ウィスタリア家の犬

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5.九郎と犬



汽車に乗ってからも、望美の気持ちは落ち着かない。 犬の行方も気になるが、ヴァイオレットがどこに行ってしまったのかも気がかりだ。 そしてもう一つ、不思議でならないのが……
「ヒノエくん、どうしてあの子が汽車に乗らなかったって、分かっていたの?」

首を傾げて尋ねた望美に、ヒノエは片目をつぶって見せた。
「内緒」
「ええぇぇぇぇ」
「なあんてね。簡単さ。つい先日、この先の支線が落石で塞がれてね、 その関係で、今は臨時の時刻表に従って列車が運行してるんだよ。 だからあの時刻に邸を出たんじゃ、間に合うはずがなかったってわけ」

望美は憤慨した。
「それってひどいよヒノエくん。知っていて教えてあげなかったの?」
しかしヒノエは平然として言った。
「泰衡は知らなくても仕方ないかもしれないな。 でも、銀の野郎は仮にも執事だぜ。街まで何度も往復しているし、 鉄道の手配もヤツの仕事だ。知らないはずがないよ。 それはあの子だって同じだ。そして仮にも、大切な出発の日に乗る列車だよ、 時刻を確かめないと思うかい?」
「でも、勘違いってこともあるじゃない」
「使用人が二人揃って?」
「うーん…」
「だから、知っていて乗り遅れようとしているのはなぜか、興味があってね。 まあ、誰にも見られずに行方をくらますため、っていうのが一番ありそうな理由だけど」

息を詰めて聞いていた望美は、大きくため息をついてつぶやく。
「じゃあ、あの子、どこに行ったのかな…」
するとヒノエはあっさりと答えた。
「女主人の所じゃない?」
「女主人? そんな話、したかなあ?」
ヒノエは小さく眉を上げた。
「覚えてるかい? あの子が姫君に言ったこと。 『あなたのような女主人にお仕えしたかった…』ってね」
「そういえば…。でもあれは、次に仕事をするのなら、っていう意味じゃないのかな」
「でも姫君だって、あの時の悲しそうな顔を見ただろう。彼女は特定の『女主人』を思い浮かべながら、 あの言葉を言ったんだよ。だから、途中で口をつぐんだ」
「意地悪な人の所で働いたことがあるんだね。いじめられたのかな…かわいそうに」
「確かにそうだね。あの様子からすると、過去の事じゃなくて 今も、その『女主人』とやらに使われてるらしいからね。 犬を逃がしたのは故意か偶然か、それは知りようがないけど」

しんみりしていた望美は驚いて顔を上げた。
「どういうこと? それだとまるで、あの子が悪い人の仲間みたいだよ」
「一つの物事をどう見るかは、立場によるんだよ。悪いかどうかの判断も同じじゃない?  そういうオレだって、今悪いことをしているんだよ。女装して人目をごまかしてるんだからね」
「それとこれとは別だと思うけど…」
ヒノエは、車窓を流れていく景色に眼をやった。
「いずれにしても、犬が鍵だよ。早く見つけないとね」

さりげなくすり替えた話題に、望美は素直についてきた。
「でも、鉱脈が見つかるのは時間の問題じゃないのかな。 犬がいなくなったからって、O州が何もしていないとは限らないよ。 学者さんが発見された場所を中心に、しらみつぶしに探してるんじゃないかな」
「さすがだね、姫君。当然、O州は全力で探しているはずだ。 だが、まだ見つかったという噂すら、聞こえてこない。 そもそも、うまく見つかったのなら、泰衡があの邸で眉間に縦皺寄せているはずもないしね」

「そうか…。見つかりにくい場所なんだね、きっと」
「覚えてる? 金がどれくらいの時間で戻ってきたか、泰衡は全然触れなかったんだよ」
「泰衡さん、用心深いんだね」
「ああ。金が主人の側をどれだけの間離れていたのか、それが分かれば、 だいたいの距離も知れる。泰衡は、それを明かすほど迂闊な男じゃないさ」

ヒノエはノートを取り出すと、器用にO州の地図を描いた。
「科学者がどこで見つかったのか、金は何時間で戻ってきたのか、 この話には不確定な要素が多すぎるんだよ。 ねえ姫君、そんな時、O州以外の人間がもっと詳しい情報を知りたいと思ったらどうする?」

望美は一瞬きょとんとして、次に声を潜めた。
「O州の他に、鉱脈の場所を知りたがっている人がいるの?」
ヒノエは口笛を吹く真似をした。
「察しがいいね。金の発見は大事件なんだ。 それにまつわる情報を欲しがらないヤツはいないよ」
「悪意を持った人に知られたら……」
「そこが大切なところだね。で、さっきの質問だけど、姫君だったらどうする?」

望美は即答した。
「自分一人だったら、こっそり潜り込むと思う。 協力してくれる人がいるなら、潜り込むのが上手な人に頼むかな」
ヒノエはパチンと指を鳴らす。
「正解。モチはモチ屋ってね」
「モチ?」
「神秘の国日本の食べ物さ。でもこの話が複雑なのはね、鉱脈を見つけたい者と、 見つけさせたくない者とが同時に動いている点さ」

「見つからない方がいいっていう人がいるの?」
「O州の利益が自分の不利益になる場合はね。 まあ、泰衡はそんな事、とっくに承知だろうけど。 でも、身辺にはもう少し気を配った方がいいってね」
「リズ先生がいるから心配ないよ。それに、銀って人もいるし」
「ああ、あの野郎は、とんだ食わせ…」

その時、耳を聾する汽笛が鳴り、ガタン!と列車が大きく揺れて止まった。

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「めぞん遙か」では、九郎が犬にまつわるこれまでの経緯を話していた。

「……で、なぜか俺になついてしまって、どこまでもついてくるんだ。 だが、待てと言えば何時間でもじっとしている。 一緒にいた同僚は、仕事中なのだからそのままにしておけと言っていたが、 それではあまりにかわいそうだ」
「そうですね。でも九郎さんらしいです、家にまで連れてくるなんて」
譲の言葉に、九郎はうつむいた。
「いや、一度は検非違使庁(ヤード) に連れ帰ったんだ。だが、こいつはすぐにやらかしてしまった」
「大胆だな。警察の物を盗んだのか」
「よりにもよって、所長が自慢にしている勲章を…」
「その勲章も、もしかして金でできているのではありませんか」
「そうなんだ…」

彼らが話している間も、件の犬はおとなしく九郎の隣に座り、静かに尾を振っている。

「この犬、可愛いね〜♪ ちゃんと九郎の話を聞いているみたいだよ」
景時が頭を撫でると、犬は喜んでその手をぺろぺろとなめた。

「俺が検非違使庁に行っている間、狭い部屋に閉じこめておくのは可哀想だからな。 番犬として、庭に放してもらえないかと思ったんだが」
「花壇の花を蹴散らしたり、所構わず粗相さえしなければ、俺は構いません。 だけど、先輩(かんりにんさん)が何て言うかな」
「望美ちゃんはいやがったりしないと思うけどな〜」
「俺もそう思うぜ。犬の一匹くらいでどうこう言うやつじゃない。お、サンキュ、九郎」
丁寧に拭いた懐中時計を九郎が差し出すのを、将臣は無造作に受け取ったが、 犬の視線に気づいて、上着の胸ポケットにそそくさとしまいこむ。

「しかし無責任なヤツがいるもんだ。盗癖のある犬を捨てるなんてな」
「犬もかわいそうだよね。ここに置いてあげようよ。 めぞん遙かには、金の勲章なんてないんだし」
「ま、ばあさんの懐中時計は厳重にしまっておくさ」
「すまないな、みんな。恩に着る」

その時、犬にじっと眼を向けていた弁慶が顔を上げた。
「九郎、この犬のいた場所ですが、記憶違いではないですね」
「ああ、詳しくは言えないが、間違いない」
「つまり九郎は、そこに行かなければならない任務を負っていた…か」

九郎は口をへの字に曲げた。
「仕事のことは絶対に口外できん」
しかし弁慶は意に介した様子もなく、笑顔で否定する。
「ああ、別に詮索するつもりはありません。 けれど、偶然とは面白いものですね。 今日、望美さんは、ヒノエ達とその近くに行っているんですよ」

九郎が真顔になった。
「一緒に、先生まで行ったというのか?」
「そうなんです。ウィスタリア家の別邸でメイドの募集をしているからって言ってましたけど、 無茶ですよ先輩(かんりにんさん)は。 もしも採用されたらどうするんだろう」

「あれ〜、何か訳ありなの? 顔が強張ってるよ、九郎」
「なっ…何でもない!」

「ふふっ、ヒノエがこの話を聞いたら、興味を持つかもしれませんね」
弁慶はそう言って、外套の留め金を外した。 黒い外套に金色の金具が光り、犬の目がその動きを追う。 しかしすぐに、犬は興味なさそうに鼻を鳴らし、再び九郎に顔を向けた。

「たいした犬だな。本物と偽物の区別はつくってわけか」
「ええ、そのようですね」
「特別な犬ってわけだね。どこから来たんだろう」

九郎が、皆にくるりと背を向けた。
「そいつを頼むぞ。俺はちょっと出かけてくる」

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乱暴に急停車した列車に、乗客は騒然となった。
「何があったんだ?」
「なぜ止まった?」
「怖いモノ見たさです〜〜」
大勢の乗客が、前の車両へと様子を見に行く。

「さ、オレ達はこっち」
ヒノエは望美の手を引いて、人々の流れに逆らって後部車両に移動する。
「ど、どうして? ヒノエくん」
「みんなの注意は今、前に集中しているからさ。 ということは、後ろに行けばおもしろいものに会えるかもってね。 でも万が一ってことがあるから、絶対にオレの後ろにいるんだよ」
「うん! 分かった」
おもしろいもの、というヒノエの言葉に、望美はわくわくしながら答える。

コンパートメントの中に目を配りながら、ヒノエは真っ直ぐ後部デッキを目指した。 ドアの前まできた時、汽笛が鳴って汽車がごとりと動き出す。 急停車はしたものの、大きな事故の類が起きたわけではなかったようだ。 ヒノエは少し安堵しながらも、周囲を注意深く見回し、その場で足を止めた。 人差し指を唇に当てて声を出さないように合図すると、望美は真剣な顔で頷く。
汽車は次第に加速していき、前に行っていた乗客も、少しずつ戻ってきた。 そこで初めてヒノエはドアに手をかけ、ゆっくりと開く。

と、風の吹くデッキに立っていたのは…
「ヴァイオレット!?」
望美は思わず叫んでいた。だが、彼女のはずはない。眼の前にいるのは男の子なのだ。

男の子はヒノエと望美をにらみ、険のある声で言った。
「その名をどうして知っている。妹はどこだ。おまえ達が邪魔したのか」

続く



[1.朝の訪問者]  [2.不機嫌な当主]  [3.消えた鉱脈]  [4.認定の証]
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10.08.29 筆