花の還る場所  第四部

1.呪 詛


雲間から月が顔を出した。
月明かりに、内裏の建物がくっきりと浮かび上がる。
篝火だけでは心許ない…そう思っていた年若い門衛は、少し安堵して空を見上げた。
時折、生暖かい微風が吹き過ぎていく晩だ。
内裏には数多の花が咲き揃っているというのに、
風には澱んだ水のような臭気が微かに混じっている。

ぶるっと身震いしたところを、門の反対側に立つ年かさの門衛に見られた。
揶揄するような声がかけられる。
「怖いのか」
若い門衛は、むっとして声を張り上げた。
「そのようなことはありません!」
――ちょうど退屈していたところだ。もう少しからかうか。
年かさの門衛は、意地悪く続けた。
「近頃の若い者はだらしのないことだ」
「聞き捨てなりません! なぜにそのよ…」
激高した言葉が途切れた。再び月が隠れたのか、みるみる内に暗くなっていく。
「ほうれみろ、やはり暗がりが怖ろ…」
年かさの門衛の、勢い込んだ言葉も途切れた。
二人は、暗い空を見上げて呆然としている。

その視線の先には、欠けゆく月。

「月の蝕み…」
「何と不吉な…」
ひた…ひた…と近づく足音に二人が気づいた時には、すでに遅かった。
腰の剣を抜く隙もなく、怨霊の瘴気と爪に捕らえられる。

魂切れる絶叫が、月のない空に響き渡った。





闇の中に青白く浮かんだ女が、
美しい顔に静かな諦念の笑みを浮かべて帝を見つめている。

帝の双眸に涙が滲んだ。
忘れもしない……これは、永久の別れを告げる直前に見た表情。

「定子よ…」
そう呼びかけながらも、これは夢なのだ…と帝は思っている。
ここは御帳台の中。
夜闇の帳越しに見る人の姿が、これほどはっきりしているはずがない。
しかも、定子がいる場所には燈台もない。
だから夢なのだ。
夢であるからこそ、繰り返し、こうして定子は訪れてくれる。

――儚い逢瀬の時間。
気がつけばまたいつもの通り、浅い眠りから覚めた自分がいるだけなのだろう。

帝は定子から眼を離さず、ゆっくりと身を起こした。
これすらも夢。そしてここは精進潔斎中の独り寝の床だ。
夢幻に導かれるままに起きたとて、隣に目覚める者はいない。

その時、あの不吉の声が漂った。

『夢…と思うているか』

――夢…ではないというのか。…いや、耳を貸してはならない。
「魔の者の言などには惑わされぬぞ」

『夢はいつか消えるもの……
消える夢とうつつの身体……どちらを欲する』

「定子の夢は、お前の仕業か」

『帝よ…御身の成せる技だ』

身体が重い……
なのに、今しも立ち上がり、定子の側へと行こうとあがく自分がいる。
夢ではない。
意志の力を振り絞り、帝は言った。
「……消えよ!」

刹那、桔梗の形の光が帝を覆う。
その光はみるみる内に広がり、部屋に満ちて闇をかき消した。
定子の姿もまた、光の中に消えていく。

『晴…明……』
不吉の声が、そう言ったような気がした。
が、それが声なのか、どろりとした思念であったのかは分からない。

声が消え、定子が消え、光も消えた後は、
床に就いたときと同じ……音もなく深い夜。
帝は懐から紙の守り札を取り出した。

「これは安倍晴明殿の力を秘めた呪符。
事あれば、必ずや主上をお守りすることでしょう。
どうか、肌身離さずお持ち下さいますよう…」
そう言って、永泉から手渡されたものだ。
札に描かれた桔梗印が、ほのかな光を放って息づいている。
「感謝するぞ、永泉」
帝のやつれた頬に笑みが浮かぶ。

その時、慌ただしい足音が聞こえた。
「何事か」
よからぬ事が起きたのだということは、容易に想像がつく。
深夜早朝を問わず、帝の元に報せが来るものといったなら、
反乱謀反の類かあるいは……

「密奏の儀にございます」
「空に凶兆か」
「今宵、月の蝕みが起きました」

燈台が近くに寄せられ、箱に入れられた密奏の書が差し出された。

禍事が近い……
胸が押し潰されるような不安と焦燥。
だが、それを表に出してはならない。
怖れる様子を微塵も見せてはならない。

帝は手を震わせることもなく静かに箱を開け、
奏上書の封を切った。



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―― 花の還る場所 ――
第三部
16.行方
第四部
2.刻・迫る  3.破戒  4.土御門  5.思いを抱いて・前編  6.思いを抱いて・後編
7.神泉苑  8.裏鬼門  9.禍事  10.蝕み  11.暗き水
12.冥き国  13.欠けた力  14.亀裂  15.神子  16.悲しみの日
17.狭間  18.花の還る場所

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第四部開始です。
終わりに向けて加速していければ、と思っています。
相変わらずのマイペース更新ですが、
がんばりますので、よろしくおつきあい下さいませ。



2010.4.09  筆