いにしえの都が、木の間隠れに光る川の向こうに、ひっそりと佇んでいる。
神々の跋扈した日々は遠き昔。今その地には有象無象の形なきものが行き交うのみ。
京を目指し、
導師様との縁深い葛城の山の神も、すでに深い眠りに就いた。
かつて導師様と共に、大峯との間に橋を架け渡した力も今は失せ、
森閑とした峰の高みには、ただ大きな鳥ばかりが舞っている。
遠い日の思いに足を止めることはない。
移ろいゆく時を戻すことは能わぬのだから。
帝直々の下命…か。
邪法との讒言に惑わされ、大いなる力を怖れるがゆえに、
古き南都の朝廷は導師様を追放した。
新しき血の入った今の帝は、違うのだろうか。
南都を去り、長岡の都を捨て、新しき京へと都を遷し、
さらに何を得ようというのか。
人ならぬ生まれの私に、何を命じようというのか。
山に棲む獣よりも速く駆けているのに、
占音の顔は上気することもなく、
胸の内の苦い思いを垣間見せることもない。
だが…導師様……。
あなたは、その身に集まる汚名も栄誉も誹謗も尊崇も意に介すことなく、
ただ真っ直ぐに歩まれた。
病に苦しむ者のために病魔を調伏し、
渇きに苦しむ村には水の在処を示し、
荒ぶる水に苦しむ地には、穏やかなる流れをもたらした。
あなたの最後の弟子なれば、導師様…、私もあなたのようにこの身を全うしたい。
帝の命があなたの道に違えぬ事なれば、私は己の心に従い、それを為すのみ。
私が仕えるのは、……長き時が過ぎた今となっても、導師様だけなのだから。
………導師様…
あなたが予言した方は、まだ現れぬのだ。
私が真に仕えるべきひとは……どこにいるのだろうか。
静謐な水をたたえた巨椋池を吹き渡ってきた風が、
見えぬ壁に遮られたかのようにぴたりと止む。
生臭く淀んだ瘴気がじわじわと広がり、辺りの地を穢し始めている。
かつての朱雀大路は捩れた草で覆われ、都を囲む壁は崩れ落ち、
幾星霜を経た松さえも、葉を全て落とし、立ち枯れていた。
生命の気配のない、うち捨てられた都。
大原野の麓に広がる長岡の京は、荒廃の一途を辿っている。
「都を遷してまだ間もないというのに……」
粗末な法衣に身を包んだ年若い男が、痛ましげに荒れ果てた景色を見渡した。
供の者はいない。身を守る武器とて持たず、その若者は大路を行く。
穢れが澱のように淀み、小暗い陰に潜む中を、優しげな顔を伏せ、進む。
崩れた建物に幾たびも道を遮られながら、
やっと辿りついた先には、廃寺があった。
かつては都の鎮めとしての役割を担った寺だ。
日々、鎮護国家の祈りを捧げる場所であり、政のための祈祷も行われていた。
それが今では守人の一人もなく、捨て置かれている。
それより他に、手だてはなかったのだ。
都を遷したのも、まさにこのためと言ってよい。
その寺から放たれる瘴気を、誰も止めることはできないのだ。
山門の中には、怒りと恨みの思念が、野分の風よりも凄まじく吹き荒れている。
周囲に張られた結界なくば、それはたちまちのうちに人々に襲いかかり、
さらには帝に取り憑いて、命を奪うことであろう。
そこに閉じこめられた思念は、帝の血を分けた弟のもの。
謀反の首謀者として捕らえられ、この寺に幽閉されていた。
無実を訴え続けながら、聞き入れられることなく、
無念の内に自ら食を断って身罷った。
貴き血なればこそ、そして生前徳高き人であったからこそ、
その思念から生じる力は畏怖すべき力を持つ。
地を鳴らし、崩れた建物を揺らして、思念が叫んでいる。
結界の外から、若者はその声なき叫びを感じることができた。
比類なき法力によって築き上げられた鉄壁の結界。
これは帝の信任厚い僧、白苑の手によるもの…と若者は聞き及んでいた。
そっと手を触れると、ちりちりと灼けるような力が全身を包む。
だがその結界でさえ、流れ出る瘴気を完全に止めることはできない。
若者の気配を察し、猛き力が寄せ来るが、
結界にぶつかり、弾かれて狂おしい咆哮を上げた。
「何とおいたわしい……」
若者は少し下がると、懐から細い笛を取り出した。
「悲しき御心を鎮める術など持たぬ身なれど、
たとえ僅かでも、安らぎを差し上げることができるなら……」
笛を構え、結界の向こうに呼びかける。
「
私の笛の音、どうかお聞き下さい」
眼を閉じ、吹口に唇を当て、心の限りをその音にこめる。
涼やかな風のように、笛の音は廃墟の上を渡っていった。
嵐のような咆哮が止み、しばし静寂が支配する。
聞こえるのはただ、澄んだ笛の音ばかり。
若い僧…鏡水は、ただ無心に笛を吹き続けた。
その調べは、果てもなく降りしきる雪の悲しみに似て、
ただ静かに、辺りを満たしていく。
澱んだ穢れがゆるゆると解け、薄らぐ。
山門の向こうは、しんと静まりかえっている。
が、その時だ。
くぐもった唸り声が、都大路の外れで轟いた。
巨きな影が、鏡水をめがけ、凄まじい速さで地を這い進んでくる。
ズザザザザッ!!
異様な音に鏡水が振り返ると、すぐ目の前に黒い影が土煙を上げ、
鎌首をもたげるように、立ち上っていた。
「キシャァァァァッ!!」
黒い影は牙をむきだし、瘴気を纏って鏡水に襲いかかった。
「ああっ!」
鏡水は思わず腕を上げ、身をかばう。
しかし、そのような事をしたとて怪物の牙の前には無力。
鏡水は小さく経文を唱えた。
と、鏡水に覆い被さり牙を突き立てようとした形のまま、
影は凍り付いたように動きを止めた。
「今の内に逃げろ」
役占音だ。
錫杖を影に向け、素足で瘴気を蹴散らしながら走り寄る。
「あ、あなたは…」
笛を握りしめ、鏡水は後ずさった。
次の瞬間、占音はもう鏡水と影の間に来ていた。
「話は後だ。この怨霊は鬼が放ったもの。
長居は無用だぞ」
「けれど…あなたを置いては」
占音は振り向き、冷たい一瞥を投げた。
「足手まといだ。行け」
言うなり、錫杖から凄まじい気を放つ。
黒い影が消し飛んだ。
鏡水に背を向けたまま、占音は表情のない声で言う。
「自らこの地に入り込むとは、愚かな」
「あ、あの…私は、…その…どうしてもここに来なければならなかったのです」
「先の親王…今は巨大な怨霊と化した者に、何用があったのだ」
「……いえ、ただ…おいたわしいと、そう思い、笛を…お聞かせしたいと」
「常人なれば、それでは答えにならぬ。
だがお前の笛は、天と魔の端境にあるもの。
お前は何者だ。」
占音のその問いに、鏡水の顔が強張る。
唇をわななかせ、鏡水はうつむいた。
占音は無表情のまま言う。
「真を語らぬ者に、これ以上何も尋ねることはない」
そこまで言った時、占音ははっとして顔を上げた。
「次が来る。走れ!」
「は、はい」
有無を言わせぬ占音の口調に、鏡水は指示された方に向かって走り出そうとした。
だが……
「穢れが…強い」
占音が周囲を見回した。
「怨霊に…囲まれてしまったのですね…」
「見えるか」
「はい…」
瘴気がゆらゆらと立ち上がり、形となり、二人の周りを取り囲んでいる。
「逃げ道を作る」
占音が印を結んだ。
その時だ。
「こちらへ」
柔らかな童のような声がして、
年の頃、十六、七ばかりの少年が、ふいに二人の前に現れた。
緋色の衣を纏った少年は、異形の者だった。
肩にかかる金色の髪と、深い青色の瞳。
「鬼か…」
占音の言葉に、少年は小さく微笑んだ。
第2章 動き始めし時の行方を
[1.呪われた都]
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