・・・・・夏の空・・・・・


明日


カタタン・・・カタタン・・・
乗り慣れた電車の独特な振動が心地いい。
雨粒が走る窓ガラスに、隣り合って二人が映っている。

「静かだね、姫君」
ヒノエが話しかけた。
「うん」
「ねえ、オレに聞かないの?」
「何を?」
「姫君は意地悪をしてるのかい?」
「ううん、そんなことしない。だって、もう知ってるから」
「まいったな・・・。姫君はオレがどこにいたのか、わかってるってこと?」
「熊野・・・・。ヒノエくんは、一番大切な場所に行ったんだよね」
「望美・・・」
「ずっと、不安で仕方がなかった。でも、さっきになって、やっとわかったんだ。
だからもういいの。だって、ヒノエくんがここにこうしていてくれるんだもん」
話ながら望美は涙が出そうになって、顔にぎゅっと力を入れた。
あ・・・・しかめっ面になってる・・・・頭の片隅で思う。
「わかっていたから、お前は何も聞かなかったんだね。オレにはもう興味がないのかと思って、
自信を失うところだったよ」

望美は隣に座るヒノエの横顔をそっと見た。
端正な美しい顔・・・・・でも、少し痩せただろうか?

駅を出て間もなく、雷鳴とともに土砂降りの雨になった。
二人とも傘がない。手をつないで走り、ヒノエのマンションに飛び込む。

「この降り方じゃ、傘をさしていても、ずぶ濡れになるよ。
姫君にこんな雨の中を歩かせるわけにはいかないね」
「じゃ、しばらくヒノエくん家で雨宿りさせてもらおうかな」
「しばらくと言わず、朝までいてくれてもいいんだけど」

タオルを借りて、濡れた髪や服を拭く。
ヒノエが熱い紅茶を淹れてきてくれた。
やっと人心地がつく。

外は稲妻の閃きと同時に雷鳴が轟く。
紅茶のカップを持ちながら、望美は窓辺に寄りかかり、突然襲い来た嵐を見ていた。
雷鳴の幕間は絶え間なく叩きつける雨音。
そして私は、またこの部屋にいる・・・・ヒノエくんと一緒に・・・・・。
なんだか不思議な気持ちだ。

ヒノエが、後ろから望美をそっと抱いた。
二人でそのまま窓の外の闇と、合間に閃く電光を見る。
ヒノエがささやいた。
「ごめん、望美」
「どうしたの?ヒノエくんが謝るなんて」
「お前との約束を破ってしまったから」
「私こそ、ごめん。ヒノエくんがどんな約束をしてくれたのか、覚えてないや。
だから、気にしなくていいよ」
「美術館の帰りに、お前を泣かせるようなことはしないって・・・言っただろ?」
「そ、そんな!!私、泣いたりなんかしてないよ!」
ヒノエは、そんなことまで覚えていてくれたんだ。
望美はうれしかった。

「そうだ、私、決めてたんだ。ヒノエくんが帰ってきたら、こう言うんだって」
望美は振り向くと、精一杯の笑顔を作った。
「お帰りなさい、ヒノエくん」
うまく笑えているだろうか。うれしいんだから、私・・・きっと、笑っているはず。

「望美・・・・お前は」
ヒノエは望美の頬に手をやった。
「ウソが下手だね」
「そんな・・・、ウソじゃないよ」
「お前の強がりは、すぐわかる。顔で笑いながら、眼が必死に訴えるんだ。
『お願い、信じて』って」
そう、強がりだ。頬が濡れている。
「お前のかわいいウソに、ああそうだねっ、て言ってあげたいけど・・・・」

ヒノエは望美の手からカップを取り上げ、テーブルに置いた。
次の瞬間、望美の視界がめまぐるしく変わる。
手を引かれ、よろけてヒノエの胸にぶつかり、次には肩越しに天井が見えた。
そしてヒノエの顔が、間近に。
背中には、ソファと、きつく巻き付いたヒノエの腕の感触。
目を閉じた。
時間が・・・・止まる。


雷雨は、降り出した時と同じように急に止んだ。
「もう、これ以上は・・・・いけないね」
ヒノエが耳元でつぶやいた。
「ヒノエくん?」
「もしそうしたら、オレはお前をこのままさらって行ってしまう。お前の気持ちも考えずに」
「・・・・・」
「お前はこの世界に戻るために、頑張ってきた。それが、今のオレにはよくわかるんだ。
だからお前の気持ちを、何より大事にしてやらなくちゃいけないと・・・・思うのにね」
「ヒノエくん、私・・・・」

「雨が止んだみたいだ・・・・・。送っていくよ、姫君」

大きな水たまりがあちこちにできている。街灯の光を映して地面も明るい。
「また明日、会えるかい?」
「うん」
「携帯を水に落としちゃってね。買いに行くから、つき合ってくれる?」
「もちろんだよ。じゃあ、また明日ね、ヒノエくん」

家の前でヒノエと明日を約束して別れた。
待ち遠しく思える「明日」が帰ってきた。


その夜遅く
ちゃぷん・・・・。
湯船につかりながら、望美はとりとめもない思いにふけっていた。
今日一日で、いろいろなことがあった。
焦燥、不安、怒り、そして、喜びと戸惑い。

帰宅して玄関を上がるなり、親から帰りが遅くなったこと、雷雨なので心配だったこと、
などなどお説教された。だが、その後望美を待っていたのは、笑顔と温かい晩ご飯だった。
亜矢ちゃん家は・・・・どうなんだろう。ふと、亜矢の親の冷たい対応ぶりを思い出した。

「携帯を水に落としちゃってね」
こともなげにヒノエは言っていたが・・・
何日分かの新聞を読んだ望美は、ヒノエが長く帰れなかったわけを知った。

紙面には熊野の山深く、降り続く雨に長らく孤立していた村々の話が載っていた。
見知らぬ美しい若者が現れ、彼に助けられたという。
乏しくなる食料を調達し、うち沈みくじけそうになる人々を笑顔で励ました。
中には危ういところで命を救われた人もいる。
その記事を読んだ時には、あまりのことに望美は思わずぞっとしたのだが・・・。
若者は名乗ることもなく、救援隊の到着と入れ替わるように、黙って姿を消した。
お年寄りの中には、権現様が若者の姿を借りて来て下さったのだ、と言う人もいる。
マスコミはこぞって、その若者の手がかりを探しているようだ。

「オレは今、確かにここにいる」
「やることはやり尽くしてるからね」
「オレは、オレ以外の何者にもなれないから」

ヒノエの言葉が蘇る。
ヒノエは自分のいる場所、愛する熊野の地で、やるべき事を全てやってきたのだ。
軽やかに、明るく笑いながら、死力を尽くして。

望美は自分の身体をそっと抱きしめてみた。
ヒノエの腕の感触、身体の重みをまだ覚えている。

私はここにいる。

あの日々は・・・・何だったんだろう。
迷宮での闘いで受けた傷はすでに癒え、かすかに白い痕が幾つか残っているだけ。
白龍の剣も消えて久しい。

「めぐれ、天の声・・・・」
望美は腕を真っ直ぐ前にのばした。
「響け・・・」
湯気の中に、言葉が消える。

窓を開けた。
雷雨に洗われた夜空。夏の星が光る。

夏の熊野でみんなと見た、夜空を覆い尽くす満天の星々が心によみがえる。
景時さんの花火を見て、みんなで笑いながら宿に帰ったんだっけ。
鮮やかな思い出。
みんなを助けるために繰り返し巡った時間。

でももう、あの時に会うことは・・・・・・ない。
なつかしく、いとしい時間は遙かに遠い。
切なさが胸を刺す。

けれど、これが私の生きる時間。
一筋の航跡を波間に描く船のように、人は生きていく。

もう望美の心に迷いはなかった。





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