VS 甘い誘惑



朝の街を、リズヴァーンは歩いている。
どこかに行くためではない。
帰途についているのだ。



リズヴァーンが 家を出たのは、まだ夜の明け初めぬ頃。
街灯が薄明るく照らす道を、急ぎ足で歩いた。

今は真冬。よく晴れて、寒い朝だ。吐く息が白い。
だが、リズヴァーンにとっては、何ということもない。
冬の厳しさは、鞍馬の冬に比すべくもなく、
さらには、「こおと」や「まふらあ」というものがある。

本当に、神子の世界は心地よいものに満ちている。

戦のない、穏やかな日々、
暖かな家、柔らかな布団という夜具、
病や飢えの影に怯えることもない。
身の回りのことは、洗濯機や掃除機が手助けしてくれる。

何より、鬼と呼ばれ、憎まれることもない。

暖衣飽食……。
夢にも見たことのない日々だ。

だからこそ
さらなる修行が必要だ。

この世界に来てまだ間もない。
学ぶべきことが限りなくあるというのに、
日々の心地よさに流されてしまったなら、
あの甘い誘惑に抗すべくもない。

神子のために、そして私自身のためにも、
私は己を律しなくてはならないのだ。

リズヴァーンは足を止めた。
眼前に長い階段がある。
登り切った先には、荘厳なる山門。

心を静め、山門に歩み入る。

「坐禅体験会」
堂々たる筆致で墨書された案内に従い、リズヴァーンは歩を進めた。





よい体験をした…。

坐禅で学んだあれこれを思い出し、
心に刻み直しながら、リズヴァーンは小さくつぶやいた。

周囲は朝の活気に満ちているが、
リズヴァーンの心は喧噪に煩わされることなく、
穏やかに充実している。

精神の修養として、またとない場であった。

帰り際に貰い受けた、定例の入門者会の案内状に眼を落とし、
次回の日時を確認しながら、ふと思い出す。

坐禅の場にあって、一人、静かな気を乱す者がいた。
あろうことか、それは入門者を導くはずの僧であった。

年若い僧侶だった。
なれば、まだ修行途上の身。 心を乱すこともあるのだろう。

しかし理由は分からぬが、導者の立場にあっては許されぬこと。

それは私も、同じ……。
リズヴァーンの表情が厳しくなる。

神子を導く身でありながら、心を乱してはならないのだ。

家に戻るとリズヴァーンは、深く息を吐き出し、
意を決して冷蔵庫の扉を開けた。

そこに、甘い誘惑がある。

リズヴァーンのために、望美が持ってきてくれた生チョコレート。
無くなると、すぐにまた補充してくれる。

心の中で己に問い、
リズヴァーンは一つだけ、その甘い誘惑を口に含んだ。

甘美な味覚。
口中でほどけていく苦みと、とろりとした甘さに陶酔する瞬間。

生チョコレートは、日を置けば、味が損なわれていく。
神子の心遣いを無にすることにもなる。

だが、一日に一つだけと決めたのは私だ……。
かつては何も知らず、一箱全部、食したこともあったが……。

リズヴァーンは、決然として扉を閉じた。




「神子、めたぼとは何のことか」
「ええと、確か、内臓脂肪がいっぱいになる…とか」
「……内臓死亡……。めたぼとは恐ろしいものなのだな」
「ええっ?!先生には全然関係ないですよ」
「いや、心しておく」
「??????」







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「VS 初心者」の、先生視点のお話でした。

こういう下心?付で行っても、
未熟者相手には、しっかり「先生」してしまうところが、
いじらしくもあり(笑)。

ともあれ、いたく気に入ったようですので、
この後、リズ先生は坐禅に通うことになるはず
……と、勝手に妄想しています。

しかし、「迷宮」CDの生チョコレート話を聞くまで
リズ先生が甘いもの好きとは、想像もしませんでした。



2008.6.11 拍手より移動