不帰(かえらず)の霧 5

(ヒノエ×望美・無印第4章)

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「ギギッギッ! ギィィィッ!!!」

怨霊は不気味な咆哮を上げると、二人に襲いかかってきた。
枝分かれした腕が鞭のようにしなり、真上から振り下ろされる。

二人はひらりと後ろに飛んで身をかわすが、地面に叩きつけられた腕からは
無数の棘が撒き散らされた。
鋭く尖った棘は、マキノヌシの祭壇を取り囲むように散乱し、
濃密な瘴気と相まって、迂闊には踏み込めない。

「姫君、この怨霊はオレ達を祭壇に近づけたくないようだね。
つまりは、姫君の剣で砕いた黒い塊がヤツの本体ってことか」
ヒノエがじりっと横に動いた。
枝がみるみるうちに分岐し、その動きを追うように広がる。
「そうみたいだね」
望美が前に軽く踏み出すと、それに反応して真正面から攻撃が来た。
白龍の剣が閃き、怨霊から伸びた枝が千切れ飛ぶ。

ひゅ〜。
ヒノエの口笛が響く。
「剣を振るうお前には、惚れ惚れするよ」
「こんな時にヒノエくんてば…もう」
驚きのあまり何も言えず、口を開けたり閉じたりするばかりだった老人達が、
うんうんと頷いた。
「うわん!わわわん!」
小犬は怨霊に向かって吠えている。

怨霊の攻撃をかいくぐりながら、ヒノエは親指を立てた。
「こんな時でも見とれてしまうくらい、姫君が魅力的ってことさ。
今のは、怨霊の動きを確認したんだろう?」
「うん、そうだよ」
「あの厄介な枝に剣が通じるかどうかも、確かめたってところからな」
「よく分かったね」
「じゃ、次は怨霊の本体を一気に断つってことでいいかい?」
「でもどうやって近づくの?
棘を踏み抜いたら、足をやられて戦えなくなるよ」
ヒノエは片目をつぶってみせた。
「祭壇は目の前にあるってね」

そう言うとヒノエは、手にしたカタールに縄を結びつけた。
そして後方に立つひょろりとした低い木に向かってそれを投げ、
枝に巻き付いたことを確かめると、思い切り引っ張った。
ぱきぱきと乾いた音がして、木が倒れる。

「ヒノエくん、何をするの?」
望美の問いに、縄を解きながらヒノエは答えた。
「この木を伝って、祭壇に行くんだ」
そう言うなり、決して細くはない木の幹をヒノエは抱え上げた。

「わわっ! ヒノエくんて、すごい力持ちだったんだね…」
しかしヒノエは、黙って木の折れた痕を指さした。
乾ききった樹皮の中はぼろぼろに崩れ、土塊のようになっている。
「あ…」
痛ましいその様子に声を失った望美に眼を向け、ヒノエは言った。
「立ち枯れてたんだよ…この木は。
無理もない。瘴気にあたりっぱなしだったんだ」
その声の底にあるのは、微かな怒気だろうか。
だがそれは一瞬のこと。
「ヒノエくん…?」
望美が問いかけようとした時にはもう、
ヒノエはいつもの不敵な笑みを浮かべていた。

「見ての通り、こいつは足場としては脆い。
でも、棘を踏まずに行く手段としては悪くないだろう?
ただし、使えるのは一度きりと思っていた方がいいね」
口元の笑みとはうらはらに、その眼は真剣だ。
望美は頷いた。
「一気に駆け抜けて、勝負を決めるってことだね」
口笛の音。
「さすが姫君。飲み込みが早いね。
じゃ、オレが先に行ってヤツを引きつけるよ」

その言葉と同時に、ヒノエは祭壇に向かって木の幹を倒した。
一斉に襲いかかる枝の下をかいくぐり、瘴気の只中をヒノエは走る。
僅かに生じた隙を逃さず、望美が後に続く。

と、四方に伸びていた枝がしゅるしゅると取り込まれ、祭壇を取り囲んだ。
辺りを覆っていた瘴気も急速に収斂し、
暗紫色の靄が中心に向かって凝固していく。
その奥に入り込んだ二人の姿を見ることはできず、
無事であるかどうかなど、もう確かめようもない。

「おお…お…」
長老達が絶望の声を上げた。
「きゃいん! きゃいん!!」
小犬が悲鳴のような鳴き声を出す。

彼らの目の前で、瘴気はさらに深く、濃密になり、
やがて全ての音が消え、全ての動きが止まった。

「終わりじゃ…」
長老ががくりと膝を折ったその刹那、
白い光が祭壇から溢れ出た。

眩さに目を射られ、視界を奪われながらも、
長老達は祭壇から静かに下りてくる二人の気配を感じ取る。
「くぅん…くぅん…」
小犬がゆるゆると尾を振った。

ヒノエはその前に膝を付き、小犬の頭を撫でた。
「シロ、終わったぜ」

長老達が目を開いた時、眼下に広がる森の上に、太陽のない曙光が訪れた。

瘴気の祓われた祭壇は、その姿を光の下にさらしている。
そこにあるのは、黒い残骸と化した槙の大樹と、その根方に置かれた古い棺。
棺に眠るいにしえの貴人の名は、もう知る由もない。

「マキノヌシ様…」
長老が呻いた。

「ごめんなさい。
怨霊に蝕まれたマキノヌシ様には、もう力が残っていませんでした」
望美が深々と頭を下げる。

老人達はヒノエと望美に向き直った。
「マキノヌシ様は果ててしまわれた…」
「旅のお方よ…。穢れを祓うとは、マキノヌシ様を救うことではなかったのか」
「怨霊と共に、マキノヌシ様までも巻き添えにしたのか」
「怨霊を封印するという言葉を、我らは信じたのだぞ」

その時、ヒノエがすっと立ち上がった。
そして腕を伸ばして、祭壇の奥を指し示す。
「嘆くのは、あれを見てからでも遅くないんじゃない?」

長老達が震える足でおそるおそる近づき、そこに見たものは…
崩れた棺から生まれ出た若葉。

生命のない世界の、小さな命の芽吹きであった。




「神子! 神子がいるよ!!」
白龍が叫んだ。

「本当か!」
「先輩!」
「白龍、望美はどこにいるの?」

霧の晴れた山道で、手分けして二人を探していた皆が
白龍の元に集まってきた。
しかし二人の姿は見えない。

「あれ? 見つかったんじゃないの〜」
「勘違いか、人騒がせなやつだな」
しかし白龍は頭を振ると、嬉しそうに続けた。
「神子の気を見つけた。
まだ遠いけど、すぐに神子は来るよ」

「遠いけどすぐに来る、だって?
分かるように話してくれよ」
「神子は無事、そういうことだな」
「うん、神子もヒノエも元気。
すぐ近くにいるけど、今は私にも見えない」

「…そ、その…白龍にも見えないとは…、どういうことだろうか」
「俺達が迎えに行かなくていいのか」

弁慶がふっと息を吐き、笑みを浮かべた。
「白龍にも見えないなら、仕方ありません。
二人が近くに来るまで、ここで待ちましょう」




ヒノエと望美は霧の中を歩いている。

あの祭壇も、あの村も、長老達もいない。
いつまでも鳴いていたシロの声も聞こえない。

「姫君、お手をどうぞ」
ヒノエが手を差し出し、いたずらっぽく片目をつぶった。
「オレと離ればなれにならないように、ね」

「ふふっ、そうだね」
望美はヒノエの手に、自分の手を預けた。
一回り大きな掌が、望美の手をしっかりと包む。

「ねえ、姫君…」
草を踏む音が、霧の中にやけに大きく響く。
「なあに? ヒノエくん」
「ごめん…。お前を怖い目に遭わせてしまって」

望美は驚いて言った。
「ヒノエくんのせいじゃないよ。
あんな霧がいつどこに出るかなんて、
誰にも分からないことなんだから」

「お前は不思議な姫君だね。
どことも知れない場所でも怯まない強さ、
怨霊に向かっていく剣の力を持ちながら、
こんなに可憐で無防備なんだから…」
「もうっ! せっかく真面目に答えたのに」

「ははっ、オレはいつも本気だぜ」
笑いながらそう言ったヒノエが、真顔になる。
「怖かったかい?」

望美は少し考え、そして頷いた。
「怖くなかったって言ったら、嘘になると思う。
でも、ヒノエくんがいてくれたから、心強かった」
「オレは頼りになるだろ?」
「うん。本当にそう思ったよ。
だってヒノエくん、熊野水軍なんでしょう?
それなのにこんなに山のことにも詳しいんだもん」

ヒノエは霧の向こうを真っ直ぐに見やった。

「海も山も…みんな熊野さ。
あの村も、マキノヌシ様も、シロも、
見えないもの、恐ろしいもの、手の届かないものも、みんなね。
オレ達がいつも見ているのは、熊野のほんの一部にすぎないんだよ」
「ヒノエくん、熊野が本当に好きなんだね」

周囲が明るくなり、霧が薄れてきた。
天を指して真っ直ぐに伸びた大樹を見上げ、ヒノエは言った。
「ああ。オレは熊野が好きだ」
そして恭しく望美の手を引き寄せ、唇を落とす。
「もちろん、花よりも美しい姫君もね」

「もうっ! ヒノエくんが言うと本気に聞こえないよ」
「オレはいつだって姫君を本気で思ってるよ」
「じゃあ教えて。
どうしてヒノエくんは水軍なのに…」
ヒノエは、望美の唇に人差し指で触れた。
「ヒ ミ ツ」
「ヒノエくん…」
「秘密のある男は嫌いかい? 姫君」

その時、白い光が眩く輝いた。

「神子…ヒノエ…」
光の向こうから声が聞こえる。

「白龍!」
声のする方を見れば、
白い輝きの中、 幾つもの人影がこちらに向かって走ってくる。

「望美!」
「先輩!」
「神子!」
幾つもの呼び声が重なる。

光が消え、山の気が風に乗って吹いてきた。
熊野の山道が、そこにある。

「行こう、姫君」
「うん!」

手をつないだまま走り、二人は戻っていく。

現世の、動乱の時へと。








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2、3話で完結くらいのつもりでいたのに、
長くなってしまって申し訳ありません。
間にお正月を挿んだので、2年かけた大作ってことに?
例によって糖分より闘分な話になりましたが、
お楽しみ頂けたなら嬉しいです。

2010.01.08 筆