・・・・・夏の空・・・・・


1.迷い

「春日さんの成績の伸びはすばらしいと、先生方の間でも評判なんですよ」
「は・・・はぁ」
「特に古文と日本史は、どんな所を受けるにしても実力は十分です。あとは・・・」
「・・・・・・」

高3になって第1回目の個人面談。
親身になって話してくれる担任の先生には悪いと思いつつも、望美はそれほどに 一生懸命になれない。
自分のことなのに・・・どこか遠い。

「ありがとうございました」
礼を言って席を立つ。
「この調子で頑張って。志望校はまだ絞り込まなくても大丈夫だから」
「はい」

私は大学に行くのだろうか。それとも・・・。

その時、ふわっと佳い香りが漂ってきた。顔を上げると、背の高いきれいな女の人が、 職員室に入ってくるところだった。
すれ違う時、思わず軽い会釈をする。その人はにっこり笑って応えてくれた。
先生方がざわめくのが聞こえる。
誰だろう?と一瞬だけ思う。

だが望美の思いはすぐにまた、いつもの堂々巡りに立ち帰る。
私は大学に行くのだろうか。
それとも、再びあの世界へヒノエくんと一緒に・・・。

「姫君の心が決まるまで、オレは待ってるから」
ヒノエくんはこう言ってくれているけれど、いつまでも待たせることなんてできない。
「ごめんね、まだ決められなくて・・・」
「かまわないさ。ね、いっそのこと、こっちの世界で結婚して、
お爺さんお婆さんに なってから、向こうに帰るってのはどうだい?」
「ええーっ?!そんなのって・・・」
「ははは、本気にしたのかい?ちょっと冗談が過ぎたかな」
「も、もう、ヒノエくんてば!」

あの世界へ戻ること。それは、この自分の世界から永久に去るということ。
生まれ育った家から。鎌倉の地から。
可愛がって育ててくれた両親のもとから。友達から。
将臣くんとも譲くんとも、一生会うことはない。

担任が褒めてくれたこと・・・あれは、確かにその通りかもしれない。
あの世界で過ごした日々は、自分を変えた、と思う。
あっちに行くまでは、昔の出来事なんて、遠い世界のことだと思っていた。
でも、違う時空ではあるけれど、そこでも人々は、今の自分たちと同じように、
喜んだり、悲しんだり、悩んだりしながら、精一杯生きていることを知った。

時の流れの中で、そんな人達のささやかな思いは消えてゆく。
もしもできるなら・・・人々の思いを、生きた証を、自分の手で掬い取りたい。

・・・そんなふうに、思うようになった。
だから、勉強にも力が入った。教わるのではなく、自分が知りたい、のだ。
大学でもっと学んでみたい、とも思う。

けれど、その先は・・・?
ヒノエくんを待たせたままで?
そんなことはできない。

でも、ヒノエくんが帰ってしまったら・・・。
もう二度と・・・。

ああ!!もうっ!!
いつもいつも、この繰り返しなのだ。
自分のことが自分で決められない。

望美は己のふがいなさに、腹が立つ。
教室に入る前に、ぶんぶんと頭を振って気持ちを切り替える。
えいっと、ドアを開けたとたん、思いっきり人にぶつかった。

「きゃっ!」
「うわっ、大丈夫?」
上の方から声が降ってきた。美術の藤堂先生だ。
「すみませんでした!」
望美は平謝りする。
「いやぁ、僕の方こそごめんねぇ」
藤堂先生は間延びした調子で言うと、職員室の方に歩いていった。

「望美、面談終わるの早かったね」
「この頃成績いいもんね、言うことないんじゃない?」
教室では望美を取り囲んで友達が口々に勝手なことを言う。

そんな中、一人ぽつんと窓の外を見ている子に、望美は声をかけた。
「ねえ、もうすぐ亜矢ちゃんの番だよ」
「・・・」
「ねえ!」
「えっ?!何?!」
亜矢と呼ばれた子は、驚いたように振り向いた。
望美の声には全く気づいていなかったようだ。
ふわふわした長い髪に、ぽわんとした顔をしている。
「面談だよ」
「あ、そうだった。ありがとう」
亜矢はどことなく気の抜けた声で望美に礼を言う。
ここにも、面談にあまり気乗りしていない子がいる、望美は頭の片隅でそんなことを考えた。

「この時間なら、後で部活行けるね」
望美がそう言うと、亜矢の表情が一瞬強張った。
「え?何か私、悪いこと言った?」
亜矢は顔を背けると
「私、美術部辞めたから・・・」
「え?亜矢ちゃん、美大志望じゃなかったの?」
「いいでしょ、そんなこと!」
茫洋とした雰囲気とはかけ離れた、とがった声で亜矢は言った。 教室に残っていたみんなが振り返る。
「あ・・・ごめんなさい・・・きつい事・・・言っちゃって」
みんなの視線を浴びて真っ赤になり、亜矢は慌てて謝った。

「美術の藤堂先生、そのことで来てたの?」
「・・・」
亜矢は答えずに教室を出て行った。

「なんか、めずらしいね」
「いつもはおとなしい亜矢ちゃんなのにね」
「私、かなりマズいこと言ったみたいだけど・・・」
「望美が気にすること無いって」
「そうだよ、私聞いてたけど、望美は悪いことなんて言ってないよ」
「うーん、でも、何か気に障ることを言っちゃったかも。明日謝るよ」

空模様があやしい。あいにく今日は傘を持っていないのだ。
降り出す前に帰れるか・・・。
そう思いながら渡り廊下にさしかかった時、折悪しく雨が降り出した。

と、廊下の外で雨に打たれながら立っている小さな子がいる。
え・・・?
これって・・・?
でも、放っておくわけにはいかない。

小さな子は口を開いた。
「あなたが、わたしの・・・」

一瞬、既視感に襲われる。

が、よく見れば保育園の名札をつけた4,5歳くらいの女の子だ。
思いっきり、しかめ面をしている。

「おばちゃん?」
「ん、ぐ・・・」

いきなりおばちゃん?!
何?この子失礼ね!!

望美は一瞬、5歳児とタメでやり合いそうになってしまった。
そこをぐっとこらえる。

「私は、あなたのおばさんではありません。それより、そこにいると濡れちゃうよ。 こっちに入ったら?」
女の子はつまらなそうに軒下に入ってきた。

「ねえ、どこから入ってきたの?保育園の先生は一緒じゃないの?」
女の子は答えない。しかめっ面が、いっそうひどくなった。
ハンカチで女の子の髪や顔を拭いながら名札を見る。
「とうどうまみ・・・ん?どこかで・・・?」

その時、ばたばたと大げさな足音がして、藤堂先生が走ってきた。
長身を持てあまして、まるで蚊トンボが暴れているような走り方だ。

「まみ、こんなところに・・・ひいひい・・・いたのか・・・ぜーぜー・・・保育園を抜け出すなんて・・・ はぁはぁ・・・」
「あ、この子、藤堂先生のお子さんだったんですか?」
「ええと、春日さん・・・でしたよね。ありがとう。まみを見つけてくれて・・・ふうふう」
かなりの運動不足のようだ。
「いいえ、見つけたわけじゃなくて、雨の中にこの子が立っていたから」

「この人、おばちゃんじゃないの?髪の毛、長いよ」
まみがいきなり言った。
「な・・・何ですってぇ!」
再び望美に闘志が燃え上がる。

「い、いや、その、これはそういうことじゃなくて・・・。
これ、まみ、お姉さんに 謝りなさい。おばさんには今度、会わせてあげるから」
藤堂は望美と女の子を交互に見ながら、なだめすかす。
ぷいっ・・・。まみはそっぽを向いた。
「失礼しますっ!」
望美も足音荒くその場を立ち去る。

なんで私がオバさん呼ばわりされなくちゃいけないのよ!!
怒っていた望美だが、校舎を飛び出そうとして足を止めた。 雨足が強い。
ダッシュで駅まで走ろうか・・・。
躊躇していると、後ろから涼やかな声がした。
「駅まで行くんだったら、入っていかない?」

振り返ると、さっき職員室ですれ違ったきれいなお姉さんだ。
思いの外、気さくな人柄のようだ。 望美の返事も待たずに傘を開くと、にこっと笑い
「じゃ、行こっか?」
と言って歩き出す。

「あ、ありがとうございます。あの・・・」
「ああ、私はここの卒業生。宗方由希というの。あなたは?」
聞いたことのあるような名前だ。だが、すぐには思い出せない。
「私は春日望美。・・・あの、宗方由希さんて、聞いたことがあるようなお名前なんですけど」
「宗方亜矢って、知ってる?」
「は、はい?同級生です」
「そっかぁ。妹がお世話になってるのね。あの子、ちょっとぼんやりしてるから、 迷惑とか、かけてない?」
「え、亜矢ちゃんのお姉さんだったんですか?」
よく見ると似ていなくもないような・・・。けれど、雰囲気がまるで違う。
それに、亜矢の口からは姉のことを聞いたことがない。おとなしい子ではあるけれど、
女の子同士、みんなで家族のことなど、他愛ないおしゃべりくらいはする。
こんなに素敵な人なんだから、きっと自慢のお姉さんだと思うのに。
「あんまり、私のこと話してないのかな」
「あ・・・ええと・・・」
返事に困って口ごもったその時、校門の隣に赤い髪が見えた。
望美の注意が逸れたことに気づいた由希も、そっちを見る。

どん!
いきなり望美は背中を叩かれた。
「いいわねぇ!青春〜!彼氏が傘を持ってお迎えかぁ」
「え?あ、あのっ・・・」
「私ねえ、勘だけはいいのよ。じゃあ、ここでバイバ〜イ」

ひらひらと手を振って、由希はさっさと行ってしまった。

「やあ、お帰り、望美。今の薔薇の花のような姫御前は誰だい?」
自分の傘に望美を迎え入れながら、ヒノエは尋ねた。
「クラスメートのお姉さん。この高校の卒業生だって」
美人とはいえ、会うなり、別の女性のことを聞かれるのはちょっとおもしろくない。
望美は少しつっけんどんな口調で言ったが、
「あれ、妬いているのかい。そうだったら、うれしいんだけどね」
はなから勝負にならない。
あっさり負けを認めることにする。
大切な時間・・・つまらないことで無駄にしたくなんかないから。
「うん、そうだよ。よくわかったね、ヒノエくん」
「おや、そのさりげないかわし方、どこで覚えたんだい?」
「ん、内緒。それよりね・・・」

二人で話しながら一つの傘の中。
少女は制服。少年は鮮やかな赤い髪。 いやでも目立つ。

少しゆっくり歩く望美たちを、同じ学校の生徒が追い抜きざまに ちらっと見ていく。
噂になっているのは知っていた。
望美にアイドル系美少年の彼氏がいる、と。

でも、望美は気にしていない。
戦いの日々を思えば、浮ついた噂など、ひどくつまらない物に思える。
極限の中で輝くヒノエの真価を、誰も知らないのだ。

降りしきる雨。
隣にはヒノエくんがいる。
時間よ、止まれ・・・。
心の中で秘かに念じてみる。

望美の肩に、ヒノエがそっと手を置いた。





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