花の還る場所  第二部

1.惜 春


内裏の回廊。
年若い陰陽師が、周囲を見回しながら歩いている。

「あの…お尋ねしたいのですが…」
簀の子から庇の内に向かい、丁重に声をかけるが、
御簾の内からは、ひそひそ話と忍び笑いが聞こえるばかり。

「美しい陰陽師殿ですわねえ」
「でも、かわいそうに…ほほほ…」
「内裏で迷子なんてねえ…ふふふ…」
「晴明殿のお弟子かしら」
「きっとそうよ。例の妖かしが…」
「ああ、そうだわね」
「無事に戻れるのかしら」
「さあ?」

「ああ…ここでも答えてもらえないのか…」
春のうららな日射しの下、陰陽師の白い顔は、恥ずかしさと焦りで上気している。
内裏の人達は、なぜこのように意地悪なのか…。

手にした荷には、陰陽の術を施すための道具が入っている。
早く届けなくてはと、若者は唇を噛む。

自分は元々内裏に上がれる身分ではない。
師匠の安倍晴明は、その特別な能力ゆえに格別の待遇であり、
だからこそ、口添えで供をさせてもらったのだ。
それなのに、このような失態をしてしまうとは…。

師匠と共に内裏に入って間もなくのことだった。
晴明は内々の話があるという貴族に呼ばれ、その場を離れた。
その間に、『お弟子の方は、こちらでお待ち頂くのが決まり…』と古参の女房に言われ、
ぐるぐるとあちこち引き回された先で、一人だけ残されてしまったのだ。

術を…使おうか…。そうすればすぐにでも…。
一瞬、そう思う。
だが、勝手に術を施すことは、師匠から固く禁じられている。
若者の力が強すぎるためだ。

それは安倍家の高弟すら、遠く及ばないほどの力。
だが強すぎる力は、自在に使うことができてこそ有用となる。
若者には、まだそれができない。
使いの式神を呼び出したつもりが、鬼神が現れることもしばしば。
怨霊の調伏に当たっては大いなる力を発揮するのだが、場所が内裏とあっては……。

若者は渡殿伝いに進むのを止め、庭に下りた。
太陽を頼りに南に行けば、承明門まで戻れるだろう。
遠回りになっても、そこで門衛に道を聞けばいい。

若者が、道具を大事に抱えて庭の四方を見渡した時、
植え込みの中から手招きする人影が見えた。
背格好と襲の色目から、内裏に仕える女房と分かる。

だまされて迷子になってしまった最前の嫌な記憶が蘇るが、
それでも無視して行ってしまうのはよくないと思う。

若い陰陽師は、しぶしぶ足を運び、
そして…息を止めた。

その人は、半身を陽光にさらし、半身を木の陰に沈ませて立っていた。
花の香とまごう、優しい香が漂っている。

「后町井の怪異を調べにいらしたのでしょう?」
やわらかくあたたかな声が、赤い唇から流れくる。

ぽかんとしていた若者は、しばらくしてからやっと、
その言葉が自分に向けられていたのだと気づいた。

「あ…は、はい…そうです」
上ずった声で慌てて答えると、その人は少し顔をほころばせた。
「では、こちらへ」
「はい」
若者は素直に花の香の後に従った。
庭から再び渡殿へと上がり、冷んやりとした大きな建物を左に見ながら
鍵の手に曲がった簀の子を進んでいく。

「大事なお道具、落としませぬように」
ちらりと振り返り、その人は笑いを含んだ声で言った。
慌てて荷を抱え直し、まだ礼を言っていないことに気づいて、
若者は足を速めその人の前に出た。

「あ…ありがとうございます。何とお礼を申していいか…」
だがその人はゆっくりかぶりを振った。
「内裏の人達の非礼…、どうかお許しください。
私のような者が詫びるのも僭越なのですけれど…」
「い、いえ! そのようなこと、私は何とも」
美しい顔が曇り、長い睫毛が伏せられた。
「人に意地悪をして喜ぶなんて…」
「すみません!」
若者は謝った。
謝ってから、意地悪をされたのは自分だったことに気づき、若者は真っ赤になる。
間の抜けた受け答えに、きっとあきれられたことだろう。

おそるおそるその人の顔を見やった時、若者の手から、ふわりと荷が浮かび上がった。
「うわっ!」
荷は糸に引かれているように、宙を行く。向かう先は、若者と同じ方向だ。

「陰陽の術ですか? 晴明様がなさっているのでしょうか?」
童のような、無邪気に弾んだ声。
だが若者は、荷を眼で追いながら、沈んだ声で答えた。
「はい、御師匠様が業を煮やされたようです…」
「え? それではあなたが叱られてしまうの?」

心配そうな視線が自分に注がれるのを感じ、若者は慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です! 御師匠様は…たぶん…」
小さくなっていく若者の声に、励ますような笑顔が向けられた。
「では、早くあの荷の後を追った方がよいでしょうね」

ちょうど荷は、つい、と角を曲がっていくところ。
「ああっ!」
走り出そうとして足を止め、若者は頭を深々と下げた。
「では、これにて失礼します!」

しかし顔を上げたとき、ふいに若者は、
自分がこの場を立ち去り難く思っていることに気づいた。

――この人とはもう二度と…会うことはできないのだ…。

胸が締め付けられて、痛い。

――きっとこの人は、すぐに私を忘れるのだろう…。
  当然のことだ。なのになぜ、私の心はざわざわと波立つのか…。

若者は震える声で言った。

「私は…安倍晴源と申します。
助けて頂きましたこと、忘れません!!」

そして若い陰陽師は、足音も高く走り出す。

――本当は…言いたかった。
  貴女のことを…忘れません! と。

「私は…襲芳舎の更衣様にお仕えする……」

角を曲がる若者の背に、優しい声のひとひらが届いた。



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―― 花の還る場所 ――
第一部
プロローグ  14.露顕
第二部
2.師弟  3.怨霊  4.大内裏・前編  5.大内裏・後編  6.転変
7.兄と弟  8.疑惑  9.魔手  10.集う・前編  11.集う・後編
12.出奔  13.理に背く者  14.再会

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100年前の四方の札イベント…
京の始まりの妄想…
「2」へと続く時空…
全部がごちゃまぜになって、心の中でひしめきあっています。
どういう順番で、形にしていけばいいんでしょう(汗)。
まあ、↑の内、最初の2つは需要ないので、
せめて泰明さんに関わる部分だけでも
よろよろしながら書き続けたいと思います。

ということで、第二部の始まりは過去に飛びました。
次話はちゃんと泰明さんが出ますので、しばしガマンして下さいませ(平伏)。


2009.04.05  筆