聖夜 一とせの後





「ふうっ、これで一段落かな」
目の前に続くぴかぴかの長い廊下を満足げに見やりながら
望美は額の汗を拭いた。

ここは勝浦の別当屋敷。
本拠地である田辺の屋敷ほど広壮ではないが、
それでもかなりの広さがある。
大掃除も数日がかりだ。

もちろん、屋敷の手入れや掃除は、別当の家に仕える者達の仕事。
だが、望美としては、できるところは自分でやりたい。

ヒノエと自分の居室は、最初にきれいにした。
離れ家も隅々まで清めた。後、残っているのは…

「みんながやってくれたから、
他の棟も御厨も前庭も終わっているし…」
屋敷を端から思い浮かべて考えるが、やり残した所は無いようだ。

「大掃除、今年はずいぶん早く終わったなあ。
一年も過ごしてると、やっぱり手際がよくなるのかも」

望美は元気よく立ち上がり、
入り日を映してきらきら光る入り江に眼をやった。
広々としたその景色も、今は日常の風景になっている。
一年という時間のなせるわざだ。

おおつごもりが近い。
この時期、年越しの祓えや新年の儀式の準備などで、
熊野三山を統べる別当は、一年で一番多忙といっても過言ではなく、
数日にわたって、ヒノエが不在になることも多い。

事情が分かっていても、去年は一人になると心細く不安だった。
でも今年は――

望美は自分自身に尋ねてみた。

少しだけ……慣れたかな。
いつまでも「少しだけ」なのかもしれないけど。
だってやっぱり、ヒノエくんがいないと淋しいから…。
うん、これが正直な気持ち。
でもヒノエくんには、こんなこと言っちゃいけないよね。


冬には珍しく、風もなく穏やかな夕暮れだ。
澄んだ空気を胸一杯に吸い込み、深呼吸をする。

振り返って山側を見ると、思わず
裏山の木々に隠された小さな小屋を眼で探してしまう。

――去年ヒノエくんは、あの小屋に
私の世界のクリスマスを再現してくれた。

ヒノエはおくびにも出さなかったが、
それがどれほどに大変なことだったのか、
熊野別当の北の方として一年を過ごしたことで
今では身に染みるほどに理解している。

――今日は…クリスマスだ。
でも、今年もヒノエくんと一緒にいたいなんて思うのは、
私の勝手なわがままだよね。
去年は熊野に来たばかりだったから、
ヒノエくんは私を一生懸命気遣ってくれてたんだし。

でも……
今日も、帰らないのかな…ヒノエくん。

そういえば、今日は水軍衆の姿も見えないなあ。
やっぱりみんな、忙しいんだろうか。

庭に下りて屋敷の裏手に回り、小屋に続く道を覗いてみる。
道は枯れ草に覆われていた。
期待してはいけないのに、小さく胸が疼く。
望美はふるふると頭を振って、
じめじめした気持ちを振り払った。



夕餉をすませ、部屋でヒノエを待つうちに、
一年前と同じように、望美はうとうとと眠っていた。

どれほど時間が経ったのだろうか。

額に柔らかなものが触れたような気がして、
望美はうっすらと目を開いた。

「やっとお目覚めだね、姫君」
部屋はすでに暗く、高燈台に火が灯っている。

「ごめん!!」
望美は跳ね起きた。
きっと、何度も起こされたに違いない。

「オレの方こそ、すまなかったね。
せっかく姫君が休んでいたというのに」
「ううん、私こそ、起きて待ってるつもりだったのに、ごめん」

と、ヒノエは望美の手を取って立ち上がらせた。

「じゃ、姫君、そろそろ行こうか」
「え? どこに?」

ヒノエは、いたずらっぽく笑う。
「今夜は、クリスマスだろ? 姫君。
オレについておいで」

去年のあの小屋には、誰も近づいていないはず…。
そう思いながら、ヒノエに導かれるまま簀の子に下りる。
そしてそのまま長い廊下を通り、屋敷の外へと出た。

「あ…街が…」
望美は驚いて声を上げた。
その視線の先には、勝浦の街がある。
昼間はたいそう賑やかだが、夜ともなれば、
波音を子守歌に静かに眠りに就いているはず…なのだが、
あちこちに篝火が焚かれ、今夜は昼のように明るいのだ。

街には大勢の人々が笑いさざめきながら行き交っている。
あちこちで笛や太鼓の音がする。
湊に近い大きな通りには、市も立っているようだ。

ヒノエと望美は手をつなぎ、人波の中をゆっくり歩いていく。

「すごい人出だね」
「それはそうさ。今夜は祭りだから」
「みんな楽しそう」
「ああ、にぎやかでよかったな。
商人達も大喜びしてるよ。
おおつごもりの前にもう一稼ぎできるってね」

「でも、このお祭りのこと、私全然知らなかったよ」
「姫君が知らなくても当然さ。今までは無かった祭りだし」
「ええっ!? このお祭り、今日が最初ってこと?
もしかして…ヒノエくんが考えたの?」
「ああ、そうだよ。元々の仕掛け人はオレ。
クリスマスなんて言ってもみんな分からないから、
別の名目で祭りに仕立てたってわけ」

「そうか、クリスマスか……ん? えええっ!?」
望美の驚きをよそに、ヒノエは涼しい顔をして言った。
「二人きりのクリスマスもいいけど、
こういう賑やかなのって、どう?」

「………ヒノエくん、もしかして私のために?」
「もちろんお前のためさ。
でも、これで全部じゃないからね、驚くのはまだ早いよ」



そぞろ歩くうちに、いつの間にか人混みを抜けていた。
篝火と楽の音が遠くなり、波音が大きくなる。

湊では、夜空を背に水軍の船が二人を待っていた。
水軍衆が別当屋敷に来なかった理由が分かった。
彼らはここで出港の準備をし、ずっと待機していたのだ。

「お待ちしておりました」
副頭領が恭しく礼をして、出迎える。

「行くぜ! 野郎共!」
「おうっ!」
ヒノエの声に水軍衆の野太い声が応えた。
舫綱が解かれ、船は静かに岸壁を離れる。

望美の肩に、後ろからふわりとあたたかな着物が掛けられた。
「今夜は凪いでいるけど、海の上は寒いからね」
「ありがとう、ヒノエくん。
ねえ、この船、どこまで行くの?」
望美の耳に、いたずらっぽい声がささやきかける。
「お前は、どこまで行きたい?」
「意地悪言わないで、教えて」

「じゃあ、オレがいいって言うまで、眼を閉じていて」
「え? また?」
「ふふっ、去年のこと、覚えてた?」
「もちろんだよ」
「眼をつぶるの、イヤだった?」
「ううん、そんなことない」
「船が沖に出るまでだから、いいね?」
「うん」

ヒノエの手が望美の両目をふさいだ。
引き寄せられるまま、望美は背をヒノエに預ける。

波の音、櫓の音、足下には揺れる船、
すぐ後ろに感じるあたたかな息づかい。

見えないからこそ感じる、絶え間ない音に満たされた静謐な時間。
とても長く、とても短い時が過ぎていく。

やがてヒノエの手がゆっくりと離れた。
「姫君…オレと熊野からの、クリスマスプレゼントだよ」

望美は眼を開いた。

黒々とした山を背に、勝浦の街が輝いている。

篝火のあたたかな色に包まれた光の帯が、
入り江の形に沿って連なり、揺らめく。

山裾や小さな島々に散りばめられた灯りは
挨拶するかのように、ちかちかと瞬いている。

美しさに息を呑み、まばたきを忘れて飽かず眺め、
燦めく灯りの一つ一つに思いを馳せ、
そこにある人々を感じ、

望美の瞳の中で、灯火が滲んだ。

「ありがとう……ヒノエくん…」

「お気に召したかい、姫君?」
望美の声が震えていることに気づかないふりをして、
ヒノエは普段と変わらぬ口調で尋ねた。

「うん、とっても…」
「姫君を喜ばせるのは、オレの特権だからね。
気に入ってくれたなら、サイコーだ」

ヒノエは望美の隣に並んで立ち、
船縁に乗せた望美の手に自分の手を重ねた。

「それにね、もう一つサイコーなことがある。
分かるかい?」
「ええと…うーん、分からない。何?」
「今夜の天気さ。
冬なのに、こんなに波も風も穏やかな夜は珍しいよ。
お前は戦女神なだけじゃく、幸運を呼び寄せる姫神なんだね」

望美は思わず、くすっと笑ってしまう。
「もしも今夜、海が荒れていたらどうしたの?」
ヒノエは片目をつぶってみせた。
「もちろん、その時のことも考えてたさ」
「どんなこと? 教えてくれる?」
「ひ み つ」
「ええーっ」
「手の内を全部明かしたら、姫君だってつまらないだろ?」
「そういえば、そうかも…。
じゃあ、これから先のお楽しみってことだね」

「ああ、来年のクリスマスも、その次の年も…
うんと楽しみにしてるといいよ。
…オレの神子姫様」
「うん、ずっと…ずっと楽しみにしてるよ、ヒノエくん」

ヒノエは望美の頬に手を滑らせた。
「でも、先のことなんて、今は考えなくていいんだよ」
おとがいに指を添えて、顔を上向かせる。

「え…? 何…? だめだよ、みんながいるんだし…」
慌てて逃げようとする望美の肩に腕を回すと、
ヒノエはもう片方の手を上げて、指を鳴らした。

「野郎共、空を見ろおおおおっ」
副頭領が真っ先に天を仰ぎ、号令を発した。

「おうっ!」
水軍衆が揃って見上げた空には満天の星。
二十五日の下弦の月は、まだまだ上がってはこない。





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ヒノ望「聖夜」の1年後という設定で書きました。
頭領、今回はクリスマス・クルーズをプレゼントです。
ヘリをチャーターしたくらいですから、
これくらいは朝飯前かと。

09.12.23 筆