八月の雨の夜

(リズ×望美・「迷宮」ED後)


夕刻から降り出した雨が、暑い夏の夜に少しばかりの涼しさをもたらしている。
繁華な表通りから一筋入った小さな路地の突き当たりで、
リズヴァーンは傘を閉じた。
古い建物の古い階段を下りた先には、重そうな木の扉がある。
横には控えめに「BAR る・いーだ」という看板。

扉を開けばいつものように、ピアノの生演奏が静かに流れている。
演奏者もいつもの中年男性だ。
恰幅のいい身体を少し前屈みにして、熊のような手で物憂げな曲を奏でている。
カウンターの中から、マスターが会釈した。

リズヴァーンも軽く会釈を返しながら、いつもの席に座る。
鍵の手に曲がったカウンターの一番奥。
照明の陰になっていることもあり、目立たぬ場所だ。

そしていつものように、リズヴァーンの前にグラスが置かれる。
軽くグラスを上げ、リズヴァーンはきりりと冷えた液体を口に含んだ。
小さく微笑んだリズヴァーンに、マスターは小さく頭を下げる。

その時扉の開く気配がして、かすかに夜気が流れ込んできた。
マスターがそちらに向かい、会釈をする。
ちらりと眼を走らせると、入ってきたのは夜空の色のスーツを着こなした
年の頃、二十二、三の髪の長い若者だった。

若者はリズヴァーンの隣で足を止め、
「失礼します」
礼儀正しく断りを入れてスツールに腰を下ろす。
「いらっしゃいませ」
マスターが控えめな笑顔で挨拶をした。

と若者は、リズヴァーンへの折り目正しい態度はどこへやら、
「ああ〜〜マスタ〜〜」
突然情けない声を出すと、カウンターに肘をついて額を押さえた。
「また雨が降るなんて…」
「お見えになる頃かと思っておりました」
「ううう……いつものお願いします」
「かしこまりました」

奇妙な会話だが、何となく話が通じているところをみると、
若者は顔なじみの客なのだろう。

若者は美しい顔立ちをしていて、よく手入れされた髪、上質な生地で仕立てた服に
均整の取れた身体つきの持ち主だ。
だが非の打ち所がない外見にも関わらず、何とも頼りない風情がある。

マスターがグラスを置くと、若者は
「いただきます」と頭を下げて一気にくぴっと飲み干した。
「マスター、お代わりお願いします」

少々うるさい隣人だが、リズヴァーンがこの程度のことで心を煩わされることはない。
手の中のグラスに眼を移し、一人の時間に戻る。
リズヴァーンはこの夏のことを思い返していた。

「高校の夏休み」というものは、楽しかった。
毎日のように、朝から日の暮れるまで望美と一緒に過ごすことができた。
しかしそれももう終わり近い。
望美は学生に等しく課せられる「宿題」なるものをおろそかにしてきたらしく、
今になって焦っている。

「ああ〜、せっかく先生と一緒にいられるのに宿題がああああっ!!」
「落ち着きなさい、神子。
お前をここまで追い詰めた責任の一端は、私にある」
「いいえ…先生は、『学生の本分を忘れてはいないか?』って、
夏休み中に何度も言ってくれたのに……」
「『大丈夫です(にっこり)』というお前の言葉を、
根拠のない自信だと察することのできなかった私にも、落ち度はある」
「ううう…根拠はあるつもりだったんです」

「よい考えがある。これから毎日、神子は宿題をやりなさい。
それが終わるまで、でえとは無しだ」
「えええ〜〜〜っ!!! そんなのいや〜〜〜〜っ!!!」
「私は、神子が宿題を終えるまで側で見守ろう」
「きゃっ♪ それならいいです。
おやついっぱい買って、先生の家に行きますね」
「いや、だめだ。図書館に行く」
「え? 図書館て…」
「図書館は、書物を貸し出すばかりではなく、
勉強をする場所も提供していると敦盛から聞いた」
「くっ…敦盛さん…そんな情報を漏らすなんて」
「敦盛に怒りを向けるのは筋違いだ、神子。
将臣と譲も同じ事を言っていた」
「でも図書館ではおしゃべりできません。
おやつが食べられませんあれもこれもできません」
「だからだ、神子。やるべきことから逃れようとしてはいけない。
無駄な抵抗は止めなさい」
「……はい」

そして今日は、望美と一緒にずっと図書館で過ごした。
腹をくくったとみえ、望美はすごい集中力で宿題をこなしていく。
この速さなら、無事終えることができるだろう。
目途がたったことでさらに勢い付いた望美は、
家の前まで送ったリズヴァーンに、別れ際にきっぱりと宣言した。
「今夜も続けてがんばります。
早く終わらせて、夏休みの間にもう一度先生とデートしたいから」

――私も楽しみにしている。
お前ならば、必ずやり遂げるだろう。

望美のあれほどに真剣な顔を、久々に見た。
きれいな横顔だった。
あの時と変わらず……ぽっ……

と、リズヴァーンのとりとめない思いが、隣の若者の声に断ち切られた。

「逢えない…って、つらいですよね」

眼の前にマスターはいない。
若者の反対側に座っているのは二人連れの老紳士で、
昔話にまったりと花を咲かせている様子。
となると…

「私に同意を求めているのだろうか」
「そうですよ〜」
若者はしょんぼりとうなだれながら、両手でグラスを握りしめている。

「同意できるかどうか、今の言葉だけでは判断できないのだが」
リズヴァーンは冷静に答えた。
若者はその言葉に眼をぱちくりさせると、リズヴァーンを凝視した。
「あのお、どこかでお会いしましたか?」
「初対面だ」
「そうですよね、うん、そりゃあそうです。すみません」
若者は盛大にため息をつき、ひどく悲しげな顔になった。
「何だかもう、どうしていいか分からなくて」

今度は同意ではなく、助言を求められているのか?

リズヴァーンの眼に浮かんだ表情に気づいたらしく、若者は慌てて言葉を続けた。
「いえ、何て言うかその…奥さんが実家に戻っちゃて…」
そして、泣きそうな顔になる。
「向こうのお父さんがすごく怒ってて、なかなか逢わせてくれないんですよ」

やっと合点がいった。
この若者は、妻に会えないことがつらい、と嘆いていたのか。
「父君の怒りにはそれ相応の理由があるはず。
それは問い質したのだろうか」

若者はがっくりと肩を落とした。
「ええ、聞いてみました。でもあんまりなんですよ。
私が頼りないとか、遊んでばかりいるとか、娘を預けるにはふさわしくないとか。
確かに、新婚時代は幸せのあまりすっかり浮かれてて、
仕事サボって奥さんと遊びに行ったりとか、しょっちゅうでした。
でも、娘が幸せそうにしてるんだから、
じきに落ち着くだろうくらいに思って、大目に見てくれればいいのに。
それなのに、あっという間に奥さんを実家に連れ戻しちゃったんですよ〜」

リズヴァーンはきっぱりと断言した。
「やるべきことから逃れようとする者に、幸福は訪れない」
若者は不服そうな声を出す。
「同じこと言われました。何だかなあ、おじさんて、みんなそうなのかなあ」
「人のせいにしても、何も変わらない。
過去を省みたなら、それを言い訳にするのではなく、
自らの糧とすべきではないのか」

「……あなた、この時代の人なのに、難しい言い回しをするんですね」
若者は首を捻った。
「ええと、つまりこういうことですか?
反省は今後に生かせ」
「うむ」

若者は悲しげに首を振った。
「それくらい、猿じゃないんですから私だってやりました。
お義父さんに認めてもらおうと思って、一生懸命働いてるんですよ〜。
危ない橋を渡って落ちたり、それこそ必死でがんばり続けてます。
そのご褒美に、短い時間ですけど、奥さんに逢わせてもらえるんですから」

「許しがあるまで、逢えないのだな」
「ええ、そうなんですよ。だからつらいんです。
こんなに愛してるのに……」

望美と初めてまみえた僅かな時間。
その後に訪れた、三十年の時間。
思い続け、待ち続けた時間。
いつか再び会う時のため、自分に与えられた大切な時間。

リズヴァーンは静かに言った。
「父君に認められるために、努力しているというのか?」
「そうですよ。私を見直してもらわなければ、奥さんを取り戻せないんですから」

青い瞳が、若者の黒い瞳を凝視する。
「父君の眼に映る姿が立派であるなら、それでよいと?
うわべを取り繕ったところで、本質は変わらぬ。
己自身を磨かずして、嫁御にふさわしい男と胸を張ることができるのか」

若者は息を止めた。
「……ええと、つまり…
お義父さんの眼から見てどうのこうの言う前に、
自分がもっとちゃんとした男にならなきゃいけない…ってことですか」

リズヴァーンは頷く。
「自分をよく見せたいというその心根を、父君は見抜かれているのだろう」
そして小さく微笑んだ。
「逢えぬ時間は、貴重だ」

若者はグラスを握りしめたまま、リズヴァーンの言葉をかみしめる。

ピアノの物憂げなメロディが、明るいものへと変わった。
リズヴァーンのグラスの中で、氷がカラン…と音を立てて回る。

「あ!」
何かに驚いたように、突然、青年は顔を上げた。
「雨が…止んだ」
その眼は、壁一面に並んだ酒壜を透かして、
どこか遠くを見ているようだ。

青年はそそくさと立ち上がり、カウンターに代金を置く。
「ありがとう、マスター。
今年のカクテルも本当においしかった」
「何よりのお言葉でございます」
マスターは穏やかな笑みと共に頭を下げた。

青年はリズヴァーンに向き直り、少し恥ずかしそうに言った。
「あの…お礼を言わせて下さい」
「何だろうか?」
リズヴァーンは訝しげに問う。
青年は、先ほどまでの沈んだ顔とは別人のような笑顔を見せた。
「がんばってみようと思うんです。まず、自分を変えるところから」
リズヴァーンは微笑んだ。
「そうか」
「ええ、嘆くばかりじゃだめですよね。
最初に期待を裏切ったのは私なんですから、自業自得だったんです。
これからは命がけでがんばりますよ。
人に認められるためじゃなく、私自身が一人前の男になるために」

若者は席を立ち、重い木の扉を開けて出て行った。


リズヴァーンは思う。
――言葉も態度も、頼りないやわな男…という様子だったが、
不思議な雰囲気を纏っていた。
ここにいながら、ここにいないかのような……。

マスターは残されたグラスを片付けている。
リズヴァーンは独り言のように呟いた。
「…なじみのようだな」
マスターも、答えるともなく答える。
「左様でございます」

リズヴァーンはそれ以上何も言わず、グラスを口に運んだ。
マスターもそれ以上言葉を重ねることはない。
それが、心地よい。

マスターは慣れた手つきでグラスを磨きながら、
人には語ることのない思い出を辿っていた。

この店を開いたのは、三十年ほど前の八月の今頃。
まだ頭には一本の白髪もなく、顔の皺も刻まれてはいない頃だった。

その日はあいにくの雨で、路地裏の目立たない店の扉は
いくら待っても閉じたまま。

初日からお客様が来ないなんて、さい先悪いな……。
夜も更けて、重い気持ちで店を閉じようとした時、
『はあ〜ひどい雨だな〜』
そう言いながら入ってきたのが、あの若者だった。
開いた扉の向こうからは、土砂降りの雨音が聞こえていたのに、
傘も持たず、濡れもせずに。
そして若者につられるように、他の客も次々と入ってきた。

若者はその後、数年に一度、時には毎年、同じ時期になると来るようになった。
来る度に、雨を嘆きながら。
しかし…
リズヴァーンと青年のやりとりは、耳をそばだてずとも、マスターに聞こえていた。

――もう、ここに来ることはないのかもしれない…。

マスターは青年が払っていった「お勘定」を掌に載せた。
彼がいつも置いていくのは、きらきらと光る黄金の粒。

――どうぞ、お幸せに……。

瞑目し、小さく祈ったマスターに、
グラスを置いて立ち上がったリズヴァーンが言った。
「来年は、二人連れで来るのだろうか」

来年…
何も語らなかったのに、リズヴァーンはその言葉にかすかな重みを付けている。
マスターは穏やかに微笑んだ。
「はい、その時が待ち遠しゅうございます」



リズヴァーンが外に出ると、あの青年の言ったとおり、雨はすっかり止んでいた。
空気がひんやりと心地よい。

半月はもう没したのだろう。
細い路地の上に僅かにのぞく夜空には、満天の星が光り、
天の川が、淡い紗を流したようにぼんやりと白く輝いている。

神子の世界では八月の終わりだが、
あの世界の暦では、今日は……。

星の河に隔てられた恋は、幾千年続いているのだろうか。


――何者にも妨げられることなく、明日もまた望美に会える。
そのことを思うだけで、リズヴァーンの心はあたたかいぬくもりに包まれていく。

静かな雨上がりの道を行くリズヴァーンを、
降るような星明かりが照らしていた。






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「る・いーだ」奇譚といった感じで書いた、
旧暦合わせの七夕話でした。

マスターの懐の深さに乾杯。

青年がリズヴァーンに感じた意味不明な既視感の理由は、
別の話で明らかになる…予定です。


2009.8.5 筆 / 8.11 加筆