見えざる手のぬくもり

― 無印弁慶ルート 一周目終章背景 ―



黒龍の逆鱗が砕け散った。

   ベンケイ!!
   キサマ…コノタメニ ワレヲ…!!

取り憑いた清盛の憤怒の叫びが、身の内に谺する。
怒りの言の葉は炎と化して肺腑を焦がす。

だが、守りの観音像を握りしめ、弁慶はうっすらと笑った。
「これは序の口ですよ。
僕にはまだ、やることがあるんです」


わらわらと駆け来る足音が聞こえてくる。
異変に気づいた平家の武士達だ。

弁慶は素早く伏して、彼らを待つ。

「清盛様!」
「怨霊が次々に消えていきます!」
「何事が起きたのでしょうか!?」
「む…?」
「清盛様が……いない」

「う…うう……」

「弁慶殿が倒れているぞ!」
「清盛様はどこだ!」

弁慶は苦しそうに顔を上げ、弱々しい声を出した。
「消えて…しまいました」

「何!? まことか?」
「いや、こやつは源氏を裏切った者。信用ならぬ」
「言え! 清盛様をどこに隠した!」

「早く…この島から逃げろと…清盛殿の最期のお言葉です」

平家の武士達に動揺が走る。
もう一押しだ。

「清盛殿は、皆さんを…案じておられました。
どうかそのお心を…無になさらないで…下さい」

   キサマ…ワレノ コトバヲ カタルカ!!

清盛の意識が弁慶の中から迸り出ようと滾り、沸き立つ。

「な…何ということだ…」
「清盛様が…」

しかし、呆然とした武士達は次の瞬間、
弁慶の異様な気に、はっと我に返った。

「急いで……ギ…グ…ギギ…」

「弁慶殿…?」
「どうなされた…」

「近くにいた僕は、もう…助かりません…。
皆さんを巻き添えに…したくない…ギ…」

弁慶から禍々しい瘴気が立ち上る。

「ひぃぃぃ!!」
「逃げろっ!!」
「早く船を出せ!!」

武士達は一目散に走り去った。


彼らの姿が見えなくなると、弁慶はやおら立ち上がる。

「さて…ここまでですよ、清盛殿。
ご協力に感謝します」

   ワレヲ オサエル チカラヲ、
   ワザト ユルメタカ…ベンケイ

「ふふ…これでも僕は、けっこう小芝居が得意なんです。
でも、言葉だけでは信用してもらえませんから」

   キサマ…ワレヲ イクド タバカロウト イウノダ

「……あなたを何度も欺いて、
僕はそのたびに、あなたに負けてきました。
けれど安心して下さい。これが最後です」

   オロカモノヨ…
   コレデ ワレニ カッタトデモ オモウテオルノカ

「ええ、勝ちますよ…僕は」



平家の撤退は早かった。
御笠浜の沖へと、舟影が遠ざかっていく。
瀬戸の凪いだ海は、何事も起きていないかのように穏やかだ。

大きな軍船の去った船着き場には、
取り残された小舟が一艘、波に揺られている。

……よかった。
これに乗れば、望美さんは島を出られる。

今この島に残っているのは、
望美さんと、僕……そして清盛殿だけ。

異様な静寂の中を、弁慶は紅葉谷へと急いだ。
だが着いてみれば、洞窟の牢は破られ、望美の姿はない。

「望美さん!!」

何度呼んでも、返事はなく、
探し回る内に、清盛の哄笑が耳を聾するほどに大きくなっていく。

抑え込んでいた清盛の意識が、
弁慶の意識を乗っ取ろうとしているのだ。

もう、時間がない。


弁慶は紅葉谷を後にして、
自らを決する場所――
暗き空に聳える山の頂へと向かう。

そこに行けば祭壇がある――と、
内なる意識から知った。

   ドコニ イクツモリダ
   ベンケイ!!

「もう少し…おとなしくしていて下さい。
清盛殿……っ」

   ベンケイィィッ!!

懐に忍ばせた守りの観音像に、音を立てて亀裂が入った。

   キサマダケハ ユルサヌ!!

清盛の怨嗟が炎と化して肺腑を焙る。
視界が薄らぐ。

かろうじてねじ伏せ、遠ざかる意識を気迫だけで押しとどめた。

ここまで来て…僕は…
負けるわけにはいかないんですよ。

鬱蒼とした木々の底を歩む。
一歩ずつ、ぐらりと揺れる足を踏みしめながら。

比叡の険阻な峰々を駆け抜ける行を思えば、
この山道を駆け上がることなど容易なはずなのに…。

……清盛殿はなかなか手強い…ですね。
比叡で鍛えた僕が、
山道でこんな思いをするなんて…。



怨霊は消え、平家の武士も逃げ去った、誰もいない島。
飛ぶ鳥の声もなく、足音と荒い息だけが、耳に届く音の全て。

そして、一歩…また一歩。

君は……どこに行ってしまったんですか。
牢を破って逃げるなんて……
本当に君は…いけない人です。

でも…いいんですよ。
無事でいてくれさえすれば……。

君がいなくなったことで、
こんなに焦ってしまうなんて……。

あんなに酷い目に遭わせておきながら…
僕も…勝手なものです。

僕の罪が無ければ、君はこの世界に来なかった。
戦のない世界で、笑顔でいられた。
君は僕に会うことはなく、
僕が君を………ことも……なかったのに。

君が一途にがんばってきたこと、
君の白い手が成してきたこと……
その全てを、僕は目的のために利用してきました。

なのに、なぜ願ってしまうのでしょうね。
最期の幕を引くのは、
君の白く清らかな手であってほしいと……。

それがどれほど君を悲しませるか…
分かっているというのに。


森が途切れた。

眼下に海。
振り仰いだ先には、天を背負う岩塊がある。
頂上はもうすぐだ。

………おかしいな。
こんなに開けた場所なのに空が暗い……。
まだ日は沈んでいないのに…。

ああ、暗いのは僕の視界なのか…。
でも、八咫鏡にたどり着くまで…
その時まで見えていればいい。

弁慶の目に映っているのは、
夜よりも黒く、冷え冷えとした光景だ。

そこに突然、鮮やかな炎の幻が揺らめいた。

空を焦がす炎……
あれは……三草山……大輪田泊……
劫火の中から聞こえる阿鼻叫喚

   ワレニ シタガエ!!
   ベンケイィ!!!

寒い……
炎熱の憎悪に灼かれているのに、凍えそうに寒い。

一足進む毎に足が重くなり、もどかしいほどに歩みは遅い。

重ねてきた過ち……
贖いようのない罪。

   ベンケイ…
   キサマモ ミチヅレニシテヤル!

「ええ…
僕も、そのつもりですよ、清盛殿」

これで全てが終わりになる。
全てを終わらせる。

消えていく最期の一瞬だけは…君を……
遠い君の……白い手のぬくもりを思っていたい。

僕には、その刹那の時すら、許されはしないというのに。


――岩間から花びらが流れてきた。

弥山の頂は、近い。




― 終 ―






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この話は、朱雀三昧のステキ企画「朱雀阿弥陀第十二幕」様に投稿したものです。
阿弥陀企画への参加も、お題で書くのも初挑戦でしたので、
ドキドキしつつ一生懸命書きました。

無印弁慶最終章(一周目)で、
弥山で望美と再会する前に、どんなことがあったのか――
本編中で弁慶が語っていることから妄想した話です。

「見えざる手のぬくもり」というお題が決まった時、
すぐアタマに浮かんだのは「十六夜記」のスチルだったのですが、
その方向で素直に書かなかったのが運の尽き。
せっかくの企画参加ですので、甘い方向に挑戦しようと思いつつ、
できあがってみれば甘さからはほど遠い話になりました。

いつもながら糖分抜きの話でしたが、
最後まで読んで下さり、ありがとうございました!!

※朱雀阿弥陀様には、第1幕〜の作品も展示されています。
朱雀三昧の世界に浸りたい方、[リンク]ページからぜひどうぞ。


2012.3.30 筆・阿弥陀投稿・掲載  2012.5.1 アップ