花の還る場所  エピローグ

1.京・前編



神泉苑の儀式から、数日が過ぎた。

穢れの祓われた京の地には清浄な気が巡り、
各所に現れていた怨霊もその姿を消した。

黒日の記憶はまだ生々しいが、
京の人々の多くは、大規模な祓えの儀式が功を奏したのだと思っている。
だが、あの日神泉苑にいた者でさえ、事の全貌を掴んではいるとは言い難い。
広い苑、御霊の出現、暗闇に加え、自らに命の危機が迫っていたとなれば、
誰しも自分の周囲のことしか覚えておらず、
しかも恐慌を来した中での記憶とあっては、それも当てにはならない。

まして、宮中の者達がこぞって逃げた後に起きたことを、誰が知り得ようか。
彼らが見たのは、突然天地を結んだ白い光と、
その後に陽の影が動き、黒日が終わったこと――
それだけであった。

神泉苑に残った陰陽師全員が見たのは、宗主の最期のみ。
大津の者達はその時まで周囲に気を配る余裕などなく、
安倍家の弟子の中でも、あかねを見た者は、
黒い亀裂を越えた長任など、ごくわずかであった。



だが…頼久、イノリ、鷹通、友雅と永泉だけは、
「奇跡」ともいうべきものを眼にしていた。

倒れた泰明を囲み、宝玉に呼びかけた彼らは、
遠い時空の音を聞いたのだ。
そこから伝わってきたのは、懐かしい仲間の声。

「天真っ! 頼む、お前の力を」
「詩紋! オレだ! こっちは大変なんだ」
「神子殿と泰明殿が消えてしまったのです」
「泰明殿の魂を探してほしいのだよ」
「天真殿? 神子が…いるのですか? ああっ、じれったい!
なぜはっきりと仰って下さらないのですか…」

その時、泰明の宝玉の輝きが、皆の眼を射た。
見開いたまま光を失っていた泰明の瞳がゆっくり閉じ、
魂を失った身体が白い光に覆われて薄らいでいく。
泰明の姿が消える瞬間、その唇に浮かぶ微かな笑みを、確かに皆は見た。

そしてしばしの後、彼らは泰明の声を聞いたのだ。

「問題ない、神子」

穏やかで、あたたかな幸せに満ちた声であった。

その刹那、皆の安堵した心を映したかのように、
宿っていた宝玉が静かに消えた。
自分達の祈りが通じたと、宝玉が教えてくれたのだ。
そして八葉としての務めが終わったことも、また。





「藤よ、ずいぶん顔色がよくなったのう。
頬も赤くてぷくりとしておる。子供らしゅうて愛らしいぞ」
左大臣は、元気になった愛娘に上機嫌で言葉をかけ、牛車に乗り込んだ。

彼が機嫌がよいのには、もう一つの理由がある。
かねてからの読み通り、
神泉苑の儀式が、右大臣を押さえ込む好機となったのだ。

右大臣は自ら墓穴を掘った、ともいえる。
自らが主導した儀式の失敗と、重用していた宗主の件、
さらには、騒動の中で器量の小ささを露呈してしまった。
これにより、右大臣に傾いていた流れは完全に逆転した。
左大臣が大きな失策さえしなければ、
右大臣が自力で巻き返しを図ることは、まず不可能。
だが油断は禁物だ。

――まずは、本日の朝議からじゃ。

牛車に揺られながら、左大臣はこれから開かれる朝議のことを考えている。
議題は、儀式にまつわるあれこれだ。
当然、右大臣に対して厳しい追及がなされることだろう。

どこまで追いつめるか、その加減が難しい。
朝議の面々の関心は、まさにそこにあるからだ。
右大臣の処遇は、明日は我が身にふりかかるかもしれないのだから。

以前、巨大な怨霊の現れた場所を、牛車は何事もなく通っていく。

あの日と同じく、今日も警護に就いている頼久は、
微かな胸の痛みと共に、静かに朝靄の向こうを見ていた。





朝議へと向かう父を見送った後、
藤姫はかつてあかねが使っていた部屋に足を運んだ。

そこから見る庭は、今もきれいに調えられている。

女房達の気配を伺い、誰も見ていないことを確かめると、
藤姫は庭に降りた。

顔を真上に向ければ、空は今日も高く青い。
ぽっかりと浮いた雲が、気持ちよさそうに流れていく。
庭に咲いた花の香りは、焚きしめた香よりも芳しい。

藤姫の顔に笑みがこぼれ、
大きな瞳からは、涙がこぼれた。

――神子様が、教えてくれた。
空の高さも、風の心地よさも、草の匂いも、
この足で、しっかりと立つことも…。

藤姫の目の前を、二羽の蝶がひらひらと戯れながら飛んでいる。

泣いてはいけませんね。
神子様も、泰明殿とご一緒に
幸せに過ごしていらっしゃるのですから…。

藤姫は、袖で涙を拭った。

――龍の宝玉が元の形に戻った時、
五彩の色に少し遅れて、地の三つの色…
青龍、朱雀、玄武が現れ、そして一つとなりました。
だから、私は知っております。
神子様は、泰明殿と共にご自分の世界に戻られた。
天真殿、詩紋殿、蘭殿もご一緒で、きっとにぎやかなことでしょう。

神子様のくれたこの「未来」を、私は大切に生きていきます。
だからどうか……私のことも、時には思い出して下さいませ。
遠い世界で神子様を思う、星の一族のことを。





帝は永泉の話を聞き、全てを知った。
しかし、それを記録に留めるよう命じることはしなかった。

鬼との対決、そして此度の事件を通して、
龍神の神子に関する記録があまりに少ない理由に思い至り、
さらには儀式の出来事を思い返して、帝は確信した。

あの日、神の加護が具現化し、京を救ったことは、
弟から兄へ語られた束の間の言の葉として、消えるべきなのだ…と。

龍神の力、龍神の神子の力を知り、
その力を我がものにしようとする者は必ずいよう。
鬼がそうであったように、人もまた然り。

それが広く知られたならば、神子を騙る者も現れるだろう。
恐怖から逃れんため、あるいは己が野望を果たすため、
真の神子に、龍の贄となるよう強要することもあろう。

権力への妄執渦巻く朝廷は、
真の伝承を語り継ぐ場所としてふさわしくない。
それを知るのは、神子に仕える星の一族のみでよい。

ゆえに、朝廷の記録には
――神子は龍を呼び、世に光をもたらして消えた――とのみ記され、
秘中の秘として次代へ伝えられるべく、記録庫に厳重に封印された。





それから間もないある日のこと、
帝は永泉と友雅だけを伴って秘かに東の山に出かけた。

これは、安倍晴明の全面的な協力によって実現できたものだ。
その占いによれば――
帝は里内裏に籠もり、今日一日誰とも会ってはならぬ。
口をきくこともならぬ――
とのこと。
他ならぬ安倍晴明が厳かに言い渡したとなれば、
占いの結果にあえて異議を唱える者はいなかった。


輿もなく、一歩一歩坂を踏みしめて三人が登った先は、鳥辺野の山であった。

山頂近く建つ御霊屋は、背後の翠巒(すいらん) に溶け込み、
明るい陽射しの中、静かにまどろんでいる。

勢いよく伸びた草を分け、
木々が、ちらちらと葉影を落とす御霊屋の前に、帝は立った。
高く上がった太陽が、緑濃い山頂にまぶしい光を注いでいる。

だが、帝の心には、しんしんと雪の降る夜の光景が映っていた。

あの夜、葬列は黙々とここまで来たのだ。
そして、冷たくなったお前を残し、去ったのだ。
その時に現れた魔のものは、
私に自らの心の弱さと深く暗い深淵を覗かせた。

「言挙げをする」
帝は顔を上げ、凛として言った。
永泉と友雅は後ろへ下がり、頭を垂れる。

帝は真っ直ぐに背を伸ばし、心にある誓いを言の葉に乗せた。

「京に都の遷りし時より、悲しき思いの連鎖は続いてきた。
人は人を思い、故に過つ。
だが、その過ちに克つのも、強き思いだ。
私は、民を思う。国を思う」

帝は木の間越しに、眼下に広がる京の街を見た。
「私はここに生きる全ての人々を、思う」

そして再び、御霊屋に向き合う。

「定子よ……私は今もお前を想っている。
これからも、想い続ける。
帝としての生を全うしたなら、再びまみえよう。
その時まで、しばしの別れだ」

天高く、大きな鳥が鳴いた。
ふわ…と吹いた風が草の匂いを運ぶ。
葬送の地は、命の息吹に満ちている。

「主上、高きお心に、感激いたしました」
永泉が頬を赤らめながら、遠慮がちに言った。
「主上の情熱に当てられましたか、永泉様」
友雅がからかうように言った。
「そっ…そういうわけでは…あの…」
「気にすることはない、永泉。
若い者をからかうのは友雅の悪い癖だ」
そして帝は笑った。
永泉が久々に聞く、晴れ晴れとした兄の笑い声だ。

「ああ、清々しき心地だ。
今日は供にも恵まれた。
永泉も友雅も、先例にない、などと説教しないのがよい」

「す…すみません。先例には…詳しくないもので」

こらえきれずに吹き出した帝と友雅を、
永泉はきょとんとして交互に見比べた。

屈託ない笑い声が、夏の終わりの空に響く。

神子と八葉によって切り開かれた
儀式の「その先の日」は、確かに続いている。



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―― 花の還る場所 ――
第四部
18.花の還る場所

エピローグ
2.京・後編  3.重陽  4.冬の朝

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「その後」のエピソードです。
オリキャラ等も交えて書いていきます。
どうか今しばらくのお付き合いを…。

2010.07.27 筆