東の空がほのかに白くなった。
夜明け前の天には、まだ星々がまたたいている。
大地はまだ眠りの中。
しかし、張りつめた冷たい大気を貫き雪を蹴立て、
原野に馬を駆る者達がいる。
先頭を行く黒い馬に乗るのは、長い髪を無造作に束ね、
背に大太刀を佩いた若者。
彫りの深い顔立ち、真一文字に引き結んだ口元、
雪原の彼方に黒々と聳える崖を凝視する眼には、強い光がある。
その若者に、すぐ後ろの男が
「
と、野太い声で呼びかけた。
「この辺りからは、用心した方がいい」
伽卦流と呼ばれた若者は、手綱を引き、馬の速度を緩めた。
その横に、男の馬が並ぶ。
「ここからは川沿いの一本道だ。
待ち伏せしようったって、隠れる場所は無いぜ」
伽卦流の言葉に、男は唸るように答える。
「いや、待ち伏せとは限らねえ。とにかく油断しないことだ。
奴等の卑怯なやり口は、骨身に沁みてるからな」
男は、最後の言葉を吐き捨てるように言った。
後ろに続く男達も、一様に頷く。
「ああ、分かった。忠告ありがとな、狗麻。
やつらと何度か戦っただけの俺でも、察しはつくぜ」
伽卦流はそう言うと馬を止め、ひらりと雪上に飛び降りた。
「
後ろの若い男が訝しそうに言った。
「よせよ、よそ者にその呼び方は。俺はただの流れ者だ」
「往生際の悪い奴め」
狗麻の野太い声には、親しみの情がある。
伽卦流はやれやれといった仕草をしたが、すぐに厳しい表情になる。
と、目にも止まらぬ速さで、その背の大太刀が一閃した。
ビンッ!と音がして、雪を割って綱が空中に躍り上がり、ぱさりと落ちる。
「馬の足を狙ったか」
「ああ、あの木とこっちの切り株を綱で結んであった。
株の切り口が新しいんで気づいたが、よく見ると、他にもありそうだぜ」
伽卦流は道の先を指さした。
「巫女様を攫っておいて、さらにはこんな仕掛けか」
「どこまで汚い奴だ」
男達は次々と馬を下り、目を凝らしては、綱を切っていく。
狗麻は懐に手を入れた。
「奴が、お前と一対一で勝負をつけようなんて殊勝なこと、
考えるはずがねえんだぞ」
懐から取り出した、一束の黒髪を睨むように見据えて言う。
その黒髪は、美しい紋様を編み出した紐で括られている。
「そんなことは、承知の上だ。
だがあんたの姉さんを助けるためには、奴等の根城に行かなきゃならねえんだろ。
奴が俺を名指ししてきたのは、ちょうどいいってもんじゃないのか。
それより…」
そう言うと、伽卦流は狗麻に向き直った。
「何度も言うようだが、あんたは村に帰った方がいい。
今からでも遅くはないはずだ。俺の代わりに、和議の話を進めてくれ」
「分かってねえな」
狗麻はぎろりと伽卦流を睨んだ。
「巫女がいなくなり、お前まで悪土王に殺されれば、俺達のクニはお終いだ。
遠い都と和議を結んだところで、何になる」
「分かってないのはどっちだ。
本当の族長はあんただろう。ここで俺と一緒に危ない目にあうことはない」
「俺達に、後はねえんだ。都人は関係ない。
この地の者同士、ここで決着をつけるしかないってことだ」
二人の男がにらみ合ったその時、断末魔の悲鳴が上がった。
「どうした!」
前方に進んでいた男達の一人が、転がるようにして駆け戻ってくる。
「や、やられました。吹きだまりの底に、逆茂木が…」
狗麻の顔が、怒りと焦燥で赤黒くなった。
「くそっ!これじゃ間に合わねえ」
「我らが遅れたら、巫女様が…」
だが、
「早く着ける道が、あるじゃねえか」
言うなり、伽卦流は凍った川辺に滑り降りた。
皆は一瞬、あっけにとられる。
しかし、すぐに狗麻が怒鳴った。
「無茶をするな!雪の上からじゃ、岸と川の区別もつかねえんだぞ」
「氷が割れたら…長が」
「どうか止めて下さい!」
口々に止める声に構わず、伽卦流はひゅっと短く口笛を吹いた。
黒馬が、慣れた様子で斜面を下りる。
「心配すんなって。無駄にあちこち流離ってたわけじゃない。
じゃ、後でな」
伽卦流が皆から別れてほどなく、夜が明けた。
紫にたなびく雲を、昇る朝陽が彩っていく。
馬上で振り返り、空を仰いで伽卦流は呟いた。
「こんな時だってのに、きれいな空だぜ…」
同じ時、同じ空を、見ている者がいる。
伽卦流が目指す悪土王の根城、その崖に穿たれた洞穴は、
攫ってきた者達を閉じこめる牢になっている。
形ばかりの焚き火が燃えてはいるが、外も同然の凍てつく寒さ。
ごつごつした壁に、かじかんだ手をかけてよじ登れば、
岩の狭い裂け目から、刻々と色を変え行く黎明の空が見える。
「きれいだね……こんな空、初めて見たよ、白龍…」
第1章 彼方より来たりて
[1.暁の雪原]
[2.囚われしもの]
[3.妖狐と修験者]
[4.都の武人]
[5.喪われた名]
[龍の夢・目次]
[キャラクター紹介]
[小説トップへ]