深き緑に(まばゆ)き青に  〜16〜




「出航だ!!」
「おうっ!!」

水軍衆の勇ましい声と共に、法皇の乗った軍舟が岸を離れた。

その様子を、人混みの中で見ている男がいる。
街人の服装をしているが、腕を組んで佇んでいるだけというのに
僅かの隙も見せない。

「読まれたな。あの別当、やはり侮れぬようだ。
となれば、長居は無用か」
男は感情の交じらぬ声で呟いた。

やおら、折烏帽子を脱ぐ。
そして形を整えるように、ぽんぽんぽんと三度叩くと
再びそれをかぶり、人混みを抜け出た。

烏が一人、男の後を尾ける。
この熊野で、間者の往還は珍しいことではない。
だが今は、重大な時。
怪しい者を看過することはできないのだ。

しかし、男は誰かと接触するでもなく、一人南へと歩いていく。
そして大辺路に続く街道に出ると、そのまま街を出ていった。

それを確認すると、烏は街へととって返す。

彼はその時知る由もなかったのだが、
その日、手練れの間者らしき者を尾行した烏は、他にもいたのだ。

が、怪しい者達は全員、何をすることもなく、
商人や参詣者に紛れて勝浦を後にしたのだった。




「まだか…」
木の上から街の様子を伺っている男に、下から焦れた声がかけられた。

「まだだ。火の手どころか、煙の一つも上がっていない」

「どういうことだ」
「約定の刻限はとうに過ぎている」
「頭領はもう、舟に乗ったはず」

「ここに来て……裏切られたようだな」
年かさの男が、苦々しげに言った。

「まことか?」
「手練れの者達が協力するというのは、嘘だったというのか」
「では、今までのことは」
「頭領はどうなるのだ」

矢継ぎ早に投げかけられる言葉には答えず、男は皆を見回した。

「頭領は、過たず行動しているはず。
なれば我らも、頭領の命に従うまでだ」

「そうだな。ここにきて何もせず終わることはできない」
食いしばった歯の間から、一人が軋むような声で言った。
「別当の屋敷を眼下にして、引き返すことなどありえぬ」

皆の答えに頷くと、男は中に一人混じった若い娘に向き直り、頭を下げた。
「薊様とは、ここでお別れにございます」
一同も、それに倣い黙礼する。

薊は息を飲んだ。
「なぜ?兄上も皆も戦うというのに、私だけ逃げろと?」

「この日のため、薊様はひたすらに堪え忍んで参られたことと存じます。
されど、何よりの大事は、血を絶やさぬこと」

「………私に、後を託すというの…?」
薊は震える声で言った。

「その通りでございます」
「いやです!私は…」
きっぱりと言い放った言葉は、鳩尾への当て身で途切れた。

「お許しを」

気を失った薊を草薮の奥に隠すと、男達は斜面を駆け下りた。




ブツッッ!
大針が、音をたてて皮の鎧を突き通した。

その衝撃で、ヒノエの身体が後方に飛ぶ。
ヒノエは船縁にしたたかに背を打ちつけ、
そのまますとんと、足を前に投げ出す形で腰から落ちた。

「頭領!!」

漕ぎ手の水軍の男達が櫂を放し、駆け寄ろうとするが、
「近寄るな!」
アザミは腰帯の後ろに差した短刀を引き抜くと、
切っ先を真っ直ぐヒノエに向けた。

「俺の投げ針の腕は見ただろう。
お前達が近づくと、この刀が、別当ご自慢の顔に突き刺さるぜ」

「舟に針…か。用意が…いいね」
ヒノエが片膝を立て、起きあがろうとしている。
だが途中で動きを止め、痛みに顔をしかめた。

「可哀想に、足の傷で動きが鈍っているね」
アザミはからかうような口調で言うが、
短刀を向けたまま、ヒノエには近づこうとはしない。

「別当様は芝居が上手いからね。
毒が回ってから、とどめを刺してあげるさ」

「……法皇が乗っていたら、こうやって…」
「そう。あのいまいましい法衣は、分厚いからね。
別当様もご存知の通り、女の足元がよろけることはよくあることだ。
法皇様に支えてもらおうかとね」

「……それがどういうことか、わかってるのかい」

「ああ、もちろん。
法皇の死の責任は全部、熊野水軍、そして熊野別当にある。
なぜなら…」

アザミは針を隠していた板を、力を込めて引き上げた。

ガゴッッッ!!

船底で、大きな音がする。
舟が小さく揺れた。

「沈んでしまうような舟を用意して、
こともあろうに、そこに法皇様をお乗せしたんだから」

「よく…できてるじゃない、船底に穴かい」

「そしてあんたは、観念して自刃する」

「……だが、その企みは…失敗だぜ」

「そうかな、俺は最後まであきらめない主義なんだ。
何より、気に入らない人間をこの手で葬れるのが、
嬉しくてたまらないよ」

舟が傾き始めた。
ずるり、とヒノエの身体も傾く。

小さく顔を上げてヒノエは言った。
「この舟には…、法皇と一緒に、あでやかな花達も…乗っていたはずだ」

アザミは吹きだした。
「こんな時まで、女の心配かい?
法皇に取り入っていい思いをしてきた女たちだぜ。
俺の知ったことか」

「…………」
ヒノエの頭が、がくんと垂れた。

「ふん。答えるまでもなかったか。
じゃ、その首、もらうよ」
アザミは短刀を振り上げる。
しかし、咄嗟に横っ飛びに身を投げ出した。

ビンッ……!

アザミの後ろの船縁に、大針が突き刺さり、震えている。

ヒノエが、胸から引き抜き、アザミに向かって投げたのだ。

「ちっ!あんたは、とことん嘘つきだな」
アザミは、軽やかに立ち上がったヒノエに向かい、吐き出すように言った。

「そういうあんたは、とことん腐ってるよ」

そう言ってヒノエは、皮の鎧を広げた。
鎧の下には、小さな鉄の切片をつなぎ合わせた帷子。

「なんでオレが、舟競べなんて思いついたか分かる?」
ヒノエは、反転した床板を指さした。

「その仕掛け、とっくにバレていたんだよ」

アザミには、やっと合点がいった。
そして、この仕掛けを、逆に利用されたことも。

「あんたが簪を持たせた間者が、見つけたんだ。
皮肉だと思わない」

何だと?
こいつは、何を考えている?
間抜けなやつとはいえ、仮にも間者だ。始末しなかったというのか?
しかも、そいつを子飼いの者にするとは…。

舟はさらに大きく傾き、沈んでいく。

だがヒノエは、よろめくこともせず、真っ直ぐに立っている。

「前にも言っただろ?
オレは、野郎には容赦しない。
特に、サイテーの野郎にはね」



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