花別離

泰明×あかね   「遙か1」第9章より

  

曙光の射す頃、泰明は目覚めた。
身支度を調えて朝靄の中に歩み出る。

香しい大気は、よき気の巡りの証。
透き通った声でさえずりながら、小鳥が一斉に飛び立った。
せわしく羽ばたき、鳴き交わし、群れてどこかへと飛んでいく。

常と変わらぬ時間だ。
生を受けてよりずっと、このように朝を迎えてきた。

だが今は……
優しき笑顔に会いに行きたい、と願う。
願いながら、躊躇う自分がいる。

物忌みの日の光景が、心に焼き付いて離れない。
大きく気が揺らぎ、
風に煽られた灯火のように、神子は今にも消えそうだった。

神子を失う恐怖に、胸を締め付けられた。

いつかは訪れる日を、思わずにいられない。
その日は、神子と別れる日。
……神子を失う日だ。

だがそれは神子の願いが叶う日。
元の世界へと帰るその日を、神子は待ち望んでいる。

だから私がその日を厭うことは間違いだ。
それなのになぜ、これほどに揺らぐのか。

「おい泰明、今日も土御門にご機嫌伺いか」
無遠慮な声が割り込んだ。
屋敷の母屋からやってきた兄弟子達だ。

黙ったまま振り向きもしない泰明に業を煮やして、
今度は苛立った声が飛んでくる。
「返事くらいしたらどうだ」
「今日は手間取りそうなんだ」
「だがあいにく、陰陽寮の方も忙しいときている」
「つまりは、人手が足りないんだよ、来てくれないか」

「わかった」
泰明は素っ気なく答えた。

にべもなく断られるのを半ば覚悟していた兄弟子達は、
拍子抜けしたように、顔を見合わせた。
「あ…そ、そうか」
「す、すまんな、お前が来てくれると助かる」

「無駄口はいい。行くぞ」
言うより早く歩き出した泰明の後を、兄弟子達は慌てて追いかけた。



泰明達が向かったのは、
洛中の南の外れに建つ、豪壮な構えの屋敷。

宮中でもそれ相応の官職にある当主自らが、
兄弟子達の周りでせわしなく動き回っては指図をしている。
要領を得ない説明から類推するに、当主が娶ったばかりの、
うら若い正妻が呪われたらしい。

先月来、彼女は毎夜のように恐ろしい物の怪に襲われる夢に
うなされるようになったというのだ。
やがては起きている時でさえ、物の怪の姿を見ては、
その魔手から逃れようと、喚き騒ぐ始末。
困り果てた当主は、内々に安倍家に原因の究明と解決を依頼したのだった。

しかし、難渋するかと思えた調査は、あっけなく終わった。

「遣り水の澱みに、このようなものが沈められていた」
当主からも同行した兄弟子達からも離れ、呪を唱えながら
庭の気を探っていた泰明が、何やら手にして戻ってきた。

「な、何があったのじゃ、すぐ見せろ!」
せかす貴族に、泰明は、手にしたものを見せた。
「呪詛の人形(ひとがた)だ。
これが、数々の障りの元凶となっていたのだ」

「ひいいっ…」
常日頃の傲岸な態度はどこへやら、男は腰を抜かした。

ただの人形ではなかった。
木を削って作られたその人形には、当主の妻の名が刻まれ、
顔の中央と胸の二か所に、黒い楔が打ち込まれている。

「ち、近くに寄るな。早うそれを始末せい」
当主は足をばたつかせながら、精一杯の虚勢を張る。
泰明は返事もせず、その様子を冷たい眼で見下ろした。
「泰明、ここは丁重にお答えするものだぞ」
兄弟子が小声で叱りつける。

高曇りの蒸し暑い日のこととて、太り気味の当主は額の汗を何度も拭った。
「我が妻は大納言殿の娘、何かあったらそれこそ一大事というもの。
すぐにそれを祓い、妻を救うのじゃ!」

西の対から、か細い悲鳴と慌ただしく立ち騒ぐ音が聞こえてきた。
当主はちらりとそちらを見やって、苦々しげな顔になる。
「名だたる安倍の陰陽師ならば、これくらいのことは、
何ほどのものでもあるまい」

泰明は、ぐい、と人形を当主の眼前に突き出した。
「ひい…」
立ち上がりかけた当主が、再び尻餅をつく。

表情を変えぬまま、泰明は言った。
「すぐに、と言うならば、呪詛を返す。よいな」
「何と?」
当主は怪訝な顔をした。

兄弟子が説明のために割って入る。
「呪詛を仕掛けた者に、この呪詛を返すのです」
「たとえその者の素性が知れなくとも、呪詛を返すことはできます」
「つまりは、呪詛を仕掛けた本人が、自らの呪詛に倒れるというわけです」

「ほう、面白い趣向ではないか」
当主の顔がほころんだ。
しかしその言葉に、兄弟子達は顔を見合わせた。
「呪詛返しは、趣向というようなものではございません。
どうぞ、軽々にお考えになりませぬよう、お願いいたします」
さらに、泰明が切り捨てるように言った。
「たとえ呪詛を返したところで、術者の力が強ければ相手が倒れることはない」

当主はしばし考え込んでいたが、やがて疑り深そうに切り出した。
「まさか、もう一度呪詛が返されて、
今度は私の身に降りかかる…などということは、あるまいな」
当主は、無愛想な泰明ではなく、他の兄弟子達に向かって、念を押す。

「大丈夫です」
「ご安心召され。晴明様ならいざ知らず、
それほどの術者はこの世におりません」
「ならばよい」
当主の顔に安堵の色が広がった。
さらに期待するように、言葉を継ぐ。
「ということは、晴明殿なれば誰を呪うも思いのまま、というわけじゃな」

「な…何をお考えか!」
「晴明様は元より、安倍家はそのような呪法は行いません!」
とんでもない方向に走り出した当主の思惑に、兄弟子達は驚いた。
しかし、当主は退く気配もない。
「だが、陰陽師は呪いをなりわいとするものではないのか。
現にこうして呪詛の人形もある」
「それは市井の似非陰陽師の為した業。
そのようなものに惑わされてはなりません」
「呪詛は必ずその身に返るものです」

「愚かだな」
泰明が低く言った。
心の臓を氷で掴まれるような冷たい声だ。
当主は、ぞくりとして泰明を恐ろしげに見やり、
鋭い眼光に射抜かれて声を失った。

泰明は、人形を兄弟子に手渡した。
「後は、お前達でやっておけ」
言うなり、すでに背を向けている。

引き留めようとすることさえ憚られ、
兄弟子も当主も、ただ口をぱくぱくさせながら見送るだけだ。

泰明め、無礼を働きおって……
兄弟子達は同じことを思っている。
だが苦々しい思いと同時に、当主の青ざめた顔を見て、
この男が二度とくだらぬ事を考えないであろうということも、
渋々ながら認めないわけにはいかなかった。



つまらぬ男のために費やした無駄な時を取り戻すかのように、
泰明は早足でその屋敷を去った。

醜い心根から発する気で、息苦しいほどだった。
あの男も、
あの男を陥れようと、その妻を狙って呪詛を仕掛けた者も、
自らの心が穢れに蝕まれていることに気づいていない。
人の心に巣食う暗い妄執は、怨霊と同じだ。

…………神子に会いたい。

毎朝土御門に行くのが当たり前のようになっている。
行けば、神子の笑顔がある。
だが今日は迎えに行かれなかった。
もう日も高い。神子はすでに出かけた後だろう。

今日神子は、誰と出かけたのだろうか…。


しかしほどなくして、その答えは出た。

荒れ果てた河原院を横に見ながら安倍家へと戻る道の途中で、
まごうことなき清浄な気を感じたのだ。
逸る心を抑えながらも、自然に足はそちらに向かう。

「よっ、泰明」
「あ、泰明さん、こんにちは」
天真と詩紋だ。
そして、
「泰明さん、お仕事はもう終わったんですか」
あかねが、にっこりと笑った。

「やらねばならぬ事は済んだ」
気持ちとは裏腹に、無表情のまま事実だけを答える。

「じゃあな。俺達は、もう一働きしてくるぜ」
天真は泰明に向かってひょいと手を挙げると、
あかねと詩紋を促して歩き出した。
「また明日ね、泰明さん」
あかねが振り返って小さく手を振った。

「明日は必ず、行く」
泰明はその場を動くことなく、三人を見送った。

他愛ない会話が聞こえてくる。
「ねえ、あかねちゃん、お菓子作ってあるんだ。
帰ったら食べようよ」
「わあ、うれしいな」
「詩紋の菓子は絶品だからな」
「天真先輩にも褒めてもらえるなんて、うれしいな」
「でもな、本当は俺、菓子より焼き肉がいいぜ。
腹一杯になるまでガンガン食えたら最高だ」
「ははっ、天真くんらしいね」
「まあ、もう少しのガマンだよな」
「ねえ、あかねちゃんは、元の世界に戻ったら何が食べたい?」
「ええとね、シュークリームかな。皮がパリッとしたやつがいい」
「ボク、作るよ!」
「じゃあ、モンブランもお願いね」
「おい、太るぞ」
「ええっ!ひどいよ!天真くん」
「ははは、本気にするなよ」

泰明には分からぬ言の葉ばかりだ。
遠い世界から来たりし者の、言の葉。

少し傾いた陽に向かって、三人は歩いていく。
まぶしい光輪に包まれて……。

四神を解放し
鬼を倒し

そして

私を置いて
こうして
去っていくのか

神子



深夜、澄み渡った空に、月がかかる。
かぐわしい大気には、花々の柔らかな香。

だが泰明のいる部屋の中は、しんとして冷たい。

左の頬に触れ、呪の形をなぞる。
あたたかな涙と共に消え去った封印の跡に、
新たな誓いと共に自ら施した呪。

そして右の頬に触れ、絆の印を確かめる。

痛みが胸を貫く。

神子を想い、初めて知った痛みだ。

なぜこのように痛いのか、最初はわけが分からなかった。
着物をはだけて探してみても、どこにも壊れた痕跡はない。
身体の中が壊れたのでもない。

だが今は、これこそが心の痛みなのだ…と知っている。
そして、己の痛みに立ち止まってはいけないのだとも。

神子は私に、心があることを教えてくれたのだから。
それだけで、私は幸福になったのだ。

それ以上、何も……求めてはならない。



けれど神子、私はもう、戻れないのだ。
お前を知る前の日々に。

昨日と変わらぬ今日。
今日と変わらぬ明日。
季節は移ろい、雪が積もり、若葉が芽吹き、花が咲き誇っても、
照りつける日も、野分の日も、静かな雨の日も、同じ。
壊れるまで繰り返されるであろう、虚ろな日々。

あのとき、私は悲しくなかった。
淋しくなかった。
痛くなかった。
道具には心などないのだから。



「戯れ言だ……夢と思え」

私の言葉に、お前は不思議そうな顔をした。

違う、神子…
これは私自身に返るべき言の葉。

うたかたの戯れ言と消えゆくものならば、
夢と思えるならば、
どれほど楽なことだろう。

だが神子、私は逃げはしない。

神子のためにできることも
神子のために過ごす時間も、あと僅か。

お前の与えてくれたものに、必ずや報いよう。

そのために―――
終わらせなければならない。
お前が笑顔で帰れるように。

神子……

心とは、何と苦しいものなのだろう……。









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50000打お礼に書いた泰明さんSSです。
泰明さんは事前のアンケートでダントツの人気。
さらに管理人が「遙か」にハマる最初のきっかけが
泰明さんでしたので、このお礼SSも張り切って書きました。

原点に戻り、ゲームプレイ中の気持ちを思い出しながら、
エンド前の泰明さんを描いてみました。
泰明さんの切なさ、ピュアな部分を
少しでも感じていただけましたなら幸いです。

2008.12.15 加筆・再掲