「贄を…」
長老の言葉に、村人達が唱和する。
ヒノエに肩を抱かれていた望美が素早く身体を回し、
二人は背中を合わせる形になった。
「囲まれてるよね、どうする、ヒノエくん?」
落ち着いた声。
先ほどヒノエに制されたのを覚えているのだろう。
望美はまだ剣を抜いていない。
絶体絶命の窮地にあって、その判断は的確だ。
ここで敵意を露わにするのは、彼らを挑発するに等しい。
ヒノエはそっと手を後ろにやり、望美の手を握った。
握り返してくる指先が冷たい。
頭を少し後ろに反らせ、望美の髪が首筋に触れるのを感じながら小声で言う。
「機会はくるよ――おそらく、ただ一度の機会が。
それまで待つんだ、姫君」
望美の髪が動き、無言で頷いたことが分かった。
長老がしわがれた声で厳かに言い渡す。
「旅の方よ、逃れる術はない。
たとえこの村を出たとても、現世への道は見つからぬ。
抗うことなくマキのヌシ様の元へ参られよ」
ヒノエは、昂然と顔を上げた。
一歩進み出て、ゆっくりと頭を巡らす。
ただそれだけのことなのに、村人たちの視線が一斉に集まる。
「そんなこと、承服できるわけがないだろう?
オレたちは自分の世界に帰る。
この姫君にもオレにも、やらなくてはならないことが、たくさんあるんだ」
「現世との別れとはそういうものじゃ。
そのようにして、多くの村人がここに辿り着いた」
「そして迷った生き人を引き留めて、儀式の生け贄にしてきたのかい?」
長老も四人の老人も、村人達も一斉に首を横に振った。
長老の筋張った手が、杖を握りしめている。
「我らとて苦しいのじゃ。
現世と常世のあわいに存する我ら…この村は、
生き人にとってみれば幻にすぎぬのじゃろう。
だが我らはこうして在る。
常であれば、行き人は霧の中に漂う常世への坂道に迷い込まぬように、
そして死人は現世に迷い出ぬよう、道の在処を伝えるのだが……」
「だったら、オレ達にも帰り道を教えてくれない?」
長老がどう答えるかは、分かっている。
だが、今は少しでも多くの手がかりがほしい。
長老との会話から、ヒノエは漠然と掴み始めているのだ。
マキのヌシ様なるものの正体、
守り神が力を失って荒れ狂う理由を…。
答えは最初から目の前にあったのかもしれない、と。
長老のしわがれた声が、淡々と続けた。
「衰えたマキのヌシ様を蘇らせるには、新しき命を以てする他はない。
とうに命を失った我らには、どうすることもできぬのじゃ」
「だからって、はいそうですかって、オレ達がおとなしく言うこと聞くと思う?」
「マキのヌシ様に呑まれるは一瞬。すぐに終わる」
「呑まれる? ということは…」
「だめだよ!!」
突然甲高い声がして、ヒノエと長老の間に娘が飛び込んできた。
ヒノエを湛快と思いこんでいた、あの娘だ。
先ほどからヒノエと長老を見比べては、動かぬ村人の間を縫って、
ただ一人右に左にと走り回っていたのだが、
とうとう我慢できなくなったらしい。
「だめ! 湛快の子は帰してあげて!」
娘は手を握りしめて長老の前に立ち、懇願した。
「そこをどくのじゃ」
長老が言う。
「オレだけ帰るってわけにはいかないんだよ」
ヒノエも言う。
娘はヒノエを振り返った。
「あんたが帰らなかったら、湛快が悲しむじゃないか!
だから…あんたをどうしても……」
娘は次の言葉が見つからないのか、じれったそうに足を踏みならした。
しかし次の瞬間、娘の顔がぱっと輝いた。
長老に向き直って叫ぶ。
「いいことを思いついたよ!
あたしが湛快の子の代わりになればいい!」
「え?」
望美が驚いて振り返る。
村人がざわ…と動いた。
しかし長老はにべもなく言った。
「お前の血では、何の力にもならぬ」
それでも娘は必死で懇願する。
「少しは役に立つかもしれない」
「お前を追ってきた男を、まだ忘れないのか」
「当たり前だよ! だって湛快はあたしの…」
そこまで言って、娘は言葉を切った。
頭を振り、悲しげに呻く。
「ヒノエくん、湛快さんとあの子って…」
望美の問いに、ヒノエは片眼をつぶってみせた。
「だいたい分かったよ。
ま、親父の昔話も、たまには役に立つもんだね」
「どういうこと?」
「ここは現世じゃないってことさ。
霧も村も、眼に映っていることが真実じゃない。
それより、あの子だ…」
娘はヒノエを凝視している。
「あんたを助けるにはどうしたらいい?
湛快を悲しませたくない……」
ヒノエが静かに言う。
「どうして親父を悲しませたくないんだい?」
「だって…湛快はあたしをここまで探しに来てくれたんだ。
でも湛快は、霧の向こうに帰ってしまった。
その時、あたしはとても悲しくて、湛快も悲しそうで…」
「親父のヤツ、別れ際に『また会おうな』、とか言ったんだね」
娘は目を見開いた。
「そう……湛快はそう言った。
でも…あれ?……湛快?…違うよ………私、湛快なんて言っちゃダメだ。
湛快…様だ…一番大切だった……湛快様は…」
そのまま娘は、凍り付いたように動かなくなった。
篝火の炎が弱まり、村人も動きを止める。
その時――
「シロ…」
ふいに訪れた静寂をヒノエの声が破った。
娘が、はっと顔を上げる。
「お前、親父とは、霧の中ではぐれてしまったんだろう?」
ヒノエの言葉に、娘は呆けたように頷いた。
「シロ? それって、あの子の名前?」
望美が怪訝そうな声を出す。
「ああ、そうだよ」
「ちょっと変わった名前だね」
「そうかな。フツーだと思うけど」
その瞬間、娘の姿が消えた。
「え? えええっ!!!」
望美が叫ぶ。
そして、
「きゃぉん!!」
娘のいた場所には白い小犬がいる。
千切れそうなほど尾を振りながら、ヒノエに飛びついてきた。
「シロ?」
望美が手を差し出すと、子犬は「わぉん!」と鳴いて小さな舌で掌を舐める。
「ヒノエくん、この小犬、あの子なの?」
「その通りだよ、姫君」
「湛快さんの飼っていた犬なんだね」
「驚かないのかい?」
「驚いたよ。…でも、可愛いね」
望美は小犬の頭を撫でた。
「小犬の名前をお父さんから聞いてたの?」
「…まあね」
小犬はくんくんと鼻を鳴らしている。
しかし、
「この者の元の姿が見えたか、旅のお方」
長老がしわがれた声でヒノエに呼びかけたとたん、小犬は
「きゃぉん! あぉぉん!!」と何かを訴え始めた。
長老はゆっくりと頭を振る。
「お前がいくら言を重ねようと、無意味じゃ」
「ヒノエくん…」
背筋を伸ばして立ち上がった望美の眼に、強い光が閃いた。
ヒノエは頷く。
「ああ、姫君」
ヒノエと長老の間で、なおも小さい四肢を踏ん張っている小犬を
望美はそっと抱き上げた。
「いい子だね。でも、もういいんだよ、ありがとう」
頭を撫でると、小犬は望美の腕の隙間に鼻面を押しつけ、
心地よさそうにおとなしくなった。
ヒノエは長老に真向かう。
「頃合いかもしれないね。
マキのヌシ様とやらに会わせてもらおうか」
村人達がさざ波のように動いた。
音のないどよめきが、歓びのうねりを伝えてくる。
「旅のお方よ、感謝する」
長老と四人の老人が深々と頭を下げた。
しかしヒノエは不敵に笑う。
「誤解するなよ。オレはこの姫君と一緒に帰るんだ。
でもその前に、ちょっとね」
不可解なヒノエの言葉に、長老は眉根を寄せた。
ヒノエは隣に立つ望美を見た。
二人の視線が合う。
「姫君、オレに力を貸してくれない?」
「もちろんだよ、ヒノエくん。
私も同じことを思ってた」
[第1話]
[第2話]
[第4話]
[第5話]
[小説・ヒノエへ]
[小説トップへ]
2009.11.24 筆