比 翼 

− 余 話 −

一夜の夢に

この話の背景は、「比翼」第5章 「4.出立の時」の後の熊野です。
本編第5章の著しいネタバレが含まれますのでご注意下さい。



「オレ達も行くぜ! 野郎共!!」

望美を乗せた熊野水軍の船団を見送ると、ヒノエは直ちに動いた。

副頭領達と共に田辺に取って返す。
田辺は、熊野別当ヒノエの本拠地だ。
別当の館には、緊急招集した水軍衆と烏たちが一堂に会し、
ヒノエの到着を待っていた。

ヒノエが姿を現すと、水を打ったような静けさが支配する。

館の広間を埋め尽くした人々を見渡すと、ヒノエはよく通る声で彼らに語りかけた。
「この中で、明日が来なくてもいいって思うやつはいるかい?」

思いもかけない質問に、当惑のざわめきがさざ波のように広がる。
しかしもちろんのこと、ヒノエの問いに賛意を示す者は誰一人としていない。

ヒノエは言葉を続けた。
「ではもう一つ、聞くよ。
熊野の地が蹂躙され、神々までもが滅していくとしたら、お前達はどうする?」

ざわめきは、どよめきに変わった。早口でまくしたてる声に怒声までもが入り交じる。
副頭領は胃を押さえ、ミサゴはヒノエに、目顔で問いかけた。
しかし、この混乱は予想通りのこと。
ヒノエは、介入の必要なしと、小さくかぶりを振って答え、
表情一つ変えずに片手だけをすっと前に出した。
無言の所作にも関わらず、皆、一斉に口を閉じる。
ヒノエは、何事もなかったように話を続けていく。

政子の正体を知っていることは、鎌倉に対抗するための大切な鍵。
当然、それを彼らに明かすことはしない。

しかし、確実なことが一つある。
――荼吉尼天という名の「神」との戦いは、もう始まっているのだ。

ヒノエは皆に告げた。
遠からず異国の神が熊野に現れる、
そして、この禍々しい神に勝たなければ、熊野は滅びる、と。

広間は騒然となった。
にわかに信じられる話ではない。
百歩譲ってその通りとしても、神と戦うなどあり得ない。
怒号が飛び交う混乱の中、ミサゴが懐に手を入れながら場所を移動し、
副頭領がうっそりと立ち上がろうとした。
しかしヒノエは、軽やかな身ごなしで上の座から下りると、
混乱の只中にすたすたと歩み入った。
そして何も言わず、興奮して騒いでいる者を一人ずつ、静かに見据えていく。

真っ直ぐな視線の強さに気圧されたか、
それとも、ヒノエの放つ不可思議な力に圧倒されたのか、
一人、また一人と、立ち上がっていた者達が腰を落とし、
ほどなくして広間は元の静寂を取り戻した。
彼らの上に、ヒノエの声が響き渡る。
「野郎共! 熊野の誇りはどうした!」
皆が一斉に身を縮めた。

しかし中の一人が皆の気持ちを代弁して言う。
「神様に、勝てるんですか…」
不敵な笑顔で、ヒノエは満座をゆっくりと見渡した。
その笑みに魅入られたように、視線が集まる。
「ああ、勝てるさ」
ヒノエはきっぱり答えると、身を翻して上の座に戻った。

「いいか野郎共、お前達はそのために集まってるんだ。
お前達には、これから大切な役目をやってもらうよ。
これは、武器のない総力戦なんだ」
「武器がない?」
「素手で神に立ち向かえと言うのですか」
「いや、オレ達には、武器なんかよりずっと強いものがある。
それが何か、分かるかい?」

神職であるヒノエが神と戦う。
このことを皮肉…という言葉で例えては、あまりに浅薄であろう。
しかし、ヒノエに躊躇いはない。

真剣に耳を傾けている一同に向かい、ヒノエは言った。
――唯一、神に抗することができるのは、人の心だ、と。
熊野に生きる人々一人一人に、伝えなければならない。
熊野を守る、祈りの言葉を。
誰もが抱くささやかな願いを祈りの言の葉に乗せ、
熊野を祈りで満たすのだ。



しばしの後、別当館に野太い声が谺した。
「行くぜ、野郎共!! 熊野を挙げて、神を迎え撃つ!」
「おおうっっ!!!!」

心が一つになれば、後は実行あるのみ。
ヒノエは次々と指示を出し、各自は自分の役目を理解した。

これは、時間との戦いだ。
マハーカーラの真言を、熊野の人々にあまねく知らしめるには、
どれほどの時間が必要なのだろうか。

だが、ヒノエはすでにその答えを出している。

海沿いには水軍を、山中の村々には烏を派遣し、
彼らから真言を人々に伝えるのだ。

ヒノエの指示により、その場の者達は二組に分けられた。
一つは、先触れとしてここからすぐに出発する者達。
もう一つは、真言を伝える役目を担う者達だ。

先触れの役目の者は、行き先を指示されると次々に館を出て行く。
村を一つずつ回っていたのでは、きりがない。
また、烏や水軍がいきなり訪れたのでは、話をきいてもらうまでに時間がかかる。
そこで、先触れの者が、あらかじめ村の長に話を通しておくのだ。
その上で、近隣の村々からも、長と一緒に心利く者を数名ずつ、集めておいてもらう。
そうして準備が整ったところで、真言を伝える者達がやって来て、
入れ替わりに、先触れ役の者は次の村へと移動していく、という手筈だ。

ヒノエは、村の長の名を一人ずつ淀みなく挙げては、
その村や村長と縁のある者を、先触れの役に指名していく。
しかも、彼らが一刻も早く出立できるよう、
遠い場所にある村から順に、指示を出している。

――この方は、どこまで深く熊野のことを…。
老練な者も壮年の者も、眼前の若き別当に畏怖にも似た思いを抱き、
しわぶきの音一つ立てず、ヒノエの話に耳を傾けていた。



しかし、熊野は広い。
田辺に集まった者達が回ることのできるのは、ごく一部だけだ。
来る日も来る日も、ヒノエは熊野を移動しては、同じ集まりを各所で行っていく。
どこにあっても、人々の心を惹き付け、一つにしていく手腕は見事だが、
ヒノエについて回っている副頭領は胃を痛くし、
顔にこそ出さないが、ミサゴにとっては緊張と安堵の連続だ。

だが、ヒノエのなすべきことは、これだけではない。

鎌倉の動静を、常に把握しておかなければならない。
特に注意すべきは、北条政子の動きだ。
烏の情報網から、時を選ばず報告が入ってくる。

それに加え、熊野別当、水軍頭領としての日常の役目もきちんと果たすのは当然のこと。

すでに、熊野三山を始めとする格式ある神社、寺院を説き伏せ、
協力の約束を取りつけていることが、せめてもの救いか。
そのために、水軍の出発に際しては準備万端を湛快に任せていた。
この間に、ヒノエは自ら寺社に赴き、礼と言と策を尽くして説得に当たっていたのだ。

不眠不休――望美が出発した後のヒノエは、まさにこの状態が続いている。
そして休息を取れる状況ではないことを、ヒノエ自身が一番よく知っている。

しかし、政子が伊勢へ向かったという報告の入った日、
副頭領がいつになく厳しい態度でヒノエに言い渡した。

「頭領、今夜くらいはゆっくりお休み下さい。
休んで下さらないと、水軍衆も烏も働くのを止めると言っております」
副頭領は仁王立ちになって腕を組み、断固として引かぬ構えだ。
「水軍と烏が結託して、真っ向からオレを脅すのかい?」
「脅しと懇願両方です。何とぞっ!!」
仁王立ちから、一気に身を伏せ、副頭領は土下座した。



そして結局、ヒノエは強制的に勝浦の別当屋敷まで運ばれた。

よい部下に恵まれたことに感謝しながらも、
突然訪れた空白の時間が、かえって辛い。

遠く離れた望美への想いが、胸を刺す。

これは熊野の試練。そして、オレ達の試練だ。
一緒に乗り越えようと、二人で誓った。
それなのにオレは今、安全な別当屋敷で休んでいる。

ヒノエは唇を噛んだ。

今夜はちょうど、熊野の船団が鎌倉に着いている頃だ。

お前は今、頼朝と対決しているのか。

たとえリズヴァーンがついていても、
大倉御所に乗り込んで無事でいられる保障はない。
それは危地というより、死地。

そして母を脱出させるため、朔は敦盛と一緒に梶原邸に向かっているはず。
御所から頼朝を連れ出し、朔達と合流して沖の軍船に戻る……。
言うは易く、行うは……不可能に限りなく近い。

しかし、奥州に向かった鎌倉軍を止めることができるのは、
頼朝自身を置いて他にはいない。
休戦の書状を書かせる程度では、後から如何ようにも取り消しができる。
また総大将景時は、休戦の書状が届いたとしても、偽書、あるいは脅しによるものと断じるだろう。
奥州の軍が唯々諾々と休戦に応じるかどうかも疑わしい。

オレが代われるものなら――
その思いが、胸をきりきりと締め上げる。

しかし望美は自ら困難へと向かうことを決断し、
一歩も譲ることはなかった。

――望美、お前は、あの時の言葉をそのまま果たしているんだね。

庇の柱に寄りかかり、ヒノエは中天の月を仰ぎ見た。

それは去年の夏のこと。
アザミとの戦いから戻ったヒノエを湊に出迎えて、望美は言ったのだった。

――「私にも、少しだけ手伝わせて」
   「姫君?」
   「ヒノエくんは、熊野っていう、すごく大きくて、
   大切なものを背負ってるんだよね。
   それは、誰も代わることができないものなんだって、分かってる。
   でも…、そんなヒノエくんを見てるだけなんて、私はできない。
   だから……つらい時には、私にも…あなたを支えさせて」

今思えば、あの時の事件は、始まりにすぎなかった。
そして一年と経たぬ内に、奥州をも巻き込み、
間もなく終幕を迎えようとしている。
熊野、奥州、鎌倉、いずれが勝つことになるのか。
いや、揺るぎない意志と意志のぶつかり合いに、勝者などいるのだろうか。


頭を巡らして遠い島影に視線を移した時、ヒノエは柱の小さな傷に気づいた。

それは望美の爪がつけた傷痕。
湊から戻り、やっと二人きりになれた夜に、ついた傷だ。

あの夜も、ヒノエは同じように柱に寄りかかり、
隣には望美がいて、二人は一緒に月を見ていた。

ヒノエの肩に頭をもたせかけていた望美がふと、顔を上げた。

「ヒノエくん、去年より背が高くなったんじゃない?」
月の光よりも透き通った瞳が、ヒノエを見上げている。

――お前は、去年よりきれいになったよ。
心の中で答えながら、
「ふうん」
ヒノエがわざと気のない返事をすると、望美は少し不満げな顔をした。
「ヒノエくん、気づいてなかったの?」
そして、腕を伸ばして柱に指の先を当てる。

「去年はこれくらいだったんだよ。ちゃんと覚えてるんだから。
そして今は…」
柱とヒノエを交互に見やりながら、望美は一生懸命説明する。

「ね? 分かった?」
月明かりが零れたような笑顔が愛らしくて、腕を回して強引に引き寄せると、
望美の爪が、かりっと柱を引っ掻いた。

「あ…柱に傷を…」
続く言葉を唇で遮り、そのまま部屋の中に倒れ込んで…。

痛みにも似た甘い疼きが、ヒノエの身体を突き抜けていく。

胸に寄り添うあたたかな身体は隣にいない。
甘やかな吐息も、遠い。

こんなに長い精進潔斎は初めてだ……。

それでも冷たい褥に顔を埋めれば、かすかな香を感じる。
それは、望美の残り香か、自分の熱い想いが立ち上ったものか。

想いの募るままに、身体を焙る熱に身を任せると、
ヒノエはいたずらっぽく微笑んだ。

――望美……これからお前の夢に忍んでいくよ。
お前を抱きしめて、愛の言葉をささやくから、
花よりもきれいな笑顔を見せて、柔らかな胸にオレを迎え入れて。
ね、オレの姫君……。





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本編では、望美ちゃんを送り出した後の熊野のことは、
荼吉尼天戦の種明かしになるのであえて書きませんでした。
余話とはいえ、前半が本編ちっくなのは、このためです。
奥方が大変な間、ヒノエくんもすっごくガンバっていたのでした。

でもまあ…淋しいのは仕方ないですよね。
夢の中にでもどこにでも飛んでっちゃって下さい、別当様。


というわけで、ヒノエくんが逢いに来た?翌朝……

「望美、どうしたの? 起きたばかりなのに顔が真っ赤だわ」
ぶんぶんぶんっと、望美は首と手を同時に振った。
「なっ何でもないの。ちょっと夢を…」
「夢…? 夢でそんなに赤くなるなんて…あ、あらやだ私…」
朔も頬が赤くなる。
「ごめんなさい。私、知らずに意地悪を言ってしまったようね」
「そっ…そんなんじゃないから、べっ別に気を遣わなくても…って、
朔ってば、何を想像して」
「違うの?」
「違わないけど…」
そこへ、頬を染めた朔母も登場。
「若い方はいいわね。私まで胸がときめくようですよ」
「違います〜」
「違うのですか?」
「いいえ…そうじゃなくて」

ヒノエくん、夢の中でどんな振る舞いに及んだのか……。


2009.9.26