ウィスタリア家の犬

ルビを多用していますので、IE等、ルビ対応ブラウザでの閲覧推奨です。


3.消えた鉱脈



その頃、(ロンドン) では……

「ふんふんふ〜ん♪」
楽しげな鼻歌が中庭から流れてくる。 迷宮( ベイカー)街221bの「めぞん遙か」の 洗濯係・景時が、楽しく仕事をしているのだ。
「ようし、これで終わりだ。今日はいい天気だから、洗濯物がよく乾くよね〜」
神秘の国日本から取り寄せたカナダライから、景時は最後の1枚を取り出した。

「やけに上機嫌ですね、こんな時に」
花壇の手入れをしていた譲が、背中を向けたまま言った。
「わわっ!」
突然声をかけられて、景時は危うく洗濯物を落としそうになる。
「譲くんいたんだ。ごめんね、静かだから気がつかなかったよ」
「俺に謝ることなんてないですよ。そんなことより景時さんは 先輩(かんりにんさん) のことが心配じゃないんですか」
「う〜ん、確かに心配といえば心配だけど、ヒノエくんとリズ先生が一緒なんだから、 大丈夫だと思うよ」
譲は憤然として立ち上がった。
先輩(かんりにんさん)が 採用されてしまったらどうするんですか!」
「あ、あ〜〜そうだね」

譲の剣幕に景時がたじたじとなった時、建物のドアが開いて、九郎が顔を出した。
「何だ、あいつ(かんりにんさん) はいないのか」
「あ、九郎さん、お帰りなさい」
「出張、長かったね。大変だったの?」
「あ、ああ…まあ、そうだったんだが…」
九郎はドアから顔だけ出したまま、言葉を濁した。
望美ちゃん(かんりにんさん)は 用事で出かけてるんだよ。帰りがいつになるかはちょっと分からないけど、 早ければ夕方には帰るかもしれないよ」
「景時さん、楽観的すぎますよ。やっぱり俺が代わりに行けばよかった」
「まあまあまあ、気持ちは分かるけど、落ち着こうよ譲くん。ところでさ、 九郎は望美ちゃん(かんりにんさん)に 急ぎの用でもあるのかな」

景時に言葉にこくんと頷いて、九郎は言った。
「その…実は……」


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


銀と一緒に入ってきた女の子はヴァイオレットという名で、今日限りで辞めるメイドだった。 両親を早く喪い病気の祖母をかかえているため、幼いながらも働いているのだという。 兄はいるのだが、頼りになるどころか、夢のようなことを言って家を出たきり、行方不明。 だが先頃、兄の居所に関する有力な情報を得たため、ウィスタリア家を辞して 自ら探しに行くことにしたそうだ。
「早くお兄さんに会えるといいね」
望美は女の子の手を握って、励ますようににっこり笑う。女の子は 感激した様子で言った。
「あ…ありがとうございます。初めてお会いしましたのに、 こんなにあたたかいお言葉を頂けるなんて、本当に嬉しいです。 あなたのような女主人にお仕えできたら、どんなに幸せか…」
そこまで言ってから、女の子ははっとして口をつぐんだ。
「ねえ、お兄さんが家を出た理由を教えてくれる?  夢みたいなことって何なのか、興味があるんだけど」
ヒノエの言葉に、女の子はうつむいて、小さな声で恥ずかしそうに答えた。
「あの…8つ集めると願いが叶うという、伝説の龍の宝玉を探しに行ったのです…」
「7つの間違いではないのか。神秘の国日本に伝わる龍玉伝説によれば、 神龍に願いを叶えてもらうためには、7つの玉を集めなければならないという」
「神秘の国日本には、8つの玉の伝説もあるぜ。プリンセスと犬にまつわる…」

ヒノエの言葉に、女の子は傍目にも分かるほどにびくりとして泰衡の顔を窺った。 その泰衡は、お茶のカップを口元に運ぶ途中で一瞬手が止まり、 銀の肩も僅かに強張っているようだ。
――ふうん、そういうことか。
ヒノエは雑談の続きのような、さりげない口調で切り出す。

「ところで、いつ頃のことなんだい? 犬がいなくなったのは」
お茶を飲みかけていた泰衡が、盛大に咳きこんだ。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


しばしの後、泰衡は眉根をぎゅっと寄せて、ヒノエ、リズヴァーン、望美に向かって 事の一部始終を話していた。 ヒノエのブラフに引っかかった自分が許せないらしい。 銀と女の子は駅に向かった。列車の時刻が迫ってきたので、 銀が馬車で送っていったのだ。

泰衡の話に、ヒノエは低く口笛を吹いた。
「金の鉱脈は本当の話だったってことか」
「フ…だが、今のままでは幻にすぎん」
「それにしても、金の鉱脈の在処を知っているのが 金ていう名の犬だなんて、偶然てのは面白いね」
「O州にとっては、面白くも何ともない」

泰衡の話によれば、O州の山中で地質調査をしていた科学者が行方不明となり、 やがて彼の連れていた、金という犬だけが戻ってきた。その時 犬の首に、科学者の自筆の走り書きと金の欠片を入れた袋がかかっていたことから、 この騒動は始まったのだった。
走り書きには――
山中で道に迷ったこと。 運悪く大雨が降り出し、道から滑落して大怪我をしたこと。 犬とも一時はぐれたが、翌日には自分を探し出してくれたこと。 その時、犬が金の欠片を大事にくわえていたこと。 よく訓練された犬なので、金のあった場所は覚えていると思う。 自分はもう助かりそうもないが、どうか犬をよろしく頼む。
等々のことが書かれていたという。

「これで、噂だけが一人歩きしている訳が分かったよ」
「根拠もないのに騒ぎ立てる亡者共が多すぎる。新聞の株式欄は最悪だ」
「でも根も葉もない噂ってわけでもない。O州としてもモノがモノだけに無視はできないだろ?」
泰衡の眉間の皺が深くなる。
朝廷(王室)幕府(政府)も 興味津々のようだからな」

「どうしてすぐに金を連れて科学者さんを助けに行かなかったの?」
「捜索隊はすぐに派遣した。しかし、手遅れだった。 おまけに金は主人の側から動こうともしなかったそうだ」
「無理もなかろう」
「だが、捜索隊の面々が油断して目を離した隙に、金は突然走り出して行方をくらましたのだ。 慌てて皆が探していると、ひょっこりとまた金をくわえて戻ってきて、 主人の傍らに置いた」
「ご主人が喜んでくれると思ったんだね…」
うるうるうる……望美はハンカチを目に押し当てている。
「結局その時は、金に鉱脈の場所まで案内させることはできなかった。 何がよく訓練されている…だ。あの馬鹿犬は、必要以上に人なつこいだけだ」

「そんなに大切な犬なら、なぜわざわざ (ロンドン)に連れてきたんだい」
ヒノエが問うと、泰衡は苦々しげに答えた。
「知るか。 (ロンドン)には、 全く別の用事で来たのだ。それなのに、列車で別送した荷を解いたら、 あの忌々しい犬が、ハッハッハフハフ言いながら俺に飛びついてきたのだ」

「へえ、そいつは聞き捨てならないね」
「え、どうして?」
「犬が勝手に荷の中に入ることはない。誰かが手引きしたのだ。 O州にいた誰かが」
「いた?」
「いる…と言い直してもよい…この段階では。ヒノエもそう思っているのだろう」
「まあね」

「ともあれ、来てしまったからには仕方ない。この邸で世話をしていた」
「それなのに金は逃げてしまったの?」
「あの女の子が逃がしちゃったんじゃない? 犬って言葉で、ひどく怯えていたよね」
「その通りだ。子供とはいえ、うっかりにもほどがある。 厨房から裏庭に出るドアを開け放したままにしていのだ」
「なぜすぐに解雇しなかったんだい? ウィスタリアの血筋だから?」
泰衡は再び咳き込んだ。
「こ、今度もはったりか」
ヒノエはしれっとして答えた。
「いや、あの立ち居振る舞いは、普通の女の子のものではないからね。 それに、あんたは単なる同情だけで人を雇うとも思えない」
「フ…御館(父上)は情に厚い方だからな」

泰衡は注意深くお茶を一口飲んでから続けた。
「忘れもしない。俺がこの窓から外を見ていた時のことだ。 門扉の格子の間をくぐって金が飛び出していった。 その後をメイドが泣きながら追いかけていたが、足の速さが違う」
「で、犬はそのまま戻ってこないってわけ?」
しかめっ面が、何よりの肯定の返事。

「大々的に捜索したら、すぐに見つかるんじゃないかな」
「普通の犬なら、それもいいけどね」
「うむ。だが相手がO州となれば、素直に犬を渡す者ばかりではないだろう。 犬を返してほしくば、と要求する者がいるかもしれぬ。 さらには、もっと悪い事態に陥っていることも考えられる」

眼をぱちくりさせていた望美が、あっと声を上げた。
「金が特別な犬だと知っている人に連れて行かれたとしたら…」
泰衡の渋面がさらに酷いものになった。

次へ



[1.朝の訪問者]  [2.不機嫌な当主]  [4.認定の証]  [5.九郎と犬]
[小説・ヒノエへ] [小説トップへ]


10.03.30 筆