左近衛府少将の多忙な一日・前編

友雅×あかね 「舞一夜」ゲーム本編中



入り日を受けた長い廻廊を、友雅が足早に進んでいく。
荒れた庭も破れた壁も、周囲は一面、褪せた錆朱の色に染まり、
陽の届かぬ物陰は早々と夜の闇を懐に入れ、色も形も黒い沈黙の内にある。

ここは豊楽院(ぶらくいん)――
かつては厳粛な祀りや華やいだ饗応が繰り広げられていた場所だ。

だがいつの頃からか、その役目は紫宸殿へと移り、
高い築地に囲まれたこの広大な一画は、使われることもなくうち捨てられた。
夕刻ともなれば、そこここに魔の者の気配が立ち現れると噂され、
この場所にまつわる血なまぐさい話は、数え上げればきりがない。

だからこそ、朝堂院と並び建つ場所にあるにも関わらず、
その門は閉ざされ、誰一人足を踏み入れることなく荒れるがままになっている。

しかし――

その豊楽院に、友雅はいる。
朽ちた床板を巧みに避けながら、奥へ奥へと進むその顔に、
いつもの艶やかな笑みは欠片もない。

誘うように僅かに開けられていた南門をくぐり、ここに入った。
蔓延る草をかき分けて中門にたどり着いたが、門の正面は壁。
さらに奥へと進むには、その先は左右に伸びる廻廊を行くしかない。

だが東側の廻廊に連なる最初の堂に入った瞬間、
友雅の後ろで扉が閉まった。

明るさに慣れた眼には、周囲は闇。
眼を凝らすいとまも与えず、友雅の背後から剣が振り下ろされた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * *


その日の朝―――

「夜の警備は疲れるものだね…」
友雅は、長い髪の端をくるくると指に巻き付けながら独りごちた。
宿直(とのい) 明けの朝は、一夜の夢の後よりも気だるい。

「手柄を立てたというのに、橘少将殿は相変わらずですな」
「大蔵に侵入を企てた不埒者を一気に捕らえた手際、ほれぼれしましたぞ」

「曲者の方から私に向かってきたのだよ。
運が悪かったとしか言いようがないのだが…」
「確かに曲者どもにとっては残念なことでしたな。
一番腕の立つ橘少将殿に斬りかかるとは」

通じなかったのならそれでいい。
友雅が小さな笑みを浮かべた時、ざらりとした声が割り込んだ。
「いや、橘少将殿は、ご自分が不運だと仰ったのだろう。
なぜなら…」
友雅は眉を上げて声の主を見た。
声に反して年はまだ若い。

「少将殿は、剣を構えての立ち回りなど、なさりたくなかったのではありませんか。
けれど曲者が向かってきたなら逃すわけにもいかず、
後を追うのも厄介なので、峰打ちで三人を倒した…と。
これでいかがでしょうか、橘少将殿?」

友雅は破顔一笑した。
「若い理解者がいてくれたとは、嬉しいね。
それが、生真面目で知られた右兵衛府の伴権佐殿とは意外だが」
「いえいえ、私が生真面目とは…人の話とは当てにならないものです」
権佐は頭を振りながらざらざらと笑った。

「さて、私はこれで失礼するよ。
後はよしなに計らってくれてかまわない」
「よしなに…とは」
「言葉通りだよ、権佐殿。
左近衛府と右兵衛府で仲良く手柄を分け合うといい」

疲れた――という言葉とは裏腹に、
侍従の香を残して去っていく友雅の後ろ姿には、
一分の隙も乱れもなく、どこか艶めいてさえ見える。
そこかしこから感嘆と羨望のため息がもれた。


一方、彼らの視線を意識することもなく、友雅は清涼殿に足を向けた。
帝から内々の呼び出しがあったためだ。

龍神の神子と共に内裏の穢れを祓うのは、大切な務めだ。
だが同時に、帝からの信任厚い友雅には、
八葉としても朝廷に仕える武官としても、
裏で暗躍する鬼を封じ、倒すという、二重に課せられた役目がある。

この役目は、帝にとって…否、京にとっての大事。
友雅を待っているのは、帝だけではあるまい。

――堅苦しい話し合いになるのだろう。
早く解放されたいものだ。
だが、そう願うのは話し合いを厭うているからではなく……

友雅はいつの間にか、梨壺に流れる箏の音を思っていた。

幸か不幸か、朝議は長引いている。
朝議が終わるのを待つ間に、
友雅はさらに気の進まぬ用事を片付けておくことにした。


* * * * * * * * * * * * * * * * * *


「橘少将様……私のどこがお気に召さぬというのか」

細い指が、歌の書かれた文をぐしゃりと握りしめた。
その文は、女が友雅に送った歌への返歌だ。

女が詠みかけたのは、男心を巧みにくすぐる歌。
だが、それに対して返ってきたのは、女の期待を裏切る歌であった。

「美しい貴女に恋い焦がれる男は数知れぬというのに
私にまで戯れに歌を詠みかけて惑わせようとするのですか」

誘いをさらりとかわしながらも、紛う方なき拒絶の意だ。
華やかな料紙に、流麗にして繊細な筆使いで書かれた、雅な言葉の連なり。
男女の機微に通じた男から返された、非の打ち所のない空疎。

これで…三度め。
いつも同じ答、同じ距離。

女は手の中の文を投げ捨て、庇に出た。
ぎしぎしと、胸の内が軋む。

内裏に仕える女房たちの顔も名も、女はほとんど見知っている。
橘少将と情を通わせた女が、数多いることも。

「家柄も美しさも歌の才も、全て私に劣る者ばかり。
さびれた屋敷に住む女でさえ、少将様は相手にされているというのに……」

そして今、橘少将の心を捕らえているのは梨壺の姫なのだと、
内裏の女房たちが、かまびすしくささやき交わしている。

その姫はとても愛らしく、箏の腕もなかなかだという。
噂だけで心惹かれている貴族も少なくはない。

だが――得体の知れない小娘だ。
橘少将だけでなく、法親王とも親しいらしいが、
梨壺に上がっているのに帝のお召しがあるわけでもなく、
怪異を探して日がな一日内裏の各所を巡っている。
そして評判の箏は、橘少将が一から手ほどきをしたと言う。

文を届けた童は言葉を濁したが、橘少将は今日も梨壺に行っているのだろう。

――つまらない小娘より私の方がふさわしいのに、
橘少将様は、なぜそれが分からないのか。

女は険のある眼で梨壺のある方を一瞥すると、
赤い唇を血が滲むほど強く噛んだ。
「梨壺の姫とやら……ほんに忌々しいこと」

「まこと、忌々しいことにございます」
庇の外から、ざらりとした声が相和した。


* * * * * * * * * * * * * * * * * *


帝との話し合いを終えた友雅は、
女の考えた通り、梨壺へ続く渡廊を歩いていた。

友雅が返した歌は、女がきれいに引き下がれるよう、
戯れに終始してみせたものであった。
美貌と才知に恵まれ、人一倍気位の高いあの女は、
友雅の歌に鮮やかに切り返して溜飲を下げることもできよう。

甘い香を放つ蠱惑的な花は、男の心を引きつけるものだが、
中には、うっかり触れた者を己が蔓に絡め取ろうとする毒花もある。
あの女は毒花であると、友雅はとうに見切っていた。
そのような花には近づかぬが吉。離れて賞翫するに限る。


渡廊を出ると、かすかに箏の音が聞こえてきた。

「おやおや、神子殿は今日も熱心だね」

友雅はふっと微笑み、庇で足を止める。
顔を上げれば、空は青く淡い。
雨の季節の気まぐれな色だ。

友雅は眼を閉じ、微風とあかねの爪弾く箏の音が
さやさやと心に吹き入り、通り過ぎていくに任せた。

空と風と、静寂を満たす箏の音色。

柔らかく、ひたむきなこの音色は、
拙さを残しながら、なぜこれほどに胸を打つのだろう。

友雅は静かに息を吐くと眼を開き、静かに歩き出した。
なぜ…などと問うた自分の青さと、
ここまで我知らず急ぎ足で来てしまったことに、かすかに苦笑しながら。


* * * * * * * * * * * * * * * * * *


「権佐様も同じ思いでいらっしゃったとは」
女は、ざらりとした声の主と話している。
年若くして着々と位階を上げている伴権佐は、深く頷いてみせた。

「あの娘は、左大臣殿の息のかかった者。油断はなりません。
何も知らぬような顔をして、いつの間にやら弘徽殿女御様にまで取り入っております。
このままでは……」

権佐は、言わずとも分かるだろうとばかりに言葉を切った。
女が仕えているのは女御元子、右大臣の娘だ。

女もその意味をすぐに理解した。
あつかましく橘少将に近づいたことばかりを腹立たしく思っていたが、
梨壺の姫は主の立場をも危うくしかねない、と。
そうなれば、主に仕えている我が身にも累が及ぶ。

「そう仰るからには、よい策がおありなのでしょう?」

いきなり直截な言葉が返ったことに、権佐は満足そうに目を細めた。
「主上のお召しが無いとはいえ、内裏に上がった姫。
手荒な真似はよろしくありません……表向きには。
しかし……」

右兵衛府権佐はまた途中で言葉を切り、一段と声を低くした。
「あの姫は一人で内裏を出ることもある、と聞いております。
けれど内裏の外はなかなかに物騒で、何があるやもしれません。
ふいに姿が消えたとしても、それは誰も与り知らぬ事。
姫はいったい、どのように消えてしまうとお考えですか」

「消える……消えるのか……どのように……」
めまぐるしく考えを巡らす女の中で、
何かが小気味よい音を立てて外れた。

自分を満たしていく黒い情念のままに、女は昂然と顎を上げた。
「姫は丁重に扱わなくてはなりませぬゆえ…」
そして右兵衛府権佐に、瞬きもせず視線を据える。
「せっかく怪異のお好きな姫なのですから、豊楽院で一夜お過ごしいただきましょう。
もちろん供はおつけできませんので、お一人で……」


* * * * * * * * * * * * * * * * * *


「今日は一日、ここで君と過ごしてもよいかな、神子殿」
友雅はそう言って、あかねに艶然とした笑みを向けた。

「穢れを祓いに行かないと…」
「疲れることはしたくない気分なのでね」
「疲れることをしてきたんですか」

友雅は、あかねのもっともな問いに小さく笑い、
秘密めかして耳元にささやく。
「内緒」

「大変なんですね、友雅さん。
ここでよければ、どうぞ休んでいって下さい」
そしてあかねは、友雅と同じように声を潜めた。
「帝のお仕事だったんですね。
すみません。これ以上聞きませんから」

――これはまた……
からかったつもりが、本当のことを言い当てられてしまうとはね。

友雅は、再び箏に取り組み始めたあかねの横顔を見つめた。

どうやらこの真っ直ぐな神子殿は、「内緒」と言う言葉からも、
その耳に触れる口調からも、男女の秘め事には思いが向かないようだ。
ならば私が何をしてきたのかと思い巡らして、
頬を染めたり、ましてや心を悩ませることもないのだろう。

……少しは妬いてくれまいか。

「あの……どこか間違っていますか?」
視線に気づいたあかねが顔を上げるより早く、
友雅は、箏を爪弾くあかねの手に自分の手を重ねた。

「と…友雅さん……?」
「いいのだよ、このまま続けて。
私も一緒に弾くから、速いところの指の動きを覚えるといい」
「は…はい」
「素直な神子殿は可愛いね。
では、左手も一緒に押さえようか」

「?…………」
答えまでの間が少し開いたのは、
どのような体勢になるか考えていたからだろう。

だが次の瞬間、あかねがふるふるふると首を振るのと同時に、
「くっつき過ぎだ、友雅!」
ずかずかと天真が入ってきた。

「天真先輩、いきなり怒鳴らなくても…。
あ、おはようございます、友雅さん」
続いて詩紋が来た。

「肝心なことだから最初に言うんじゃねえか。あかねから離れろ、友雅!」
「あ…あの…何かあったのでしょうか、神子」
身体を斜めにして天真から身を離しながら、永泉が心配そうに問う。

「おはようございます、神子殿。
天真、場所をわきまえろ。神子殿にご迷惑がかかる」
庭から、頼久の声がした。

「おはよう、みんな」
あかねは手早く箏を片付けると、簀子に降りた。

「今日はこの五人か。
じゃ、行こうぜ、あかね。穢れをさっさと祓っちまおう」
「でも天真くん、友雅さんは疲……」

「もちろん、私も一緒に行くよ。神子殿の八葉なのだから」
友雅は立ち上がり、あかねに続いて庇に出る。

――やれやれ。
私はどうしてこんなに勤勉に働いているのだろうね。
少しはゆっくりと休みたいのだが…。

友雅は胸の内で肩をすくめた。

今日がいつも以上に多忙な一日となることを、
この時の友雅はまだ知らない。



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1年半ぶりの友あかですが、
お誕生日SSのつもりで書き始めたのに、
なかなか形にならず、遅刻してしまいました。
おまけに、まだ終わっていないし……(汗)。
夜勤明けの友雅さんが、ゆっくり休めるのはいつのことか……。

左近衛府少将(今年も31歳・独身)の奮闘に、
最後までおつきあいいただるとうれしいです。


2012.6.14 筆