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熊野便り 〜初夏〜  ― ヒノエ×望美 ―

収録タイトル

1. 謀は密なるを以て  2. 夏彩(なついろ)の褥   3. 小川のほとりで


謀は密なるを以て

情景一 頭領の出立

「姫君…こっちへおいで」
「ヒノエくん…もう出発なんだね」
「ごめん、今回はちょっと大切な仕事なんだ」
「うん…分かってる。でも…」
「淋しい?」
「ヒノエくんの意地悪」
「可愛いね、拗ねた顔も」

「うぉっほん!!」
部屋の外から、副頭領の野太い咳払いが聞こえた。
望美は慌てて扉を見るが、ヒノエは何も聞こえなかったように望美を引き寄せた。

「仕事は一日も早く終わらせて戻ってくるよ」
「大切なお仕事だものね。がんばってね、ヒノエくん」
「むさ苦しい野郎の咳払いが聞こえたとたんに、急につれなくなったね」
「だって…」
「恥ずかしい? 野郎共に気を遣うことはないさ」
「…あ! ……ん…ん…」

「うぉっほん!!」
部屋の外で、「むさ苦しい野郎共」が一斉に咳払いをした。
重なった唇が、しぶしぶ離れる。

「仕方ないね。さすがに、これ以上無視したら悪いかな」
「そうだよ。みんな待ってるんだから、早く行かないと…」
しかし、身体にしっかりと回されたヒノエの腕は、望美を解放しようとしない。
「しばらく会えないんだ。お前の顔をもっとよく見せて」
「んんん…んぐんぐ…ん……」

「うぉっほぉぉぉぉん!!」

屋敷の門前では、「むさ苦しい」水軍衆と烏がずらりと並んでヒノエを待っていた。
「屋敷に残る野郎共、姫君のことは、ちゃんと守るんだぜ」
「おおっ!!」
「ご心配なく、頭領」
副頭領が、ぶ厚い胸板を叩いた。隣で烏の長も頷く。
「ご不在の間も、常と変わらず相務めます」
「じゃ、行ってくるよ、姫君」
「行ってらっしゃい、ヒノエくん」
望美は手を振り、見送りの水軍衆と烏は一斉に頭を下げて、
ヒノエ一行の姿が見えなくなるまで見送った。
そこまでは、いつもの通りだった。そこまでは……だが。
     ・
     ・
     ・

夏彩の褥

ふいに視界をふさいでいた手が離れた。
が、ヒノエの両腕はそのまま肩口に回り、ぐいっと身体が後ろに引かれて抱きしめられる。
「可愛いね。頬が熱くなったよ」
「意地悪っ」
「それって褒め言葉…だよね?」
「ヒノエくんてば…。
あ! もしかして私の仕事が早く終わったのは、ヒノエくんが戻っていたから?」
「久しぶりに姫君に逢うんだから、早く解放しろよって、野郎共に言った…かもね」
「もうっ、どうしてすぐに私にも教えてくれなかったの? 
一番にお帰りなさいって言いたかったのに」
耳元で、いたずらっぽい笑い声がした。
「ごめんね。でもお前の驚く顔が見たかったから」
ささやき声が、耳朶をくすぐる。
「で…でも、後ろ向きじゃ私の顔、見えないでしょ。それに」
肩を押さえられていて腕が上がらない。
なので、肘を曲げて、ヒノエの手首に自分の手を重ねる。
「この手も離して。私もヒノエくんのこと見たいから」
「いいよ。そのかわり、一つ約束してくれる?」
「なあに?」
「オレ以外の男に、こんなに簡単に後を取らせちゃダメだよ、神子姫様」
いつもの軽口のように聞こえるけれど、声に混じる僅かな真実は聞き逃せない。
ヒノエからは表情が見えないと分かっているが、その手をぎゅっと握って笑顔で答える。
「大丈夫だよ。だって、目をふさいだのはヒノエくんの手だって分かったもの。
だから抵抗しなかったんだよ。それにね」
「それに?」
「ヒノエくんて、よくこうやっていたずらするから、すぐ分かるんだ」
くすっと笑う声が、さっきより近い。
「じゃあオレの手が、まぶたじゃなくて、こうして頬に触れていたら?」
ヒノエの掌が、頬を包んだ。
「もちろん」
「じゃあ、今度はちょっと難しいよ」
顔を見せてくれるはずじゃ……と言いかけた唇に、微かな感触がつうっと横切った。
「こうして指先だけで唇をなぞったら?」
くすぐったさとは別の感覚が、動悸を速める。
「分かる…よ。ヒノエくんの指も…」
その指の形も感触も、全身が知っているから。
     ・
     ・
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小川のほとりで

「わあ……。こんな場所があるなんて知らなかったよ」
望美は感嘆の声を上げた。
「驚いた? 熊野の森は深いからね」
「広々してて気持ちいい。あ! 小川も流れてる」
望美は細い流れに駆け寄る。
「気をつけた方がいいよ、姫君。小さい川だけど、深さもあるし流れも速いから」
「あ、本当に…」
膝を付いて小川を覗き込んだ望美が、流れに手を入れてすぐに引っ込めた。
ヒノエは望美の隣に立ち、一緒に流れを見下ろす。
「昨日雨が降っただろ? だから今日は特に水量も多くて勢いがあるんだよ」
川上を見やって、望美は不思議そうな顔をした。
「あんな霧雨でも?」
「この流れには、川上に降った水が集まるからね」
ギィィ…カタン…ギィィ…カタン…ギィィ…カタン。
「あれ? 何の音?」
二人の会話の背後で、小さな音が絶え間なく聞こえていたことに、望美は気づいたようだ。
「何だと思う?」
望美は顔を上げて、音の源を探してきょろきょろする。
「何かが軋んでいるみたいな音だね。あっちの方から聞こえてくるけど…」
「行ってみようか」
「うん。おかしいなあ。あそこには大きな木があるだけ…ん?」
「分かった?」
「わあっ! 木…じゃないんだ」
「その通り。これは」
「す…水車!?」
「ご名答ってね」



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