「お師匠様がお呼びだぞ」
いきなり後ろから声をかけられて、浅茅は飛び上がった。
その拍子に、手桶の水をひっくり返してしまう。
「うわっ!」
足に水がかかり、その冷たさに浅茅はもう一度飛び上がった。
食事の支度をしている厨まで、運ばなければならない水だった。
外は雪。
寒くてたまらないけれど…仕方ないや。
もう一度、汲んでこよう…。
取り落とした手桶を拾おうとして、
……ん?
ぼく、何て言われたんだっけ…。
浅茅は固まった。
「おい、聞いてるのかよ」
浅茅を呼びに来た二つほど年かさの見習い少年が、
あからさまに不機嫌な声を出した。
「はいっ!あ!す、すみません!」
浅茅はひょこんと頭を下げる。
「ったく、後ろの気配に気づきもしないやつが、なんで…」
少年は、捨てぜりふをぼそっと吐き、行ってしまった。
その後ろ姿をぼんやりと見送り、次の瞬間、浅茅は駆け出していた。
そして今、寒々とした広間のはじっこに、浅茅はちんまりと座っている。
奥の間には、お師匠様と泰明さん達がいる。
洞宣さん、長任さん、大怪我をしているけれど、行貞さんもいるはずだ。
みんなと呪詛の元を祓いに行ったのは、ついこの間のことだ。
口をきくことも考えられないくらいに凄い人達と一緒だったなんて、今でも信じられない。
浅茅は、小さくため息をついた。
雑用係の仲間は、浅茅の無事を素直に喜んでくれた。
しかし、見習いの少年達や、若手の陰陽師達は、
帰ってきた浅茅に対して、先程のような冷たい態度を取るようになったのだ。
無理もない。
安倍家にいることすら知らなかったような子供が、
晴明直々に指名され、重要な使命に抜擢されたのだから。
しかも、達人である洞宣や、練達の術者である長任や行貞と共に。
そしてあろうことか、帰ってきてみればあの泰明とまで、
笑顔で言葉を交わすようになっていたのだ。
とはいっても、笑顔なのは子供の方だけだが。
何があったのかは、晴明を含め、ごく少数の者しか知らない。
ならばなおさら、見習いとは名ばかりの雑用係の子供ふぜいがなぜ……と
問いたくもなるというもの。
この俺よりも劣るくせに、身の程をわきまえろ。
そう言いたくて仕方がない。
だがそんな視線を、浅茅はたいして気に病んでいるわけではない。
元より、どじを踏んでは叱られることに慣れっこになっていたせいもある。
しかし、自分の行くべき道をはっきりと心に決めた今、
浅茅にとって、自分に向けられる嫉みなど、何ほどのものでもない。
何より、自分が嫉まれるに値する力を持っていないことを、
浅茅自身がいやというほど自覚している。
浅茅は、奥の間の扉を見つめ、かすかに漏れ聞こえる声に耳を澄ませていた。
内容は聞き取れなくても、声で誰が話しているのか分かる。
あそこにいる人達みんなが、ぼくの目標だ。
陰陽師って、どんなものかよく分からなかった。
安倍家にいるくせに、力が無くて、修行も始められなくて、
普段の姿を見ているだけに、よけいに、想像もできなくて……。
でも、ぼくはその凄さを目の当たりにしたんだ。
陰陽術の力だけじゃない。
何が起きてもあきらめないで、最後の最後まで力を尽くす様を見た。
冷たい態度や、ぶっきらぼうな言葉の後ろに、
あたたかい気持ちがあることを知った。
強い陰陽師になることは、あんなに大きくて優しい心を持つことでもあるんだ。
泰明さんのように……。
強い決意と床から伝わる寒さの両方に、
浅茅が思わずぶるぶるっと震えた時、奥の間の扉が開いた。
床に両手をつき、がばっと身を伏せて深く頭を下げる。
足音が通り過ぎていく。
「お前の番だぞ」
洞宣さんだ。
「寒かったでしょう」
長任さんだ。
「粗相をするなよ」
苦しそうに歩いている。
行貞さんだ。
「礼など無用」
泰明さんだ!
「はいっ!」
しかし、
「失礼します。浅茅です」
そう言って奥の間に踏み入った途端、浅茅は暗闇の中にいた。
身体が動かない。
眼前に、爛々と光る巨大な眸がある。
それは浅茅を睨め回しながら、ゆっくりと近づいてきた。
「ひぃぃぃっ!!」
大きな眸の下に、浅茅を一呑みにできるほどの、さらに巨きな口が開いた。
鋭い牙が並んでいる。
その口の奥から、真っ赤な光が溢れ出し、
見る間に、それは火の息となって浅茅に襲いかかった。
劫火が浅茅を飲み込む。
熱い!!!
悲鳴を上げようとしても、声が出ない。
身を捩っても、動けない。
が、次の瞬間、
「そなたの働き、皆の者より聞いたぞ」
年老いてなお、力強く響く声がした。
狐につままれたような気持ちで周囲を見回せば、
そこは心地よく整えられた部屋。
浅茅は何事もなかったように端座し、
その向かいにはお師匠様……
稀代の陰陽師安倍晴明がいた。
「驚いたようじゃの」
じゃあ、あれはお師匠様がしたこと…?
「は、はい…」
蚊の鳴くような声で答えた。
「案ずるな。この場所に呪詛を持ち込ませぬためじゃ」
呪詛?!
ぼくが?!
しかし、浅茅は晴明の眼を見て、言葉を飲み込んだ。
その様子を見て取ると、晴明は初めて、かすかに表情を緩めた。
「言の葉の使い所を心得るのは、陰陽師の大切な修行の一つ。
覚えておくがよい」
「はいっ!」
晴明はすっと眼を細めた。
ここからが、本題だ…。
浅茅はいずまいを正す。
「此度の件、皆からの報告は聞いた。
だが、お前しか知らぬことがある」
ぼくしか知らないこと……?
浅茅は合点がいった。
ぼくが髑髏を壊した時のことだ。
あの時は、ぼく一人。
他に誰もいなかった。
洞宣さん達には話したけれど、それだけじゃだめだったんだ…。
浅茅はごくんと唾を飲み込むと、
その時のことを一生懸命に語った。
一瞬一瞬を、鮮やかに覚えている。
だが、人に話すとなるとそれはまた別だ。
しかも相手はお師匠様。
緊張のあまり、眼のまえがくらくらする。
話し終えた時には、浅茅は汗びっしょりになっていた。
遠くで、小鳥の声がする。
雪が、止んだみたいだ……。
どこか遠いことのように、浅茅はぼんやりと思った。
「呪に縛められた身体が、僅かに動いた…というか」
晴明が反芻するように言った。
「はい。あんなものを見たのは、あの時が初めてでしたけれど」
晴明はしばし沈黙し、浅茅に視線を据えたまま身じろぎもしなかった。
浅茅はいたたまれない気分で、遠くの小鳥の声を数える。
一羽、二羽……ああ、外は晴れているんだろうな…。
やっと口を開いた時、晴明の眼には優しい光が宿っていた。
「ようやった。あの呪は、知らぬうちに降り積もった穢れ。
それをお前は、自身の力で祓ったのだ」
そうか…そうだったんだ!
浅茅の顔が、ぱっと輝く。
晴明は眼を閉じ、言葉を続けた。
「今日よりお前は、正式な見習いとして修行を始めよ」
「うわあ!本当ですか?!」
思わず、つまらぬことを叫んでしまう。
と、突然
「お師匠様に向かって、その言葉遣いは何だ!!」
叱責の言葉が降ってきた。
「え?」
いつの間にか、浅茅は寒い広間に戻っていた。
奥の間への扉は固く閉ざされている。
ぐいっと袖を引かれて、慌てて声の主を見上げれば、
見習いの修行を受け持つ中年の陰陽師だった。
「今日から部屋を変われ。こっちだ」
陰陽師は先に立って歩き出した。
雪はすっかり止んで、青空がのぞいている。
暗い奥の間に慣れた目には、雪の庭がとてもまぶしい。
次々と繰り出される説教におとなしく耳を傾けながら、
浅茅は安倍の屋敷の長い廊下を歩いていった。
そして奥の間では、
浅茅の足音が遠ざかるのを確かめると、
晴明はゆっくりと握っていた手を上に向けて開いた。
「喝!!」
ばちんと音を立てて、両の手が合わさると、
晴明の掌に一瞬浮かび上がった禍々しい紋様が滅した。
「これが、最後か…」
浅茅の見た劫火の幻は、晴明の術であった。
その身体に僅かに残っていた呪詛を、炎で祓ったのだ。
「幼子に、このような呪詛を施すとは……」
晴明の眼には、いいようのない悲しみと怒りがある。
「私には、あと幾年、残されているのか…」
半蔀を開き、雪の晴れ間の青空を見る。
人の心とこの世の闇を見続けてきた晴明には、
まぶしすぎるほどに明るい空であった。
了
「雪逢瀬」とやらを読んでみるか…
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拙作「雪逢瀬」直後のお話です。
なので、未読の方には意味不明かと。
さらには、泰明さんが一瞬しか出ていなくて、ごめんなさい(平伏)。
言い訳しますと、「雪逢瀬」には、幾つか残されたままの謎(大げさ)があって、
それを解決、昇華する続編の物語を、構想中です。
この話は、その間の橋渡しともいうべきもの。
続編にはいつ取りかかれるやら…な状況ですが、
はっきりと見えているこの話から、まず形にすることにしました。
書いちゃったからには、気合い入れて続きもがんばるしかない…
という気持ちに自分を追いやるための、姑息な手段でもあります(爆)。
2008.5.28 筆