七 夕(熊野便り2 〜秋〜)

(ヒノエ×望美無印ED後)



伸びやかな声が、ゆるやかな旋律を口ずさんでいる。
夕暮れの庭に立ち、望美が空を見上げながら歌っているのだ。
それは、ヒノエの知らない遠い世界の歌…。

ヒノエは木の陰で足を止め、その声にしばし耳を傾けた。

庭に立てた大きな笹が、海へと吹く夕風に揺れてさやさやと鳴り、
一つ二つと星の輝き始めた空には、半月が高く上がっている。

この空模様ならば、天の川に隔てられた二人は、
無事に逢瀬を果たすことができるだろう。

そしてこの地上でも、今宵は久々の逢瀬が叶う。

内密の交渉事で遠出し、急いで取って返して熊野三山で夏越の祓えを行い、
さらにその足で何カ所か回って来たため、
望美とは半月ほど会っていない。

ヒノエはそっと足を踏み出した。

その時、歌がぴたりと止み、望美がくるりと振り返った。
「お帰りなさい、ヒノエくん!」

「ただいま、姫君」
広げたヒノエの両腕に、望美が飛び込んでくる。

「オレがいることによく気がついたね」
「うん、後を取られないように気をつけてるから」
「それはオレ以外の男に…だろ?」
「ん……」

長い長い再会の儀式が終わると、
「ねえ、こっちだよ」
望美は上気した頬のまま、ヒノエの手を引いて笹の下に導いた。

「ヒノエくん、笹飾りを見て!」
「野郎共から話は聞いているよ。
お前の世界の風習だそうだね」
「そうだよ。水軍の人達と、烏さん達にも短冊を書いてもらったんだ」

その笹竹は、水軍衆が切り出してきたものだ。
特別に大きくて立派なものを選んだに違いないが、
ぎっしりと吊された飾りと短冊で、枝が大きくしなっている。

「野郎共は、楽しいことには大喜びで乗るね」
「うん。話をしたら、みんなすぐに賛成してくれたよ。
笹も飾りもあっという間に集まって、みんなで一緒に願い事を書いたんだ」
「ははっ。野郎共の願い事か。
熊野男の願いは、だいたい想像がつくってね」

ヒノエは近くにある短冊を見た。
――大漁祈願
――海上安全
――交易繁盛
――情報網強化

「へえ、けっこうマジメなこと書いてるじゃん」
「あ、その辺はたしか、副頭領さんとか烏さんとかの短冊だったと思う」

「こっちはどうかな」
――あの娘とうまくいきますように。もうフラれたくない
――頭領並とは言いません。でも、少しでいいからモテたいです
――男が一人、数多の星々を見上げる時、それはうんたらかんたら
――もっと××が××な××に…
――今度こそ××が××に×××……

「姫君、こっちのは読んじゃダメだよ」
「え? どうして?」
「野郎共は好きにさせておけばいいってこと」
「ふふっ、ヒノエくんらしいね」
「興味があるのは、野郎共より姫君の願い事だよ。
でも、それらしいのが見当たらないんだけど」

すると望美は笹の脇に置かれた台の上から
色鮮やかな赤い短冊を取り上げてヒノエに渡した。

「はい、これ。
今日中に戻るって聞いていたから、
二人一緒の短冊にしたいなあって思って待っていたんだ。
ヒノエくんに名前を書いてもらえば完成なんだけど」

その短冊には不思議な形が描かれている。
上の方に扁平な三角があり、そのてっぺんから下に向かって長い線が引かれ、
片側には「望美」と書いてある。
その絵の意味を、ヒノエは知っていた。以前、望美に教わったのだ。

「これはサイコーの願い事だね」
ヒノエは自分の名を線の反対側に書いた。
そして三角の上にハートも書き添える。
「この形で合ってるかい、姫君?」
「うん、これで完璧!!」

「じゃあ、後はこうするだけってね」
ヒノエはそう言うと、望美の膝を支えて高く持ち上げた。
「きゃ! ヒ、ヒノエくん…な、何を」
「オレ達の願い事は、高いところに置きたいだろ?」

いつの間にか半月は傾きかけ、
真上を見れば、笹の葉越しに光る星々が、
空一面に金砂銀砂を散らしたように輝いている。

「金銀砂子…か。さっきのお前の歌の通りだね」
「ヒノエくん、歌も全部聞いていたの?」
「ああ、もちろん。愛らしい声に聞き入っていたよ」
「ねえ、もう短冊は結んだから、下ろして」
「さてね、どうしようかな。
もう少し、星空に浮かぶ姫君の輪郭を…」

その時、愉快そうに笑う声がした。
母屋から続く渡り廊下に、紙燭を掲げた若衆を従えて、湛快がいる。
「おう、久しぶりだ。相変わらず仲がいいな」

「きゃっ」
「何だよ、親父。いい所に出てくるなよ」

「そんなに冷たいこと言うなって。
俺ぁ、宴の支度ができました…と、
水軍の頭領に伝えに来ただけなんだが」
そう言って湛快は顎に手を当て、にやにやと二人を見る。

「こういう時には気を利かせて遠慮するもんだぜ」
「遠慮してたら、明日の朝になっちまうだろうが」

その言葉に、ヒノエが真顔になった。
「急ぎならそう言えよ。何があった」
湛快はひょいと肩をすくめて、懐から折りたたまれた紙を取り出した。

それを受け取り、ヒノエが広げてみると、
紙には何も書かれておらず、烏の羽根が一枚あるだけ。

「これはどこに?」
「お前の神官装束を入れた荷の中で見つかったそうだ」

ヒノエは羽根を手に取り、若衆の持つ紙燭の光に透かした。
そして、何事もなかったかのように望美に笑顔を向ける。
「じゃあ、行こうか。野郎共を待たせると後がうるさいからね」

「ヒノエくん、いいの? 急ぎって言わなかった?」
「明日の朝まで考える時間ができたってことさ。
親父の言った言葉の方が正確だ」
「やけに素直じゃねえか。お前も大人になったな」
「うっせえ、親父。姫君、気にするなよ」

そっくり親子の遣り取りにくすくす笑っている望美の手を取り、
ヒノエはすたすたと歩き出す。

一陣の風が吹きすぎ、笹竹がざわざわと鳴った。
問題が起きれば、熊野別当には昼夜の別なく報せが入る。
穏やかなこの夜もまた、例外ではなかったようだ。

だからこそ、一緒の時間が愛おしい。

「ねえ姫君、月が沈んだらまたここで星を見ない?」
「うん! あ…でも、考えることがあるんじゃない?」

ヒノエは望美の唇を人差し指でそっと押さえた。
「そんなことは言いっこなしだよ。
神子姫様と一緒の方が、いい考えが浮かぶってね」
ぱあっと輝いた笑顔が、何よりうれしい肯定の返事。

「秋だってのに、どうも暑くていけねえ」
前を歩く湛快は小さく呟き、ひょいと肩をすくめた。





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7月7日合わせを目指して書きましたが、
遅刻してしまいました(汗)。

内容的には、オフ本「熊野便り〜初夏〜」の続きです。
ただ、前振りを受けている部分はほとんど無いので、
これだけで支障なく読んでいただけると思います。

2011.07.10 筆