耳障りな音がした。
一瞬前までの幸福が、その音のおかげで台無しだ。
布団をひっかぶって、やり過ごそうとするが、
音は一向に止む気配がない。
手を伸ばして、音源を探る。
冷んやりした、硬質の感触。
掌に収まるほどの大きさ。
それが、音に合わせて振動している。
その意味するところは……
「いけねぇ!」
将臣は飛び起きた。
目覚まし時計はセットしてあるが、それで目覚めたためしがない。
なので将臣は、携帯のアラームも動員している。
携帯には、時刻を3つまでセットできる。
最初の時刻は、「急げ!」 次は、「超急げ!!」
そして、今鳴ったのは最後の設定時刻、「ヤバい!!!」だ。
それでも、ちらっと頭の中で計算する。
朝の儀式の、あれとあれとあれを省略すれば、朝飯も、何か一口くらい食えるだろ。
着替えてカバンを掴み、食堂に駆け下りると、
まるで今の状況を予想したかのように、おにぎりが用意されている。
ラッキーだぜ! これで何とか2時間目までは保つな。
おにぎりを一口でほおばり、弁当包みをカバンに放り込んで、玄関を飛び出す。
家から駅までと、駅から学校の教室までのタイムは把握している。
ぴりっと寒い朝の空気を吸いながら、駅に向かう人を何人も追い越して将臣は走った。
と、前方に慌てふためいて駆けていく姿を見つけた。
なんだ、望美も相変わらずだな。
自分のことを棚に上げて、思う。
望美はしっかと前方を見すえ、髪を振り乱して、完全に本気モードの走り方だ。
少し足を速めて追いつくと、将臣の頬がふっと緩み、笑いがこぼれる。
必死の形相だな。でもまあ、トーストくわえてないだけ、ましか。
「よ、お前もぎりぎりか」
「あ!!」
全然こっちに気付いていなかったみたいだ。
心底驚いた顔をしている。
「ほ…はひょう…将臣くん」
望美は息を切らしながら、にこっと笑った。
おはよう、と言ったらしい。
「今日は譲と一緒じゃねぇのか?」
「ははへん…だって…。それへ、ひゅはんしちゃった」
ひゅはん? そうか、油断か。
そういや譲は今朝も、起こしに来てくれたんだっけな。
朝練で早く行くから、遅刻するな…とかなんとか…言ってたか。
「遅刻…ひひゃうかなあ」
「無理にしゃべらなくていいぜ。駅まで一緒に本気ダッシュだ」
「うん!」
望美の足に合わせたので、少しペースが遅くなったが、何とか電車には間に合った。
しかしホッとする間もなく、混雑した車内を移動する。
もちろん、改札口に一番近い扉まで行くためだ。
「やっぱ、こういうところで時間を稼がねぇとな」
「うん、混んでる時は、降りる前から勝負かけなきゃね」
「ははっ…お前、大げさ」
「ええっ、そう?」
「そうじゃねえか? ついこの間まで、自分の命を守るのに必死だったってのに、
今は1分1秒のことで、躍起になってるんだぜ」
「そういえば不思議だね、遅刻したからって、命に関わるわけでもないのに」
「でもまあ遅刻すると、教師にねちねち説教されるからな。
あれはある意味、怨霊並に始末が悪いかもしれねぇ」
「うん、そうだよね。特に陰険なのが…」
他愛ない会話をしている内に、高校前の駅に着いた。
扉が開くと同時に二人はぴたっと会話を止めて、全力ダッシュする。
17歳の高校生に戻ったはずなのに、徒で駆け回った歳月を身体が覚えている。
鎧もなく身軽な今は、いつまでも走れるくらいに疲れ知らずだ。
望美もそれは同じなのだろう。
息を切らせながら坂道を駆け上っても、ペースだけは落ちない。
ま、前から望美はいざとなると、根性入るやつだったが、
あの世界のことが、こんなところで役に立つなんて、おかしなもんだ。
校舎に飛び込んだところで、チャイムが鳴り始めた。
「うわ〜〜、もうダメ〜〜」
「ここまで来てあきらめんなって!
こうなったら、仕方ねぇ。転ばずについて来いよ!」
将臣は望美の手を掴んで走り出す。
「廊下を走ってはいけません」
壁に貼られた、まるで小学校のようなポスターは完全に無視だ。
しかし教室を目前に、チャイムは無情にも終わりかけている。
「じゃ、行くぜ!」
「え…何?」
将臣は思いきり反動を付けて望美を前に押し出した。
最後の音と同時に、ポン、と望美は教室に入る。
「春日さん、ぎりぎりセーフです」
1時限の担当教師が言った。
続いて将臣が入ってくる。
「有川君、遅刻です」
担当教師は名簿に×印を付けた。
教室中が、どっと湧く。
授業が始まると、隣の席から望美が小声で言った。
「将臣くん、ごめんね。本当は私の方が遅刻だったのに」
「どうってことねぇさ。
もう少しで追い抜けたのに、要は、それができなかったのが敗因だ」
「そういう問題かなあ」
「ああ、そういう問題だ」
「でも何か悪い気がするから、お弁当のおかず、1コ分けてあげる」
「お、ラッキー!」
「そこ!静かに」
朝の教室には低い陽が射しこみ、外から雀の声が聞こえてくる。
海岸沿いの道にはせわしく自動車が行き交い、その向こうに広がる海が、眩しい。
いつも見ていた風景だ。
そこにあるのが、当たり前だと思っていた日々…風景…。
失って初めて、その大切さに気づいた。
何が起きるか分からない毎日…、
今日を、この瞬間を…生き延びるために、必死だった。
なのに今は、弁当のおかず、何をもらおうか…
なんて頭のすみで考えてる。
隣をちらっと見ると、望美のまぶたが今にも閉じそうだ。
「春日さん、次のところ、読んで下さい」
「わっ! は、はいっ!」
――126ページ、4行目
ノートの端に書いて、望美に見えるようにずらす。
将臣に向かって、こっそり指を2本立てて、望美は教科書を読み始めた。
今のはVサインじゃなくて、おかず2コの意味だろうな。
…って、落差激しすぎだぜ。
将臣は苦笑した。
源平合戦で戦ってた二人が、こっそり弁当のおかずのやりとりか。
お前のことは、かたときだって忘れちゃいなかった。
だが、わずかな時間しか、一緒にいてやれなくて、
あとはただ、遠く離れた所から、無事でいてくれることを信じるしかなかった。
お互い、とんでもねえもの背負っちまって…
それなのに俺達が今、一緒にこうして平和な時間にいるなんて、
奇跡みたいなもんじゃねぇか?
いつ果てるとも分からない戦場の先に、こんな日々あるなんてな…。
俺には、まだこの毎日が…
そしてお前が、まぶしくてならない。
だから、こんなことくらい気にすんなよ。
ささやかな心配を…したいんだ、お前のために。
おかずはありがたく頂くけどな。
旧拍手SSです。
自信がなくて……拍手から下ろしてからずっと放置してきましたが、
勇気を出して再アップします。
かなり直しを入れました。
将臣くんの眼差しのあたたかさが伝わると…うれしいです。
2009.4.17 拍手に加筆修正