不帰(かえらず)の霧 1

(ヒノエ×望美・無印第4章)

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熊野――生き人と死人、そのどちらでもないものが
ひっそりと隠れ棲み、ひっそりと行き交う地。

深い山、深い森、深い谷、名もない滝、駆け下る急流、深い澱み――
万古より流れ来たる時の中で、人が許されたのは、
現世の淡い皮膜に、僅かばかりの足跡を残すことのみ。

だから人よ……
山の霧には用心するがいい。

不帰(かえらず)の霧が 呼んだなら、
答えてはならない。振り返ってはならない。

なぜなら――



望美達は本宮大社を目指して熊野路を進んでいる。
滝夜叉を倒したことで、熊野川の氾濫は収まった。
これでやっと、本宮大社にいるという熊野水軍の頭領に会える。
水軍の協力が得られれば、戦の趨勢は一気に源氏に有利となるのだ。

しかし心ばかりが逸っても、熊野の急峻な山道は厳しい。
まして今は夏。暑さの中の強行軍はままならない。

景時がため息をついた。
もうすぐ「は〜疲れた〜。ねえここらで…」と言い出すのだろう。

――ま、野郎はともかく…

ヒノエは前を行く望美の後ろ姿を目で追っている。
いつもの弾むような足取りとは違う。

――姫君はずいぶんお疲れのようだね。
そろそろ筒に入れた水も底をつく頃か。

ヒノエは身軽に列の前に出ると、先頭を行く九郎に言った。
「この先に小川があるんだけど、そこで一休みってのはどうだい?
岩陰で涼しいから、こんな暑い日の休憩にはもってこいの場所ってね」

「そうだな、俺もちょうど休みの頃合いと思っていた」
九郎は足を止め、後ろの一行を見渡した。
景時が期待に満ちてこちらを見ている。
望美と朔は、やはり辛そうだ。
「では案内してくれるか。
熊野に詳しいヒノエが同行してくれていて助かる」

「姫君達に気を遣うのは当然だろう?
こっちだよ」
ヒノエが草に隠された脇道を親指で示した時、
陽が陰った。
曇ったのではない。
見上げると、高く聳え立つ木々の先端が、白い霧の中に溶け入っている。
霧は渦巻きながら見る間に下へと下りてくる。
さっきまでの暑さが嘘のように、冷んやりした気が辺りを包む。

「霧だ…」
「なぜ急に」
皆が当惑して足を止めた。

霧はみるみるうちに山も道も覆い尽くし、皆の姿を隠していく。
誰もが白い世界に揺らめく朧な黒い影となる。


その時、
「………」
望美は誰かに呼ばれたような気がした。

――ん? 誰?
どこから聞こえたんだろう。

望美は後ろを振り向いた。


霧の中から景時が叫ぶ。
「みんな動かないで!」
「怨霊か!?」
「いや、そうじゃない。でもどこかおかしいんだ、この霧は」
「うむ、ただの霧ではないようだ。油断してはならない」

「先輩、気をつけて下さい」

しかし望美から返事はない。

「先輩?」
「望美?」

「神子! 神子がいない!」
白龍が悲痛な声を出した。
「何だって!」
「本当ですか、白龍」
「私は偽りの言の葉を知らない。
神子と私は繋がっているから、神子がいなくなったならすぐに分かる」

「ヒノエの声も…聞こえないようだ。そこにいるのか? ヒノエ」
「ヒノエくん、いるのかい? いたら返事して!」

「離の気も消えてしまった。ヒノエも、ここにはいない」

「くそっ! どうなっているんだ」
「白龍、神子と繋がっているというならば、その行方を追うことも可能ではないか」

白い霧の中から、悲しげな声が答えた。
「この霧は変だ。神子の存在を私から覆い隠してしまった。
さっきからずっと神子を呼んでいるけれど、私の声は届いていない」




ヒノエは霧の中にいる。

「望美!」
幾度呼びかけても答えは返らない。

突然霧が涌き出し、辺りを包んだ時、
ヒノエは望美に向かって走り出していた。

しかし、一瞬遅かった。
霧の向こう、望美の髪がなびき、次の瞬間その姿は消えた。

「不帰の霧…」
ヒノエの眼に、かすかな焦燥の色が浮かんでいる。
しかし、霧の中へと踏み出した一歩に逡巡はない。

真っ白な世界を前へ進む。
急坂だったはずの足元は、なだらかな下り勾配になっている。
柔らかな草の感触。

「こいつは少しばかりマズい所に迷いこんだようだね」
ヒノエは小さく呟いた。
そして顔を上げ、白い世界の彼方に向かって呼ばわる。
「オレはこっち側に来たぜ。
霧はもういらないんじゃない?」

さわさわと森の動く音がして、霧が左右に分かれて視界が開けた。
ヒノエの足元、緩やかな勾配を下りた先には、
山間の小さな村がひっそりと横たわっている。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず、ってね」
躊躇いなくそちらに向かう。

足元の草の間から、飛蝗が跳ねて逃げていく。
木の上では小鳥がさえずっている。
畑仕事の人々が手を止め、近づいてくるヒノエをじっと見ている。

何の変哲もない長閑な村――

しかしヒノエは、ここに村など存在していないことを知っている。
そしてどことなく荒れた雰囲気をも感じ取っている。
「桃源郷に迷い込んだわけではないようだね」

一軒、また一軒、村の家の戸が開き、中から住人達が出てくる。
敵意は感じられないが、好意もなさそうだ。
ただじっと、こちらを値踏みするように凝視している。

と、奥の家の戸が勢いよく開き、中から若い娘が飛び出した。
そしてヒノエを見るなり何か叫び、一直線に駆けてくる。
村を突っ切り、畑の横を走り抜けて、
ヒノエ目がけて緩やかな坂を駆け上がってきた。

長い髪を振り乱しているが、少しつり上がった大きな目、
ぷくりと厚い唇が妙に艶っぽい。

「オレを出迎えに来てくれたのかい?」
声をかけるのと同時に、
「ああ、うれしい…!」
そう叫んで娘はヒノエに抱きついた。

「ちょっと待ってくれる? 何がそんなに嬉しいんだい」
娘の身体をやんわりと離そうとするが、
ヒノエにぎゅっと巻き付いた腕の力が強くなっただけだ。

「ねえ、オレは人を探してるんだ。もしかしてこの村に…」

その時、
「ヒノエくん!!」

すぐ後ろで声がした。

振り返ると、いつの間に現れたのか、望美が驚いた顔でこちらを見ている。

「姫君!」
「ヒノエくん、その人は?」

――よりによって、こういう場面で姫君と再会か。

同じような状況を経験したことがない…と言えば嘘になるが、
今ほど、全力で真っ向から否定したいと思ったことはない。
しかし言い訳めいた言い方をしたなら、かえって信じてもらえないだろう。

両手を娘から離し、自分も困惑していることをさりげなく強調してみる。
「何か訳ありみたいだね」
望美の驚いた表情に変化はない。

ヒノエの胸に顔を埋めていた娘が、うっとりした声で言った。

「やっぱり、来てくれたんだね……湛快」



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不思議風味のお話です。
シリアス時々おとぼけで、全2〜3話完結の予定ですので、
どうぞお気軽に、最後までおつきあい下さいませ。

2009.11.01 筆