弁慶殿なら案内は要らぬな」

見え透いた嘘だ。
だが弁慶は素直に詫びた。
「戦を専らにしていると疑り深くなってしまっていけませんね。
失礼をお許しください」

学僧はゆっくりと頭を振る。
「弁慶殿を責めているわけではない。拙僧はこれにて戻ろう。
だがこのような時勢に供も連れず、座主を訪なうこともなく、
源氏の軍師殿が何用あって比叡山まで来られたのか」

外套の中で、弁慶は薄い笑みを浮かべた。
「すみませんが、僕の立場上、何もお答えできません」

弁慶の言葉は、源氏の軍師として来たことを肯定したものだ。
学僧は、ぎらりと光った眼光を隠し、つつましく目を伏せた。
「ではこれ以上は聞きますまい。行かれるがよい」
そして一礼して背を向ける。

だがその背に、弁慶は鋭い声を投げつけた。
「嘘はいけませんね」
一歩踏み出した学僧の足がぴたりと止まる。
「嘘…とな?」
「僕に声をかける機会は何度もありました。
本当は、僕がどこに行くのか見届けたかったのではありませんか」
「拙僧を嘘つき呼ばわりとは…」
「この場を去ったと見せかけて、再び尾行を始…」

その瞬間、弁慶の背後でヒュン…と風を切る音がした。
尾行者は二人いたのだ。

弁慶の黒い外套が翻り、ばさりと広がる。
飛来した矢が、その中央を射抜いた。
その時にはすでに、弁慶は外套を脱ぎ捨てている。
身を低くして横に飛びながら、懐から礫を掴み出だし、
木の陰で二の矢をつがえた男に投げた。

予期せぬ反撃に礫を避けられず、男が弓を取り落とした時には、
弁慶の薙刀が男を打っていた。

その場に倒れ込んだ男は、小柄な寺男だった。
「こ…殺したのか…!?」
学僧が震える声で叫んだ。
「山で殺生はしません。峰打ちですよ」
事も無げに弁慶は答える。
「ただ、あなたと違って逃げ足が速そうだったので、
手加減している余裕がなかったかな。
後で介抱してやって下さい」

学僧は険しい目で弁慶を見た。
「気づいていたのか」
「あなたが見え透いた嘘を吐いてくれたおかげです。
そんなことをするのは、僕を無事に帰す気がないからだ…とね。
けれどあなたは荒事向きではありません。
だとすれば、他に仲間がいるはずと考えるのが自然です」
「得意げに話すことでもなかろう」

弁慶は口元だけでうっすらと笑った。
「平家の内通者としては、源氏の軍師を葬る好機と考えましたか」

学僧の筋張った喉がごくりと鳴った。
「この…荒法師が……源氏の犬めが……」
「図星だったようですね」
「比叡の寺が、これまでどれだけ清盛公に助けられたことか…。
その恩義も忘れて、三井の寺の如く源氏に尻尾を振るなど」

弁慶は冷ややかにその言葉を遮った。
「言いたいことはそれだけですか」
学僧ははっと気づいて口をつぐむ。
今さら何を言っても、どうなるものでもないのだ。
すがるように周囲を見回しても、目に映るのは白い霧と黒い木々だけだ。
大声で叫んだところで、誰に助けを求められるだろうか。

弁慶は学僧をひたと見据えて非情な言葉を続けた。
「比叡山は世の流れに従っているだけです。
木曾殿を迎え入れ、法皇との謁見までもここで行われた…。
つまり、かつて平家方だったにも関わらず、
今の比叡山が源氏に与していることは紛れもない事実です。
けれど、平家に心を寄せる者はまだ残っていたのですね」

学僧はじり…と後ずさった。
逃げ場がないと分かっていても、この恐ろしい男から離れたいのだ。
だが、弁慶の白い手が学僧の衣をぐいっと掴んで捻じ上げた。
女と見まごう顔からは想像もできないような力だ。
足先が宙に浮き、動けない。

しかしその時学僧は、弁慶の口から信じられない言葉を聞いた。

「ふふ…でも、安心して下さい。 あなたのことは誰にも言いません」

「どういう意味だ」
と問おうとするが、喉がひゅうひゅうと鳴るばかりで
言葉にならない。

それを見透かしたかのように、弁慶はもう一度小さく笑った。
「この山の者にも、源氏の軍の者にも、
そう…もちろん、総大将の九郎にも言わない…ということですよ」

「恩を…着せたつもりか」
からからの喉から、学僧はやっと声を絞り出す。
弁慶の笑みが大きくなった。
「気骨のあるところを見せてくれるとは嬉しいですね。
さすが比叡の僧です」

呆然とした学僧の衣から弁慶は手を離した。
と同時に、その鳩尾を拳で一撃する。

声もなく足元に頽れた学僧を一瞥し、弁慶はその場を後にした。

思わぬ邪魔が入った。
いや、思わぬ収穫というべきか。

しかし弁慶は甘い考えを振り払う。

芽吹くかどうかも知れない種を一つ、蒔いた。
それだけだ。

平家と再び接触を図るための……。

すぐには叶わないことだ。
清盛と対決してから、まだ半年ほどしか経っていないのだから。
戦の趨勢も分かりはしない。
だが、漫然と時を待つだけではだめなのだ。

弁慶は霧の底…深い谷へと下りていく。



その朝………

眩しい春の陽光の中で、他愛もない会話を交わした。
遠い世界から来た少女……白龍の神子と。

ありふれた朝の挨拶と、昨日の五条橋でのこと。
薬が足りず、痛みに呻きながら帰っていった人々のことを、
彼女は気にしていた。

翳りのないあの瞳に、この世界はどのように映っているのだろう。

弁慶は天を振り仰いだ。
薄らぎ始めた霧の向こうに、幻のような太陽が白く…遠い。

ふっと息を吐いて微笑み、弁慶は目の前の大きな岩を回り込んだ。
灌木の茂みをかきわけ、目的の場所に着く。

そこは、かつてこの山にいた頃、
地元の山野に生育する薬草を集めて育てていた場所だ。
九郎と共に平泉に下向してから十年近い時が経とうとしている。
手入れもされぬまま野生の草木が蔓延っているか、
あるいは誰かの目に止まり、荒らされてしまったか。

その中の何種かでも手に入るならば…という僥倖に近い思いで
ここまで来たのだが……。

ヤブノハカズラ…カンムリゴケ…ムミョウソウ…
煎じ薬になるものはないが、傷薬として使えるものは見つかった。

よかった…。
今から戻れば、陽のある内に五条橋に着く。

用意してきた袋に持てる限りを入れると、
弁慶は確かな足取りで霧の谷を駆け上がる。

これだけあれば、あと十人…できれば二十人…の治療ができる。
……たとえ、一時しのぎに過ぎなくとも。



彼女は、入り日を受けて微笑んでいた。

診療所とは名ばかりの、傾いた小屋の前に座り、
小さな子供の手をしっかりと握っている。
周りに集まった老若男女の患者たちと、
何を話しているのだろうか。

川面のさざ波に光が踊る。
そよ風が、どこか遠くに咲く花の香を運び来る。
岸辺に繁茂する葦の間から、鷺が飛び立つ。
後を追いかけようとする子供、びっくりして泣き出す子供。

弁慶はしばし足を止め、息を止めた。

ふいに、眩しい笑顔がこちらを向いた。

「お帰りなさい、弁慶さん」

「……ああ、今日も来てくれたんですか、望美さん。
ありがとうございます」

これもまた、ありふれた言葉の遣り取り。


だが、胸の奥深くで、何かが…揺れた。



― 終 ―






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一部、史実もあったりしますが、
全体は「遙か3」年表を読みつつ妄想した、
捏造とフィクションの塊です。

弁慶と望美の関係は、まだかけ算未満の話ですが、
こんな弁慶さんが好き…という気持ちをこめて書きました。
そして、ちょっとでも闘分があると、何となく楽しいです…。
乙女ゲなのはよく分かっているんですけれど。


2011.11.3 筆