この話は、泰明の通常恋愛・第3段階間近の頃を想定しています。
本編中のストーリーイベントなどの記述も入れた(つもり)ので、
その辺りからも推測して頂ければ幸いです。






蛍 火   (前編)


深い霧の中、笛の音が流れる。
心をとらえてやまぬ、美しくも妖しい音色。
高く低く、すすり泣くように幽かに響く。

「ああ、なんという音色だろうか・・・あらがえぬ」
その音に誘われ、男が一人、魅せられたように霧の中を歩いていく。
「どのような方が、吹いておられるのか」
男の目には、取り憑かれたような憧憬の色。
「このような音色が出せるのなら・・・私は」

古木の生い茂る道を抜けると、霧の向こうに、うち捨てられた廃屋。
傾いた門にはしのぶ草が生え、草に埋もれた庭は、もう池の形すらわからぬほど。
笛の音は、家の中から聞こえてくる。
男は荒れた庭の草をかき分け、家に入った。

破れた板戸を開けると、
そこには、緋色の衣の女がいた。

その女が・・・、笛を奏でている。

光の射さぬ暗い部屋に、女の美しい顔が白く浮かび上がる。
笛に当てた唇は、ぬめるような血の赤。
笛の地は闇夜の黒。差し色に緋と金の線。

一瞬たじろいだ男に、女はちらりと視線を向けた。
ごくり、と唾を飲み込んで、男はかすれた声をかける。
「み・・・見事な腕前だ。その笛も・・・名の知れた名品と思えるが」

女は、うっすらと笑ったように見えた。
「あなた様も笛を・・・たしなまれるのでしょうか」
女の問いに、男は激しくかぶりを振った。
「たしなむ、などというものではない。私は雅楽寮に横笛師として
出仕しているのだ。だが、その私でも、あのような音色は・・・」

女は笛を差し出した。
「吹いて・・・みませぬか」
切れ長の女の目が、暗い光を宿す。
その目に魅入られるように、男は手を伸ばした。
白い手から、笛を受け取る。
その手は、ぞっとするほど冷たい。

「この女・・・魔の者か・・・?」
恐怖に捕われながらも、男は笛を手放せない。
構えた指に、ひたりと、吸い付くようにおさまる。
「ああ・・・、よい笛だ・・・」
男は吹き口に唇を寄せた。

己のものとは思われぬ、えもいえぬ音が響き渡る。
その音は心の内に入り込み、抗う力を奪っていく。
身を任せれば、震えるほどの歓喜が身体を貫く。

男は笛を吹き続けた。
「この笛が・・・欲しい・・・」

そんな男を見つめる女の顔に悲しみの色が宿り、
次の瞬間、その美しい容は鬼女と化した。
「お前ではない!」
地の底から吹き付けるような怨嗟の声。
それが、男がこの世で聞いた最後の音となった。


横笛の楽師が次々と姿を消しているそうだ・・・。
いや、楽師に限らず、笛の腕の立つ者ならば・・・。
京の街に、そんな噂が流れて久しい。

鬼の仕業かという者もいたが、それではどうも合点がいかない。
そもそも、鬼がわざわざ横笛師をさらっていく理由がない。
人々は互いに顔を見合わせ、自分たちには縁のないことと、
安堵するだけだった。

「泰明、本日こそ楽師の行方不明の件、探索に加わってもらうぞ」
「雅楽寮は困惑しておるのだ。このままでは宮中の儀式に支障が出る」
「治部省からも、依頼が来ているのだぞ」

安倍家の屋敷。
これから陰陽寮に出仕する者達が、泰明を取り囲んでいる。
彼らは泰明にとっては兄弟子に当たる。
しかも宮中に参内するほどの術者。その能力は大変なものだ。
しかし、泰明の底知れぬ力には、及ぶべくもない。

泰明の返事はいつもながらに素っ気ないものだった。
「お師匠には、土御門に行くように、と言われている」
「うっ、左大臣殿の・・・」
「お前、うまく取り入ってやがるな」
「言うことはそれだけか。ならば私はもう行く」
「・・・・・・」

前に立ちはだかる兄弟子達に構うことなく、泰明は歩き出す。
「ちっ・・・」
泰明に道をあけながら、彼らは聞こえよがしに舌打ちする。
が、そのようなことを気にするような泰明ではない。
それがよけいに腹立たしい。

朝靄の残る中、土御門に着く。取り次ぎを頼み、庭に出た。
対の屋から藤姫の声が聞こえてくる。
「神子様、朝早くから・・・・」

そこに永泉がやって来た。
「あ、あの・・・おはようございます、泰明殿」
「おはようございます!いい朝ですね」
あかねも庭に降りてくる。


その日は、三人で四神の在処を探しに出た。
洛西まで足をのばすことになったが、それなりの手がかりが得られ、
神社に巣くっていた怨霊も封印し、穢れを祓うこともできた。
あかねは、遠出の疲れもみせず、素直に喜んでいる。

遅い夕暮れが訪れた。山の端に日が沈んでいく。
「あ、きれいな三日月ですね」
「本当に・・・。清らかな光です」
神子に返事をする役目は、永泉が引き受けている。

先に立って歩く泰明は、常のことだが、ほとんど口を開かない。
あかねに・・・神子に害を成すものがないかどうか、
周囲の気を探りながら歩いているのだ。

「・・・!」
泰明が立ち止まった。
つまらぬ者達と出会ってしまった。
「泰明さん?」
「どうなされたのですか?」

「泰明、このようなところで会うとはな」
道をやって来たのは、安倍家の兄弟子達だった。
「小娘と坊さん連れか」
「左大臣殿の御用ではなかったのか」

あかねがむっとする気配。
争いごとを好まぬ永泉がそれを制して挨拶をする。
「あ、あの、こんばんは。泰明殿にはいつもお世話になっております」
あかねもしぶしぶ挨拶した。
「私は元宮あかね。今、土御門のお屋敷にお世話になってるんです」
ところが、
「お前達が気遣うことはない。行くぞ」
二人の心配りをあっさり泰明がぶちこわす。

「ちょっと待てよ、泰明」
「結局今日も、楽師の手がかりはつかめないままだ」
「このままじゃ、帰れないんだよ」
「噂じゃ、笛の音が聞こえてくると、それに誘われて人が姿を消すそうだ」
「だが、笛の音は誰にでも聞こえるってわけでもないらしい」
「お前なら、聞こえるんじゃないのか」
泰明の前に立ちふさがり、次々と嫌みな言葉を浴びせる。
話の雲行きが怪しくなってきた。明らかに、険悪な雰囲気だ。

「あ、あの・・・、私達、お話しの邪魔にならないように、先に行ってます」
自分と永泉を伴っていることで、また泰明が余計なことを言われては申し訳ない。
そう思って、あかねは永泉を引っ張って、道を先へと急いだ。
「二人だけでは危険だ。待っていろ!」
泰明の言葉は、兄弟子に遮られた。
「気をきかせてやれよ、泰明」
「そうそう。坊さんだって、楽しみがないとな。あんなに若いんだから」

その時、輝いていた月が姿を隠した。
と見る間に、辺り一面に霧が湧き上がる。
「ん?何だ、この霧」
「気をつけろ、あやかしの気配だ」
陰陽師達は、いっせいに身構える。

泰明が叫んだ。
「神子!永泉!戻れっ!!」
しかし、霧の中から、返事はない。
「しまった!行かせるのではなかった!」

「・・・えい・・・せん?」
「どこぞで聞いた覚えが・・・ん!」
「ほ!法親王様・・・」
あわてふためく兄弟子達の身体が、泰明の放った気に弾き飛ばされた。
「うわっ!」
「兄弟子に向かって何をする!」
「覚えてろ!」

尻餅をついた彼らの真ん中を、泰明が駆け抜ける。
彼らの下らぬ捨てぜりふなど、耳に入らない。

渦巻く霧の向こう。
聞こえてくるのは
・・・・・笛の音。





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