龍の夢


第2章 動き始めし時の行方を


1 呪われた都




いにしえの都が、木の間隠れに光る川の向こうに、ひっそりと佇んでいる。

神々の跋扈した日々は遠き昔。今その地には有象無象の形なきものが行き交うのみ。

京を目指し、 役占音(えんのうらね)は 金剛、生駒の山稜を駆け抜けて来た。

導師様との縁深い葛城の山の神も、すでに深い眠りに就いた。
かつて導師様と共に、大峯との間に橋を架け渡した力も今は失せ、
森閑とした峰の高みには、ただ大きな鳥ばかりが舞っている。

遠い日の思いに足を止めることはない。
移ろいゆく時を戻すことは能わぬのだから。

帝直々の下命…か。

邪法との讒言に惑わされ、大いなる力を怖れるがゆえに、
古き南都の朝廷は導師様を追放した。
新しき血の入った今の帝は、違うのだろうか。
南都を去り、長岡の都を捨て、新しき京へと都を遷し、
さらに何を得ようというのか。

人ならぬ生まれの私に、何を命じようというのか。

山に棲む獣よりも速く駆けているのに、
占音の顔は上気することもなく、
胸の内の苦い思いを垣間見せることもない。

だが…導師様……。

あなたは、その身に集まる汚名も栄誉も誹謗も尊崇も意に介すことなく、
ただ真っ直ぐに歩まれた。
病に苦しむ者のために病魔を調伏し、
渇きに苦しむ村には水の在処を示し、
荒ぶる水に苦しむ地には、穏やかなる流れをもたらした。

あなたの最後の弟子なれば、導師様…、私もあなたのようにこの身を全うしたい。
帝の命があなたの道に違えぬ事なれば、私は己の心に従い、それを為すのみ。

私が仕えるのは、……長き時が過ぎた今となっても、導師様だけなのだから。

………導師様…
あなたが予言した方は、まだ現れぬのだ。

私が真に仕えるべきひとは……どこにいるのだろうか。





静謐な水をたたえた巨椋池を吹き渡ってきた風が、
見えぬ壁に遮られたかのようにぴたりと止む。
生臭く淀んだ瘴気がじわじわと広がり、辺りの地を穢し始めている。

かつての朱雀大路は捩れた草で覆われ、都を囲む壁は崩れ落ち、
幾星霜を経た松さえも、葉を全て落とし、立ち枯れていた。

生命の気配のない、うち捨てられた都。
大原野の麓に広がる長岡の京は、荒廃の一途を辿っている。

「都を遷してまだ間もないというのに……」

粗末な法衣に身を包んだ年若い男が、痛ましげに荒れ果てた景色を見渡した。
供の者はいない。身を守る武器とて持たず、その若者は大路を行く。
穢れが澱のように淀み、小暗い陰に潜む中を、優しげな顔を伏せ、進む。

崩れた建物に幾たびも道を遮られながら、
やっと辿りついた先には、廃寺があった。

かつては都の鎮めとしての役割を担った寺だ。
日々、鎮護国家の祈りを捧げる場所であり、政のための祈祷も行われていた。
それが今では守人の一人もなく、捨て置かれている。

それより他に、手だてはなかったのだ。
都を遷したのも、まさにこのためと言ってよい。

その寺から放たれる瘴気を、誰も止めることはできないのだ。

山門の中には、怒りと恨みの思念が、野分の風よりも凄まじく吹き荒れている。

周囲に張られた結界なくば、それはたちまちのうちに人々に襲いかかり、
さらには帝に取り憑いて、命を奪うことであろう。

そこに閉じこめられた思念は、帝の血を分けた弟のもの。

謀反の首謀者として捕らえられ、この寺に幽閉されていた。
無実を訴え続けながら、聞き入れられることなく、
無念の内に自ら食を断って身罷った。

貴き血なればこそ、そして生前徳高き人であったからこそ、
その思念から生じる力は畏怖すべき力を持つ。

地を鳴らし、崩れた建物を揺らして、思念が叫んでいる。

結界の外から、若者はその声なき叫びを感じることができた。

比類なき法力によって築き上げられた鉄壁の結界。
これは帝の信任厚い僧、白苑の手によるもの…と若者は聞き及んでいた。

そっと手を触れると、ちりちりと灼けるような力が全身を包む。
だがその結界でさえ、流れ出る瘴気を完全に止めることはできない。

若者の気配を察し、猛き力が寄せ来るが、
結界にぶつかり、弾かれて狂おしい咆哮を上げた。

「何とおいたわしい……」

若者は少し下がると、懐から細い笛を取り出した。

「悲しき御心を鎮める術など持たぬ身なれど、
たとえ僅かでも、安らぎを差し上げることができるなら……」

笛を構え、結界の向こうに呼びかける。

鏡水(かがみ) です……。やっとここに来ることができました。
私の笛の音、どうかお聞き下さい」

眼を閉じ、吹口に唇を当て、心の限りをその音にこめる。

涼やかな風のように、笛の音は廃墟の上を渡っていった。
嵐のような咆哮が止み、しばし静寂が支配する。
聞こえるのはただ、澄んだ笛の音ばかり。

若い僧…鏡水は、ただ無心に笛を吹き続けた。

その調べは、果てもなく降りしきる雪の悲しみに似て、
ただ静かに、辺りを満たしていく。
澱んだ穢れがゆるゆると解け、薄らぐ。
山門の向こうは、しんと静まりかえっている。

が、その時だ。
くぐもった唸り声が、都大路の外れで轟いた。
巨きな影が、鏡水をめがけ、凄まじい速さで地を這い進んでくる。

ズザザザザッ!!
異様な音に鏡水が振り返ると、すぐ目の前に黒い影が土煙を上げ、
鎌首をもたげるように、立ち上っていた。

「キシャァァァァッ!!」
黒い影は牙をむきだし、瘴気を纏って鏡水に襲いかかった。
「ああっ!」
鏡水は思わず腕を上げ、身をかばう。
しかし、そのような事をしたとて怪物の牙の前には無力。
鏡水は小さく経文を唱えた。

と、鏡水に覆い被さり牙を突き立てようとした形のまま、
影は凍り付いたように動きを止めた。

「今の内に逃げろ」
役占音だ。
錫杖を影に向け、素足で瘴気を蹴散らしながら走り寄る。

「あ、あなたは…」
笛を握りしめ、鏡水は後ずさった。
次の瞬間、占音はもう鏡水と影の間に来ていた。
「話は後だ。この怨霊は鬼が放ったもの。
長居は無用だぞ」
「けれど…あなたを置いては」
占音は振り向き、冷たい一瞥を投げた。
「足手まといだ。行け」

言うなり、錫杖から凄まじい気を放つ。
黒い影が消し飛んだ。

鏡水に背を向けたまま、占音は表情のない声で言う。
「自らこの地に入り込むとは、愚かな」
「あ、あの…私は、…その…どうしてもここに来なければならなかったのです」
「先の親王…今は巨大な怨霊と化した者に、何用があったのだ」
「……いえ、ただ…おいたわしいと、そう思い、笛を…お聞かせしたいと」
「常人なれば、それでは答えにならぬ。
だがお前の笛は、天と魔の端境にあるもの。
お前は何者だ。」

占音のその問いに、鏡水の顔が強張る。
唇をわななかせ、鏡水はうつむいた。
占音は無表情のまま言う。
「真を語らぬ者に、これ以上何も尋ねることはない」

そこまで言った時、占音ははっとして顔を上げた。
「次が来る。走れ!」
「は、はい」
有無を言わせぬ占音の口調に、鏡水は指示された方に向かって走り出そうとした。

だが……

「穢れが…強い」
占音が周囲を見回した。
「怨霊に…囲まれてしまったのですね…」
「見えるか」
「はい…」

瘴気がゆらゆらと立ち上がり、形となり、二人の周りを取り囲んでいる。

「逃げ道を作る」
占音が印を結んだ。

その時だ。

「こちらへ」

柔らかな童のような声がして、
年の頃、十六、七ばかりの少年が、ふいに二人の前に現れた。

緋色の衣を纏った少年は、異形の者だった。
肩にかかる金色の髪と、深い青色の瞳。

「鬼か…」
占音の言葉に、少年は小さく微笑んだ。




2008.12.22




第2章 動き始めし時の行方を

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