花の還る場所  第三部

1.小さな影の蠢く時


晴れた日の昼間というのに、土御門のその一画だけが薄暗い。
「ひいいいっ!」
「だ…誰か…」
女房、家司が右往左往し、
様子の分からぬまま騒ぎだけを聞きつけて集まった家人達は、
事情を知ろうと誰彼構わず話しかけて、混乱に拍車をかけている。

「何だ、このイヤな感じは…」
イノリが顔をしかめる。
「何があったのだね」
友雅が家司の一人を引き留めて問う。
血の気の失せた顔で家司は唇をわななかせた。
「さ、左大臣殿の…お身体に…」

その時、藤姫の姿に気づいた女房達が、慌てて行く手に立ち塞がった。
「姫様、今行ってはなりません」
取り合わずに進もうとする藤姫と、思いとどまらせようとする女房の間で
ちょっとした押し問答が繰り返される。

あかねは藤姫に加勢しようと口を開きかけたが、
後ろから来た泰明に手を引かれ、何か言う間もなく連れて行かれる。

庭から回った頼久は、この騒ぎが曲者の侵入ではないことを確認すると、
集まってきた武士達に矢継ぎ早に指示を出した。
左大臣の様子は分からぬながら、このような事態にあっても、
屋敷の警護を揺るがせにすることはならない。

しかし、頼久自らはその場を外すことをせず、左の手を剣の鯉口にかけたまま、
左大臣の部屋の前で控えている。

混乱の中、泰明は真っ直ぐに左大臣の居室を目指すが、
あまりの迷い無さゆえか、ぶつかる者も止める者もいない。

「神子、ここで待っていろ」
閉ざされていた戸を開け、中へと踏み込む。

後から続いた皆が、一斉に息を呑んだ。
たちこめる瘴気の向こう、御帳台を取り巻いて、無数の小さな影が蠢き、
チチチチ…
キキッ……
チチチ…チチチ…
耳障りな甲高い声で、鳴いている。
人に近い形をしたそれらは、左大臣の方に赤黒い糸のようなものを投げつけては、
また手元にたぐり寄せて、その糸をむしゃむしゃと頬張る。

瘴気も影も、女房や家司には見ることができない。
彼らが驚き、恐れおののいていたのは、
影達の饗宴に供された左大臣の有様を目にしたからに他ならない。

めくり上げられた布帛の中に、左大臣の顔が見える。
一面に浮かび上がる紫斑。
息はぜえぜえと苦しそうだ。

「頼久! 入れ!」
そう言って泰明が一歩踏み出すと、影達がキィキィと騒ぎ出した。

「御前を穢す無礼、申し訳ございません」
頼久が大きな身体を折り、律儀に挨拶をして入ってくる。

一匹の影が泰明に飛びかかってきたが、こともなげに振り落とされる。
「礼儀など今は無用。それより、これに見覚えはないか」
キィィッ!
足元で暴れる影を指さし、泰明は言った。
「こ、これは…」
頼久はまじまじと見入り、言下に断じる。
「今朝方の怨霊と同じ姿です」

「そうか」
泰明は掌を足元に向けた。
チ…
黒い炎を上げて、影が消える。

チ! キッキィッ!!
一匹の影が大きく鳴き、他の影が一斉に泰明に向かってきた。

「巨大な形は仮のもの」
まっすぐに立てた泰明の指に、いつの間に取り出したか、呪符が挿まれている。
「皆さんはお下がり下さい!」
屋敷の者達が庇から簀の子へと退く気配を確認すると、頼久は剣を抜き放った。

「そして、こやつらもまた仮の形」
泰明の手が一閃し、呪符から光が弾け出る。
中空に飛ばされた影を、頼久の剣が切り裂いた。
「あの怨霊、巨躯であるのに力弱く、あっけないほどでした」
頼久はそのまま御帳台に駆け寄り、左大臣に取り付こうとする影を薙ぎ払う。

泰明は印を結び、呪を唱えた。
縛された影達が動きを止める。
チチチチキキキキ…耳に付く鳴き声だけがかまびすしい。

「頼久に倒された時、こやつらは巨きな形を解いたのだ。
皆がそれに気を取られている間に、一匹が左大臣の牛車に潜り込んだのだろう」
両の手をパン!と音を立てて合わせると、全ての影が消滅した。
同時に、たちこめていた瘴気が晴れていく。

「たった一匹がこのように増えた…?」
頼久は周囲を見回した。先ほどまでの髪が逆立つような瘴気は消えたが、
閉め切った部屋の中は小暗く、まだどこかの隅にあれが隠れていても不思議はない。
剣を手にしたまま、頼久は四隅を見て回る。

「入らせてもらうよ」
友雅が音もなく部屋に滑り入ってきたが、
左大臣を一目見るなり言葉を失った。
皆が慌てふためくのも道理だ。

友雅と頼久の動揺をよそに、泰明は表情一つ変えない。
「すぐに祓う」
左大臣の枕辺に回ると、その額に触れ、眼を閉じて体内の気の流れを探る。

「瘴気はまだ深く入ってはいない。早く手を打てたのが幸いだ」
苦しそうに上下する左大臣の胸に撫物の札を置き、祓えの呪を唱えると、
札はどす黒く色を変えて消えた。
一枚ずつ、丁寧に札を置いては呪の言葉を繰り返すたびに、
手の先にまで広がっていた紫斑が、少しずつ薄らいでいく。

「泰明にしては手間取ってるじゃん。一気にぱ〜っとできねえのか?」
イノリが外から大声で言った。
簀の子の上には、女房や家司達がひしめいている。
皆、中の様子を知りたがっているのだが、永泉とあかねが扉の真ん前に立ち、
「あの…すみません、泰明殿がよいと言うまで、お待ち頂けますでしょうか…」
「お願いします」
と言っては、深々と頭を下げるので、動きようがないのだ。
藤姫はそれより後ろにいて、周りを女房達に固められている。

ざわついた外の様子を見て取り、友雅が泰明に小さく尋ねた。
「屋敷の者達が心配して集まっている。
だが、迂闊に入れない方がよいようだね」
手を休めることなく、泰明は短く答える。
「分かっているなら、友雅も止めに行け」
「先ほどの小さな怨霊、左大臣殿の様子を見ると、かなり質が悪そうだが」
「その通りだ」
「あれの正体は何だったのか、教えてはくれまいか」

泰明は顔を上げた。
「疫神だ」
「疫神!?」
頼久と友雅が同時に声を上げる。
泰明は二人の驚きにかまわず続けた。

「まだどこに隠れているともしれぬ。
取り憑かれたくなかったら誰も入ってくるな、と言え」





天文の記録を身に写した蝶は、行貞が読み終えると溶けるように消えた。

「書き換えられている?」
「はい、私の記憶に間違いがなければ、ですが、
消された部分がある、という方が正確かもしれません」

行貞の言葉に、晴明は厳しい表情になった。
天文と暦は政の根幹に繋がるもの。その大元となるべき記録に手が加えられ、
しかも、強い魔の力を持つ物の怪がそれに関わっているとは。

行貞は少し震える声で続けた。
「記録は日付に従い綴られています。
記述の多い日はぎっしりと書き込まれ、少ない日には多少の空白もあります。
しかし、不自然な空白が数か所見つかりました。
しかもそこは、私が以前、お師匠様にご相談した箇所なのです」
「天文司が出した解釈が間違っているのでは、と言うてきた時のことか」
「はい」
晴明は小さく嘆息した。
「あの後、記録を見直すよう天文博士殿に遣いを出したのだが、
それだけでは動いてくれなかったようじゃな」
「お師匠様の依頼を無視するとは!」
行貞の顔に血が上る。
あまりに正直な反応に晴明は苦笑した。
晴明自身、かつては天文博士を拝命していたことがあるとはいえ、
今は外部の者に相違ない。
天文博士には、余計な口出しと取られてしまったようだ。
宮仕えの者独特の競争意識や縄張り意識は、陰陽寮の中とて例外ではない。

「すぐにでも陰陽寮に戻り、もう一度私から!」
行貞は勢いよく言い放ち、次に「痛っ…」と身体を二つに折った。

これ以上話を続けては血の気の多い行貞の身体に障る。
晴明は立ち上がった。
「傷の癒えぬうちは落ち着いて養生するものじゃ。
ともあれ、天文の記録には不審なことが多すぎる。
よく調べれば前後に矛盾が生じるやもしれぬ、
時間をかけて精査すべきと、直々に天文博士殿に伝えに行くとしよう」

その時、部屋の外から声がかかった。
「お師匠様、急ぎおいで下さい。
朝廷より、お遣いの方がお見えになりました」



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―― 花の還る場所 ――
第二部
14.再会
第三部
2.草庵  3.分断  4.護法  5.傷心  6.式神
7.前夜  8.心を映すもの  9.雷雲  10.惨劇  11.(わか)
12.雨の後  13.岐路  14.散滅  15.予兆
16.逃走  17.行方

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第三部開始です。
いろいろ慌ただしく動き始めました。
伏線の回収もこれからぽつぽつと。
相変わらずのマイペース更新ですが、
がんばりますので、よろしくおつきあい下さいませ。



2009.10.08  筆