深き緑に(まばゆ)き青に  〜19〜




「頭領!お迎えに来ましたぜ!!」
水軍衆の乗った軍舟が、飾り舟に追いついた。

沈んでいく舟の舳先に、綱に結ばれた鉄の齣爪が投げかけられ、
乗り移ってきた水軍の男が、ヒノエと漕ぎ手達を、素早く助け上げる。

「肝を冷やしましたよ、頭領」
副頭領が冷や汗を浮かべながら、ヒノエに乾いた布を手渡した。

ヒノエは、濡れた髪を拭くこともなく、その布を足の傷にきつく巻く。
そして、「まずはご挨拶ってね」
そう言って、舟の中央に設えられた御座所に座る法皇の前に進み出た。

「この舟競べ、法皇様の勝ちでございました」
「ほほう、潔く負けを認めるか」
法皇は、髪から海水を滴らせながら頭を下げるヒノエを見て、
愉快そうに笑った。

「熊野の海での舟遊び、存分にお楽しみ頂けましたでしょうか」
全身濡れねずみになりながらも、ヒノエはまるで
雅な装束に身を包んでいるかのように、優雅に振る舞う。
法皇には、それがいたく面白いようだ。
「おお、楽しかったぞ。よい趣向であった」上機嫌で答える。
「周りが、むさい男ばかりというのが、ちと難点ではあったが」

「す…すまんことです」
副頭領が、むさい男の代表として、小さくなって謝った。

「ところでのう…」
法皇は笑みを浮かべたまま、ヒノエに問う。
「そちらの舟では、あでやかな花々が争うていたが、
その動きたるや、まるで華麗な舞を見るが如き美しさであったぞ」
「恐れ入りましてございます」

「しかし、困ったことが一つ…」
法皇の目が、すうっと、細められた。
「その舟に乗ったはずの、気に入りの白拍子の姿が見えぬのじゃ」

狸め、見ていたくせに、知らないふりかい。
ヒノエは思うが、恭しい態度は崩さない。
顔を少し上げ、法皇の目を見て答える。
「実は、乗っていたのは、その白拍子の偽物にございました」

法皇は、わざとらしく目を見開いた。
「偽物…とな?」
「はい。正体を見破られ、あのようなことに及んだ次第」

「ほ、ほう…そうか。何とも恐ろしげなことよの」
法皇は再び目を細める。そこには、何の表情も無い。

だが、この老獪な法皇が、事の経緯を読み取ったことは間違いない。
自分があの飾り舟に乗っていたなら、と考えれば容易に想像はつく。

「法皇様、ですから得体の知れぬ者達をお側に置くのは…」
ここぞとばかりに小声で進言する供の者に、法皇はうるさそうに言った。
「老い先短い者に、楽しみを捨てろというのか」
「そ!…そのようなことを、仰ってはなりませぬ!!」
供の者は、慌てて取り繕うが、法皇はもう、その言葉を聞いてはいなかった。

身分の上下の隔てなく、法皇が多くの者を周囲に置いていることは、広く知られている。
命を狙わんとする者が、それを利用しないはずもなく、
危ういところを逃れた回数は、数え上げればきりがない。
だが、危難を恐れて身を退くことは、即ち、自らの権力に幕を引くこと。
今さら、何があろうと、誰に何を言われようと、変わる気はない。

都に帰ったなら、この一件、少々調べさせねばなるまい。

法皇は少しの間、薊の軽やかな肢体を思い、
海に向かって合掌すると、短く経を唱えた。






法皇の一行が陸に戻ると、待ちかまえていた女房達が、
泣きながら出迎えた。
何しろ、美しい飾り舟が沈んでいくのを、海岸から見たのだ。
法皇が乗っていないと分かってはいても、
心配のあまり悲鳴を上げるもの、倒れる者が相次ぎ、
浜は大層な騒ぎになっていたのだった。

しかし、その喧噪は一時のもの。

ほどなくして法皇の一行が去ると、野次馬もちりぢりに散っていった。

がらんとした浜には、軍舟と、曳航されてきた飾り舟が残った。
水軍衆は、飾り舟の調査にかかりきりだ。

その指揮を執っているのは、副頭領。
ヒノエの姿は見えない。

望美は、みんなの作業を邪魔しないように、
ヒノエを探してそっと軍舟に近づいた。

と、目の前に、ヒノエが舟上から飛び降りてきた。

「やあ、姫君、浜で待っててくれたのかい?」
「ヒノエくん!」

ヒノエは全身、ずぶ濡れだ。
立ち上る潮の香で、海に落ちたのだとわかる。
そして、足に巻いた布に滲む赤い色。

「ヒノエくん、その足……。
そんな足で、高いところから飛び降りるなんて!!」
ヒノエは笑った。
「可愛いね。姫君の怒り顔は」
「もう、ヒノエくんてば、こんな時まで……」

いつもなら、このまま話をかわされてしまうところだが、
望美には、どうしても確かめなければならないことがある。

「ヒノエくん、戦は…終わったの?」
「ああ、終わったよ」
望美の真剣な眼差しを受け、ヒノエは静かに答えた。

「勝ったんだね」
「オレには、お前という戦女神がついているんだよ。
負けると思う?」
「思わない。ヒノエくんは強いもの。
でもね……」

望美はヒノエに手を差し伸べた。
立っているのがやっとなのに、笑っているヒノエくん…。

「私にも、少しだけ手伝わせて」
「姫君?」

「ヒノエくんは、熊野っていう、すごく大きくて、
大切なものを背負ってるんだよね。
それは、誰も代わることができないものなんだって、分かってる。
でも…、そんなヒノエくんを見てるだけなんて、私はできない。
だから……」

望美はヒノエの身体に腕を回した。

「つらい時には、私にも…あなたを支えさせて」

二人の視線が合う。

「お前は、サイコーだよ、オレの神子姫様」

ヒノエの片足から、ふっと力が抜けた。
望美の肩に、その重みがかかる。

その重さは、揺らがぬ心の証。
信じ合う心の証。

「ヒノエくん、大好き……」
望美は、ヒノエの肩に頬を寄せて、ささやいた。

「え?聞こえなかったよ。もう一度言ってくれる?」
「ふふっ、何回でもいいよ」
「じゃ、家に着くまでずっと繰り返して」
「あ…、家っていえば、奥の間が、壊れちゃって……」
「やっぱり、曲者が来たんだね」
「うん」
「置いてきた法師は役に立ったかい。姫君に言い寄ったりしてないだろうね」
「ええと…曲者は確かに来たけれど、家を壊したのは……その…」
「なんだ、あいつかよ。あんな顔して、荒事が大好きだからね。
姫君が気にすることないさ」



寄り添って歩き出した二人の後ろ姿を、腕を組んで見送りながら、
副頭領はうーーーん、と唸った。
見れば、顔が真っ赤だ。

「どうしたんですか、副頭領?」
「いや、その……水軍衆がお助けすれば、望美様の手を煩わすこともなく
頭領を家まで送り届けて差し上げられるが、
そんなことをすると、かえって申し訳ないかもしれないというか、
それでも、あえてそうすべきかどうか迷うというか……」

「直接、聞いてみればいいじゃないですか。
おーーい!」
がふっ!
副頭領は、無粋な元間者を思い切り踏んづけた。



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