三日にわたって降り続いた雨が止んだ夜、
泰明とあかねは小さな家の小さな庭に立ち、
雲間から久々にのぞいた空を眺めていた。
七日に間近い月は西の山に沈みかけ、
雨に洗われた空には、金銀の砂子のような星々が輝いている。
「きれいな星空…」
あかねが感嘆のため息と共に言った。
泰明は、あかねの身体に回した腕に少し力をこめる。
あかねは引き寄せられるまま、泰明の胸に頭をもたせかけた。
「神子…」
「泰明さん…」
静かな星の夜、あかねと二人、甘い時を過ごせる…
泰明がそう思ったとたん、
「うわあああああああっっ!!!」
空の上から叫び声がした。
そして、
ドサッ!!
庭に立つ桜の下で、何かが地面にぶつかる音。
暗がりを透かして、木の根方から何かが立ち上がるのが見えた。
「痛たたた……」
声からすると、若い男のようだ。
しかし、落ちてきた男がぶつかったはずなのに、木の枝は折れた様子もなく、
葉末さえそよとも揺れていない。
男はきょろきょろと周囲を見回すと、こちらを向いた。
「大丈夫ですか?」
あかねが近づこうとするのを、泰明は腕を掴んで引き留める。
「神子! 退がっていろ」
空いた方の手には、すでに呪符がある。
しかし泰明が次の動作に移るより早く、男は二人の目の前に来ていた。
近くで見れば、年の頃二十二、三の長い黒髪を後ろに垂らした若者。
殿上人の装束を纏っているが、どことなく雰囲気が違う。
そして若者は、いきなり情けない声を出した。
「う…牛はどこですか?…牛を見ませんでしたか〜?!」
その少し前のこと。
内裏、清涼殿の奥の間では、帝が久々に訪れた永泉と語り合っていた。
そこへ突然……
ズシン!
「ンモ…」
二人の目の前に、牛が落ちてきた。
しかし天井を見上げても、どこにも壊れた痕跡はない。
「主上……」
「永泉……」
美しい房飾りをつけた毛づやのよい牛は、
大きな目で二人を見つめている。
しばし凍り付いていた帝と永泉だったが、先に動いたのは帝だった。
つと立ち上がり、牛に近づく。
「お…お止め下さい」
永泉が震え声で言うが、帝は手を伸ばして恐れる風もなく牛の頭を撫でた。
「モ…」
牛は目を細めておとなしくしている。
帝は永泉を振り向き、嬉しそうに笑った。
「このように間近で見るのは初めてだが、牛とは可愛いものだぞ、永泉」
「主上…」
帝は永泉を手招きした。
「は…はい…」
永泉も立ち上がり、こわごわ牛に近づいた。
確かに、牛車に乗ることはあっても、これまで牛を近くで見る機会などなかった。
ましてや、触れることなど……。
だが、牛は暴れる気配もない。
むしろ穏やかとも思える眼差しを二人に向けている。
「し…失礼します…」
永泉はそっと牛に触れた。
その瞬間、
「……! こ…この牛は…」
永泉が震えた。
「どうした、永泉」
「つまり、橋から落ちたらここにいた…ってことですか?」
あかねが不思議な顔で若者に問い質した。
「ええ、そうですよ。このところ雨が続いてましたよね。
それで河の水かさが増して、いつも渡る橋が通れなくなったんです。
橋守が通してくれないんですよ〜。ひどいですよね。
それでも、帝から牛を連れてくるようにって命令されてたんで、
橋守のいない橋を探して渡ったんです。
危ない橋だな〜とは思ったんですよ。でも帝の命令じゃ仕方ないですから。
でも渡り始めたとたんに橋が壊れて、ここまで真っ逆さまってわけで…」
「帝って、そんな無理なことを命令するような人には思えませんけど。
永泉さんのお兄さんだし」
若者は眼をぱちくりしてから、慌ててかぶりを振った。
「ああ、その帝とは違います。
私の言っている帝は、私の奥さんのお父さんで……
奥さんの…ううう」
若者の眼が潤み、泰明とあかねを交互に見る。
そして、「はあああ〜〜〜っ」と大きなため息をつくと、
泰明に向かってぽつんと言った。
「逢えないって、辛いですよね」
泰明は小さく首を傾げる。
「それは、同意を求めているのか?」
「ううう……当たり前じゃないですか。それくらい察して下さいよ」
しかし泰明はにべもなく言った。
「同意できるかどうか、今の話だけでは判断できない」
「はああ〜〜〜…」
何も言えずもう一度ため息をついた若者に向かい、あかねが励ますような笑顔を向けた。
「そんなに落ち込まないで下さい。
よく分からないけど、牛を探せばいいんですよね。
泰明さんと私もお手伝いしますから」
「勝手に決めるな、神子」
「わあっ! ありがとうございます、みこさん!」
「気安く神子と呼ぶな」
「じゃあ何て言えば」
「あかねでいいです」
「はい、あかねさん」
「あかねとも呼ぶな」
「そんなあ…じゃあ、どうすれば」
「問題ない」
泰明は家の離れ間に向かって手を伸ばした。
蔀戸がひとりでに開き、式盤が宙を飛んでくる。
あかねが言った。
「牛探しの術ですか?」
「そのようなものは無い。だが…」
式盤は泰明の前まで来ると、宙に浮かんだまま静止している。
「神子は牛を探すと言った。私も助力する」
泰明はちらりと若者に眼をやった。
――そしてこの男には、さっさと帰ってもらわなくては。
「ほう、この牛がそのような…」
帝は、目の前の牛を改めてまじまじと見た。
「は、はい。その…私の思い違いかもしれないのですが…」
永泉は荒い息を鎮めようと務めている。
牛に触れた瞬間に感じた、不可思議な感覚。
邪悪なものではなかった。が、この世のものでもない。
帝はゆっくりとかぶりを振った。
「いや永泉、もっと自分に自信を持つことだ。
確かにこの牛は尋常ならざるもの。
ただの牛が、内裏の中にこうして現れるはずもない」
永泉はほっとしたように少し微笑んだが、すぐにその顔が曇る。
「ではなぜこの牛は、ここに現れたのでしょうか」
「それが一番の不思議だ」
帝は頷き、牛の大きな目をのぞきこんだ。
「何か言いたげな目をしているな。道に迷ったのか?」
「モゥ…」
牛は小さな鳴き声を発する。
「お前の言葉が分かれば、力になれるのだろうが…」
「あ…」
帝の言葉に、永泉ははっとして顔を上げた。
「どうした、永泉」
「泰明殿です、主上。泰明殿なら牛の言葉も分かることと」
「泰明?…ああ、地の玄武であった安倍家の陰陽師か」
「はい、泰明殿は木と話すことができるのです。
声の無い木と話せるならば、牛とも言葉を交わすことができるのではないでしょうか」
永泉の話を聞き終わるなり、帝はよく通る声で呼ばわった。
「友雅をこれへ」
泰明が式盤を操っている隣で、あかねと若者は小声で話をしている。
「まず一旦帰って、お義父さまに事情を話してみたらどうでしょう。
牛よりも、あなたのことを心配していると思うんです」
あかねの言葉に、若者はとんでもないというように肩をすくめた。
「帝…っていうか、お義父さんはとても気難しい人なんです。
牛を迷子にしたなんて言ったら、ますますご機嫌を損ねるし、
そうなると、ますます奥さんに会えなくなっちゃいます。
そもそも、少しでも私を心配してくれるなら、
奥さんに逢うのを許してくれてもよさそうなものなのに…。
もう、頑固なんだから…」
あかねは驚いた。
「奥さんて…お嫁さんのことですか?」
「もちろんそうですよ。優しくてきれいで、もう最高の奥さんです」
「お嫁さんに逢うのに、なぜお義父さんの許しが要るんですか?」
「仕方ないですよ。仲よく一緒に暮らしてたのに、
お義父さんに連れ戻されちゃったんですから」
「……もしかして、お義父さんを怒らせることをした…とか」
「うう〜ん…そこは微妙だなあ。
少し仕事をなまけたくらいで目くじら立てないでほしいっていうか、
怒る方が悪いんじゃないかっていうか…」
「仕事をなまけたら、怒られても仕方ないですよ」
「とにかく牛を連れて帰らなかったら、お義父さんは大激怒です。
奥さんに永久に逢わせてもらえないかも……あああ〜〜〜」
泰明は、式盤を使いながらあかねと若者のやりとりをしっかり聞いていた。
そして、やっと合点がいく。
――この男が「辛い」と言っていたのは、妻に逢えないこと。
同意を求めていたのは、このことか。
私の妻=神子
↓
神子が、実家=神子の世界に戻ってしまう
↓
私を置いて……
↓
ということは
↓
神子に…逢えなくなるのか!!!
泰明は、半眼に閉じていた瞳を大きく見開いた。
その時、よく知っている兌の気が近づいてくることに気づく。
泰明は門の方を見た。
「泰明さん、どうしたんですか?」
「友雅だ」
同時に、聞き覚えのある声が門の外で響いた。
「夜遅く申し訳ないが、私を中に入れてはもらえまいか」
人払いした清涼殿の前庭に、若者と牛が立っている。
「みなさん、お世話になりました」
「気をつけて。今度は橋から落ちないで下さいね」
「ええ、慎重に行きますよ」
「ンモ…」
牛は、帝と永泉に向かって名残惜しそうに短く啼いた。
「刹那の時ではあったが楽しかった…と言っている」
「余も楽しかった」
若者は丁寧に頭を下げる。
「この世界の帝、あなたの御代が栄えますように」
その言葉と共に、若者と牛は淡い黄金色の光に包まれ、
小さく瞬きする間にふっと消えた。
天を仰いだ皆の眼に、星の河がかすかに揺らめくのが映る。
帝が、空を見上げたまま呟いた。
「残念だ、永泉。あの牛、こっそり飼おうかと思ったのだが」
「そ…それは」
無理なのでは…と言おうとして、自分の答えるべきはそのような言葉ではないと
永泉は気づく。
兄は…帝は、そんなことはとうに承知なのだ。
「私も残念です。世話をしに通わせて頂こうと思いましたのに」
帝はその言葉に、嬉しそうに頷いた。
「よく言った、永泉」
「不思議な夜でしたね」
「騒がしい夜だった」
「まさか清涼殿の中で牛に出会うとはね」
「ここに入ってきた時の友雅の顔は、なかなかの見ものだったぞ」
「主上もお人の悪い。しかし…今宵は五日の月ですか」
「あの牛飼いの方も、いつまでも留守にするわけにはいかなかったのですね」
「文月にふさわしい趣深い出来事だったね。
天から落ちてきたのが姫でなくて残念だが」
皆の笑い声が上がる中、泰明はまだ天の彼方を見やっていた。
そして、遠く去った若者に向かい、言の葉を送る。
「言いそびれてすまなかった。
同意する」
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太陰暦合わせの七夕ネタでした。
牛が内裏を駆けめぐる大騒動にしようかとも思ったのですが、
こじんまりと収めてみました。
地玄武繋がりで、リズ×望美
「八月の雨の夜」
と微妙に関連しています。
2009.8.15 筆