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五月の一番長い日  ― 泰明×あかね ―

夕暮れの迫る頃、薄闇に身を隠し、セフルは木の上から土御門を見張っている。 腰掛けた枝から身を乗り出し、その視線が追うのは、土御門の館の長い塀に沿って歩いている 大きな荷を背負った男。
やがて男は裏門の前で立ち止まり、門衛に声をかけた。 何やら二言三言、やりとりがあった後に門が開き、 男は荷を背負ったまま中へと入っていく。
「やった!」
セフルは小さく喜びの声を上げる。
しかしその時、男の動きが遅くなり、背中の荷から何かが転がり落ちた。 男は首をひねって周りを見回し、頭をぽりぽりと掻く。
「どうした?」
「いや、急に荷物が重くなったような気がしただけだ」
門衛が尋ねると、男は頭を振って答えた。 そしてすぐ、何事もなかったように再び歩き出す。
セフルは小さく舌打ちした。
門が閉まると同時に、人気のなくなった小路に立ち、 膝をついて門の周囲の路上で何かを探す。
「ちっ…」
セフルが地面から拾い上げたのは、闇色の小石。呪詛の種だ。
――せっかく荷物に仕込んだのに。
セフルは小石を握りしめた。
土御門を覆う結界に阻まれ、呪詛の種は荷から弾き出されたのだ。
あの結界さえ無ければ…。
セフルが目の前の館を睨んだ時、右と左から、こちらへ向かって来る大勢の足音が聞こえた。 さらに門の中からは、人の出てくる気配。

なぜ今日は、こんなに人の出入りが多いんだ。
セフルはもう一度舌打ちすると、姿を消した。


「おや、また何か小賢しいことを企んだね」
不機嫌な表情で戻ったセフルに、待っていたかのように ねちりとした声がかけられた。 洞窟の入り口に寄りかかり、シリンが腕組みしてセフルを見ている。

この女、こういうことだけは見逃さないんだ。
セフルはそっぽを向いた。
「何だよ、ぼくが何をしようとシリンに関係ないだろ」
シリンはにんまりと笑う。
「図星かい? じゃあついでに、もう一つ当ててやろうか。 そのふくれっ面ですぐわかるよ。失敗したんだろう?」
「うるさい!」 
「おやおや、怒ったのかい。子供は素直で可愛いねぇ」
「何だと! お前に何が分かるんだ。 あの結界さえなければ……いや、あそこで人が大勢来なければ、 もう少しで神子の館に呪詛を持ち込むことができたんだ」
「なあんだ、今度は言い訳かい。人が大勢来ただって? あそこは左大臣殿とやらの家なんだ。へつらうやつはたくさん来るだろうよ」
「そうじゃない! ぼくが見張っていたのは…」
さらに言いつのろうとするセフルの言葉に、
「二人とも止めないか!」
低い声がぴしりと割って入った。シリンとセフルを、隻眼の鋭い光が射すくめる。
「シリン、セフルの言葉は本当だ。近々、帝の行幸があるのだ。 左大臣邸はその準備で忙しいのだろう」
シリンは馬鹿にしたように腕を組み、横目でイクティダールを見た。
「人間共の都合なんて、あたしには関係ないことさ」
シリンの挑発的な態度はいつものこと。イクティダールは踵を返し、背中で言う。
「関係ないなどと決めつけぬことだ、シリン。そのことで、お館様がお前達をお呼びだ」







「おい、何をしてるんだ?」
すごい勢いで鍛冶場の周囲を探し始めたイノリに、見習い仲間が 声をかける。
そしてほどなくして、それは見つかった。
ジャリ…
地面に浅く埋められた呪詛の石。
イノリが触れると、氷のような冷たさが全身を覆った。
「穢れた水気かよ。オレ、苦手だ」
しかし、ここからどかさなければ、鍛冶場に炎が戻らない。
「イノリ、何だそれは?」
親方や、他の弟子達がのぞき込むが、
「鬼の呪詛だ! 離れてろよ」
そう怒鳴ると、皆一斉に後ずさった。
――通りに放り出したら、やっぱりマズいよな…
ってことは…。
イノリはふんっと大きく息をすると、呪詛の石を手に掴んだ。 それは雪よりも冷たく、掴んだ瞬間ドキン!として心の臓が痛くなる。
――くそっ!これくらいのことで、このイノリ様が負けると思うなよ。







頼久は、ちらりと友雅を見上げる。
「………油断無く備えるは、護衛として当然のこと。 ですが、大事が起きなければそれに越したことはございません」
「そうだね。それは私も大いに望むところだが…」
「何やら、嫌な気配がします」
頼久は剣の鯉口に手をかける。
二人の脇を、すっと微風が流れた。いつの間にか、泰明が隣に来ている。
「あらぬことを願っても無意味だ。行くぞ」

その刹那、凄まじい強風が行列を襲った。 日が隠れ、冷たい風が吹き抜けて、天にかかった暗雲から雷が一直線に地を撃った。
その閃光の中から、束帯を纏った貴族姿の怨霊が現れる。
真一文字に引き結んだ厳めしい口元、眼窩はどこまでも黒い闇。

「ひいいいいっ!」
「ご…御霊じゃ」
「菅公の御霊が…」
随身達が悲鳴を上げる。

吹き付ける風に逆らいながら、衛士達が前に進み出て 一斉に矢を射かける。だが矢はことごとく風に吹き飛ばされて御霊に届かない。 刀を抜いて立ち向かっても、雷が降り注ぎ、近づくことすらできない。
次いで、彼らに代わって陰陽師が最前列に立った。 だが彼らの放つ術も、御霊に全て消されてしまう。

女の高い笑い声が響く。
「分かってないねえ。これは御霊だよ。 そんじょそこらの怨霊とは違うんだ。陰陽師風情の調伏なんて、効きやしないさ」
御霊の後ろに立つ、あでやかな白拍子姿の女が叫んだ。
「さあ、お前達はここで全滅するんだよ!」







禍々しい花は途切れることなく落ちてくる。
祓えの呪をかけているにも関わらず、陰の気はあかねの体力を奪っていく。そして弱ったあかねを瘴気が蝕む。
そんな二人を、黒い花が取り囲んでいた。
もうこれ以上、進むことも退くこともできない。
――何としても神子を
――絶対に泰明さんを
二人がお互いを見つめ合ったその時、
暗紫色の空間に、青いきらめきが走った。
一筋のその青は、黒い森を貫き、どこまでも続く道を描く。







あかねは少ししょんぼりして尋ねた。
「泰明さん、もしかして、また来られなくなったんですか。それで 小鳥の式神さんを代わりに…」
小鳥はぴょんと起き上がった。
「そのようなことはない。現に今、私は土御門に来ている」
「え?」
「だが、早過ぎると言って、女房達が私を通してくれないのだ」
「ええええ?」
小鳥は小さい足をちっちっと蹴っている。
「泰明さん、もしかして……拗ねてますか」
「拗ねる…? 神子の言っていることは、よく分からない。私は童ではない」
あかねはくすっと笑って、小鳥を手に乗せたまま、勢いよく立ち上がった。
「じゃあ私、もう出かける支度をしますね」
小鳥は翼をぱたぱたさせた。
「もっと休んでいなくていいのか、神子」
あかねはにっこり笑った。
「もう平気です。少し早いけど、呪詛の探索を一日お休みしちゃったから、 また今日からがんばらないと」
「分かった」
「泰明さん、今日こそ一緒に出かけましょうね」
小鳥は激しく羽ばたいた。



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