龍の夢


間章 北の夢幻


1 地




夕暮れの大気の中を駆けゆく少女がいる。

まるでその足に翼が生えているかのように、
ふわり、ふわりと、深山の細道を上っていく。

道端の磐根に腰掛けていた老人が、少女を見て「ほお…」と呟いた。

老人の両脇に控える二匹の鬼も、ぎょろりとした眼を少女に向ける。

少女は息も乱さず、斜面を駆け上がってきた。

通りすがりに、にこっと笑って手を振る。
老人と、二匹の鬼にも。

「ほお…」
再び老人は呟くと、少女に声をかけた。

「お嬢ちゃん、鬼が見えるのかね」

少女は足を止めて、驚いたように頷いた。

「恐ろしくはないのかな」

笑顔で「うん」と答える。

「そうか、そうか」
老人はさらに問うた。
「ずいぶん急いでおるようじゃな」

少女は少し口を尖らせた。
「もう夕方だから、帰って眠らないといけないの」

帰ると言っても、ここは深山。
人家などありはしない。

しかし老人は再び「そうかそうか」と言うのみだった。
「引き留めて悪かったのう」

「ううん」少女は首を横に振ると、老人と鬼に
「バイバイ」と言って、またふわりふわりと駆けていった。

少女の後ろ姿を見送りながら、老人は誰にともなく言った。
「ばいばい…か。不思議な言葉じゃの。さようならと言う意味か」
「グガァ」「グゴ」
二匹の鬼が、肯定するように小さく啼いた。


その時、全山が鳴動した。
地が揺れ、ざわめく木々から鳥が一斉に飛び立った。
耳に聞こえぬ唸りが山を満たす。

手にした錫杖をとん、と地に突き、やおら老人は立ち上がる。
「行ってみようかの」
二匹の鬼も付き従う。


「くそっ!」

男が腕を大きく振り、何かを地面に叩きつけた。

ガウッ…
叩きつけられたそれは、淡い色の毛を逆立てた子犬。
怯む様子もなく、低く伏せた姿で、男に牙を剥いている。

しかし、首には縄が巻かれ、その先はもう一人の男が握っていた。

「せっかくの獲物じゃねえか」
縄を持つ男が言った。
「冗談じゃねえ、これを見ろよ」
最初の男が、血の滴る腕を示した。
「だがよ、変わった色の毛並みだぜ。
もう少し大きくすれば…」

しかし腕を噛まれた男は黙って地面から太い棒を拾い上げた。
子犬めがけて力任せに振り下ろす。

鈍い音と同時に、
「痛っ!!」
小さな悲鳴。

「な、なんだ、おめえ…」
「いつの間に…」

荒くれた男達も、一瞬、息を飲んだ。

子犬をかばって男の一撃を受けたのは、
まだあどけなさの残る少女だった。

子犬を抱き上げ、首に食い込んだ縄に手を掛ける。
と、きつく巻き付いた縄が、はらりと解けて落ちた。

「大丈夫?恐くなかった?」
優しく子犬に話しかける少女に、
「何しやがる?!俺達の獲物だぞ!!」
「横取りする気か」
我に返った男達が怒声を浴びせた。
少女が振り向く。その眼には怒りがあった。
「酷いことする人達には、渡さない」

その言葉など意に介さず、男は太い腕を突き出し
子犬を掴もうとする。

ふわり…と少女は身をかわす。

「こ、こいつめっ!」
傷を負った男が、棒を闇雲に振り回そうとした。
もう一人の男が声をかける。
「おい、あまり痛めつけるなよ。この童も連れて行こうぜ。
軽業ができるとふれこめば、高く売れる」
「そうか!そいつはいい」

一人が少女の後ろに回り込む。
お互いに目で合図をしあい、少女を捕まえようとした時

お…ぉぉぉ…
小さな喉頸を真っ直ぐに伸ばし、子犬が吠えた。
全山に響き渡る咆哮。
山が応え、木々が応え、大地が震える。

「な…何だ…」
「耳が…痛え」
男達が怯んだ隙に、少女は身を翻して逃げ出した。

「待てっ!!」
「逃げられると思うな!!」
男達が後を追う。

と、見えない何かにぶつかった。
そのまま、着物の襟首をひっぱられるように、宙に浮かぶ。
じたばたともがくが、何もできない。

ほどなくして少女が戻ってきた。
老人が一緒だ。

「な、何もんだ、てめえら?!」
「俺達を下ろせ!!」
口々に言うが、老人と少女が彼らに同情する様子はない。

「鬼さん、ありがとう」
少女が何もない中空に向かって言った。

「鬼…?」
男達の背筋に冷たいものが走る。
耳元で恐ろしげな唸り声がしたと思ったのは、空耳か…。

少女と老人は、彼らなど眼中にないまま、話をしていた。

「おじいさん、私、この子を連れて行けないの」
「そうじゃろう」
「ケガをしてるのに…」
「では、わしが預かろうかの」
少女の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、おじいさん」
「じゃが、こいつはどう思っているのかな」
老人が手を差し伸べると、子犬は顔を上げて老人の顔を見つめ、
次いで少女を見上げると、
くぅぅ…
小さな舌で、少女の手を舐めた。
そして、おとなしく老人の手に抱かれる。

「またね…」
少女は子犬に頬ずりした。

その時、山の端に入り日が隠れた。

すっと、少女の姿が消える。

「ぎゃっ」
「ば、化け物だったのか」
中空で肝を潰したような悲鳴があがった。

子犬は淋しげに鳴き、老人の腕に湿った鼻面をくいくいと押しつけた。

「またね、と言っておったぞ」
耳がぴんと立つ。
「また会いたいか」
元気よく吠える。
「そうかそうか」
老人は頷いた。


「早く…ここから下ろせ…」
「さもないと、…ただじゃおかねえぞ…」
勢いのない脅し文句を並べる男達が、ドサリと地面に落とされた。

「よ…よくもやりやがったな、じじい」
「たかが、子犬一匹で…覚えてやがれ…」
へっぴり腰でよろよろと後ずさっていく。

老人から好々爺とした風情が消えた。
周囲に、凄まじい気が放たれる。
「お前達には、これが犬にしか見えぬか。
鬼も見えぬお前達では、さもあろうが、
これを傷つけたなら、どのような目にあったかしれぬのだぞ」

男達は、ぺたりと尻餅をついた。

この老人の正体に薄々気づいたのだ。
無頼の世界にも、その噂は流れていた。
途方もない力を持った修験者がいると。
その者は、鬼を供とし、自在に駆使するのだと。

「あの娘に感謝するがよい」

老人は男達に背を向け、さらに山を上へと登っていった。



山頂の磐座。
その前に立つ老人を、無数の眼が取り囲む。

月光の中、老人の声が朗々と響いた。

「汝が子、我と共に行くことを許すか」

山が……是……と答えた。




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2007.12.21




北の夢幻

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