雨の日

― 「迷宮」第4章背景 ―



その日、景時は雨の音で目覚めた。

「いけない、寝過ごしちゃったかな」
しかし慌てて起き上がろうとして、あっけなく倒れてしまう。

「痛っ〜〜〜…」
刀傷の痛みと共に蘇る光景に、
景時は息を止め、腕で顔を覆った。

カチ・カチ・カチ…
枕元で続く、規則正しい音。
時刻を報せる小さなからくりは、休むことなく動いている。

目覚まし時計を手さぐりで掴み上げ、
薄闇にぼんやりと光る針を見て、
「え〜と、この針がこっちだと」…と考え、
今度こそ景時は跳ね起きた。

「痛っ! たたた!!」



障子を開け、有川家の長い廊下に出ると、
開け放ったガラス戸の前に、朔が佇んでいた。

家の中はしんとして人の気配はなく、
灯りも全て消えている。

景時に気づき、朔が振り向く。
「兄上、休んでいなくてよいの?」
「平気だよ〜、これくらい。で、みんなは?」
「もう出かけたわ」
「え〜っ、どうして起こしてくれなかったの」

朔は、咎めるような口調で答えた。
「兄上のことを、みんなは気遣ってくれたのよ。
弁慶殿も言っていたでしょう。決して軽い傷ではないのだから」

景時は力なく笑う。
「は、はは…確かにその通りだね…。
みんなには感謝しないといけないよね。
でも、本当にもう大丈夫なんだけどな」
「だったら、食事もきちんととれるわね。
てーぶるに兄上の朝食が置いてあるわ」

先に立って歩き出そうとした朔を、押しとどめる。
「いいよ、自分でやるから。
それより朔は…」

景時は雨の気を含んだ風を頬に感じ、外を見た。
庇の向こうは、鈍色の空と鈍色の木々と、雨の音。

「何をしていたの?」と聞こうとした言葉が、
別の言葉となって口に上った。
「雨を見ていたの?」

「ええ…」
小さく頷くと、朔はすっと膝を曲げ、冷たい床に座した。
この世界の衣を纏っていても、
その所作、端然として座す姿は、尼僧の形の時と同じもの。

長い足を折り、景時もその隣に座った。


      遠い世界
      今ここに在ること


「譲殿のお祖母様も…こうして雨を見ていたのかしら」
景時の思いと響き合うように、朔がぽつんと言った。

「菫姫…か」
「この世界に、たった一人で降り立ったのよね…」
「うん…。どんな気持ち…だったんだろう」


      交わる時空
      自分のいない世界


「雨は…同じね」
「そうだね」

空の色も、濡れた土の匂いも、枯れ草の感触も、冬の冷たさも
遠い「鎌倉」という名の街と、同じ。
古い寺の名前さえも。

――だが違う。何もかもが。

ここは主なき世界。
巨きく暗い影の不在。

同じゆえに、違うことが痛いのか。
違うゆえに、同じことが切ないのか。

「ねえ、朔…。全部が終わったら……政子様…荼吉尼天を封じたら、
朔はこの世界にずっと」
「ここに、あの人はいないわ」
景時の言葉を遮り、静かな声が答えた。

「ごめん…変なこと言っちゃったね」
そう言って肩を落とした景時を、朔は凝視する。

「兄上は?」
景時は咄嗟に、怪訝そうな表情を作った。
「え? 何のこと?」

「…いいわ」
短く答えて、朔は庭に視線を戻す。

景時はやおら立ち上がった。
「ごめん、ちょっと、出かけてくる」
「弁慶殿の言ったことを忘れたの?」
「あ、ああ…すぐ戻るから心配しなくていいよ。無理はしないから。
朝ご飯も帰ってから必ず食べるし」
そしてそのままキッチンを素通りし、玄関に向かう。

コートを着ている景時に、後を追ってきた朔が傘を差し出した。
「これを使って。譲殿が置いていってくれたの」
「さすが譲くん、よく気がつくなあ。
ええと、このぼたんを押すと、ぱっと開くんだよね」

嬉しそうな景時の様子に、朔は初めて笑顔を見せた。
「ふふっ、仕組みが知りたいと思っても、壊してはだめよ」
「そ、そんなことしないよ〜。でも、おもしろいよね、これ♪」
「それだけ元気なら大丈夫かしら」
「うん、オレだって、これでも武士だからね。
ちょっとした怪我なんか、平気だよ〜」



冷たい雨のために、鶴岡八幡宮への参拝客はいつになく少ない。

景時は三の鳥居の前で一礼すると、宮には入らず右に曲がり、
八幡宮に沿った東側の道を行く。

周囲の風景は違っても、身体が知っている道だ。
再び北に向かう小路に入り、閑静な住宅街を歩いていく。

向こうから、夫婦らしき二人連れ、
雨音に負けじと話に興じる、四五人ほどの中年の女性達、
片手に傘、片手に地図を握りしめた白髪の老人…
観光客とおぼしい人々が、やって来た。

傘を傾げ、うつむいたまま彼らとすれ違い、
景時はやがて、幾本もの白い旗の立つ細い道へと出た。

道の奥は、石の急階段。
階段を上った先は、雨に煙って見えない。

雨に打たれて濡れそぼった白い旗は、
景時を睨め付けるようにじっと動かず、
ひたひたと絶え間なく滴を落としている。

石段を一歩ずつ、上る。
背を伸ばし、階の果てる先を見つめて。

やがて現れたのは、
玉垣に囲まれて木々の中にひっそりと佇む、石の墓。

晴れた日でも、ここは小暗い場所なのだろう。
笹竜胆の紋を刻んだ花立てに供えられた花ばかりが、ほの明るい。
景時の知らぬ赤い花が、慎ましやかな白い小菊を従えて、鮮やかな色を誇っている。

人の声は遠ざかり、墓の周りには誰もいない。
雨音だけが密やかに、この小さな世界を満たす。

景時は傘を閉じ、墓前に立った。

天から降り注ぐ雨は、
髪を濡らし頬を濡らし握りしめた拳を濡らし
物言わぬ石の墓標を打ち

いつ果てるともなく…
その無数の冷たい銀糸で、景時を縫い止める。


      遠い世界
      今ここに在ること

      交わる時空
      自分のいない世界
      主なき世界


佇む男の上に、雨は降りしきる。







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「迷宮」第4章、景時さんのお墓参りイベントに絡んだ「捏造」話でした。
絆の関を越えていると見られない=not景時ED が前提ですので、
景望カプ欄ではなく、「大人の時間」シリーズに入れました。

このイベントは、「3」・「十六夜記」を経てキャラがしっかり立っているからこそ、
景時さんの抱える重さと切なさ、苦しさがいや増すのだと思います。

「迷宮」は、歴代八葉がらみのお遊び的要素もありますが、
こういうイベントも入れ込んであるところが、大好きです。


2010.5.26 筆