うっすらと夜が明け初める頃、
私は小さな御堂で一人合掌し、待っていた。
すでに準備は整っている。
小さく古い御堂の中を見回せば、隅々まで塵一つ無く清められ、
あとは今日の坐禅体験者達を待つだけだ。
「よし!」
小さく声に出してみる。
ぶるっと震えたのは明け方の寒さのせいではなく、武者震いだ。
今日、初めて体験者達の付き添い役を務めることになった。
手に持っている警策を使うのも、もちろん今日が初めてだ。
体験者を担当する順番は決まっているのだが、
たまたま宗派の集まりと重なったり、
頭痛だったり、歯が痛んだり、腹痛だったり腰痛だったりと、
全員が都合悪くなったので、若輩者たる私にその役目がまわってきたのだ。
とにかく、まだ修行を始めて十年足らずの身に、こんな機会はめったにない!
ぶるっ!
いけない…すぐに熱くなるのは悪い癖だと分かっているのだが。
でもなあ…
私は元々、熱血武道系だったのだ。
小さい頃から剣道一筋、
当然部活だって中学高校大学まで剣道部だった。
部員を率いて全国大会を勝ち進んだ時の記憶がよみがえり、
思わず全身に力が漲る。
よしっ!がんばるぞっっ!!
ふんぬっ!!
気合を入れた時に、
ごと……と御堂の扉が開いた。
ぎょろりと鋭い目をした中年の僧侶が、苦虫を噛み潰したような顔で入ってくる。
い…いけない…見られてしまった…。
しかしここで取り乱すわけにはいかない。
先輩僧侶の後ろには、本日の体験者達がいるからだ。
皆、あらかじめ教えられた通り、入り口で礼をしては次々と入ってくる。
まずは、全員が坐禅の体勢に入るのを手伝う。
これに、けっこう時間がかかるのだ。
初めてのことで緊張しているうえ、慣れない所作ばかりで、
ぎくしゃくとぎこちない。
おまけに結跏趺坐など簡単にできるわけもなく、
身体の固い人は、無理をせず半跏趺坐をしてもらう。
入り口から射す光が一瞬、暗くなった。
体験者の最後の一人が、入り口をくぐって入ってきたのだ。
まさに、くぐると言う言葉が相応しく、その体験者は見上げるばかりの偉丈夫。
金髪碧眼の、外国からの観光客とおぼしき人物だ。
しかし……
私の目はごまかせないぞ!
この外人さんは、武道家だ。
この姿勢、歩き方、身ごなし、どれをとっても凄いものがある。
ぶるっ!!!!
ぎょろり!!
あ、また睨まれてしまった。
でも、気になる…。
そう思ってちらっと目をやると、青く鋭い眼と視線がぶつかった。
ごめんなさい…。
こっちの視線に気づいていたのか。
思わずびびってしまう。
作法に従い、丁寧に合掌低頭すると、
その外人は、流れるような一挙動で結跏趺坐した。
印を結び、姿勢を正し、眼を半眼に閉じる。
すうっとその気が収斂していく。
ほどなくして、やっと全員が坐禅の態勢に入り、
堂内に開始の合図が響いた。
ぎょろり!と目を光らせ、中年の僧侶がその場を辞する。
ああ、あとは私一人だ。
ぶるっ!
これで心おきなく、武者震いできる。
……じゃなくて、しっかりお務めを果たすぞ!!
賑やかに鳴き交わす小鳥の声が聞こえてきた。
遠くで、自動車のクラクション。
堂内は静寂に包まれている。
唾を飲み込む音、乱れた呼吸の音まで、異様なほど大きく聞こえる。
姿勢が乱れた人の後ろに回り、肩にそっと警策を当てた。
その人は合掌して、身体を少し傾ける。
パシンッ!
何人かが、警策の音に身をすくめた。
しかし、あの外人さんは、真っ直ぐな姿勢を保ったまま微動だにしない。
固くなっているのではなく、どこにも無駄な力が入っていないのだ。
呼吸は深く、あくまでも自然。
私はゆっくりと歩を進め、その外人さんの真後ろに来た。
静かな背中だ。
しかし、隙がない。
剣道の試合を思う。
それでいうなら、私は後を取っているはず。
それなのに、打ち込めない。
いや、打ち込ませないのか。
動けない。
足が震えた。
武者震いではなく、格の違いを思い知らされたからだ。
もしもこの人と真剣勝負で相対したなら、
きっと、私は剣を抜くこともできないだろう。
自分の呼吸が乱れているのが分かる。
初めてだ。
こんな凄い人に会うのは……。
その時、外人さんがすっと身体を左に傾け、合掌した。
警策を受けたいという合図。
その人の右肩が、私に向かって開いている。
打ってよい…と言っているように。
心をこめて、警策を入れる。
澄んだ音が響きわたる。
今度は誰も、身をすくめることはなかった。
その人は再び合掌し、頭を垂れた。
何だろう……
この清々しく、穏やかな気持ちは。
私も静かに合掌する。
その人は身体を起こし、元と寸分違わぬ姿勢に戻った。
大きな背中が、私に問いかけている。
ああ……そうだったのか。
私はやっと気がついた。
警策を受けたのは、私の方。
私こそ、初心者に他ならなかったのだと。
リズ先生、坐禅に初挑戦。
でも、どこに行っても先生は先生(笑)ですね。
なぜ先生が坐禅の修行を始めたかといえば、
「VS 甘い誘惑」(@拍手)で、可愛い理由が明らかになっています。