・・・・・夏の空・・・・・


2.今いる場所

「ヒノエくんの部屋、また本が増えたんじゃない?」
「おもしろそうなのを見つけると、つい買ってしまうからね」

床から天井まで、特注で作りつけられた壁一面の書棚は、すでに ほとんど隙間無く、本で埋め尽くされている。
ジャンルは多岐にわたり、 ヒノエの愛好する推理小説だけでなく、コンピュータ、地理、歴史、 経済と幅広い。
「すごいね、これ、全部読んだの?」
「ああ、もちろんさ。でも、将臣の家を早めに出たのは正解だったな」
「そうだね。これじゃいくら将臣くん家が広くても、さすがに置き場がないよ」
「ま、その通りだけど・・・。ここならお前と二人っきりになれるっていうのがサイコーだよ」

「でも、びっくりしたんだよ。こんなにステキな部屋を、年が明けたらすぐに借りちゃうんだもん」
「いつまでも将臣の家に厄介になってるわけにもいかないからね。
それにしても、お前の世界の仕組みはおもしろいよ。
こんな小さな箱が、異国にまで繋がっていて、この中だけで商売の取引ができるなんてさ。
ま、おかげでオレもこうして、いろいろと恩恵を受けられるんだけどね」
ヒノエは指先でパソコンを軽く叩いた。

「ネットの株取引なんて、私には全然わからないよ。だから、かえって少し心配かも」
「お前の心配はうれしいけど、まあその辺はほどほどにやってるからさ。
元手は多い方がいいけど、増やすことだけ考えてると逆にこっちが振り回される。
オレには、この世界でお前と一緒の時間を楽しむのに必要な分だけ、 あればいいんだからね」

静かな通りに面した落ち着いたたたずまいのマンションの一室。

壁際の小さなデスクに置かれたパソコンが、ヒノエの収入源だ。
彼我の世界の差を思えば、その頭脳と適応力には驚くしかないのだが、
ヒノエ本人はといえば、特別なこととも思っていないようで、 ここで優雅に一人暮らしを楽しんでいる。

望美の家にも近い。
学校の帰りに立ち寄っては、一緒に遊びに出かけたり、そのまま話し込んだり、 というのが、望美の日課のようになっていた。

開け放った窓から雨音が聞こえてくる。
書棚から、ちょっと不思議な題名の本を取り、ぱらぱらとめくっていると、キッチンから いい匂いがしてきた。
「もしかして、手作りのお菓子?何か手伝うことはない?」
望美がキッチンに入ろうとすると、
「いいから、お前は座っておいで。お茶は、おもてなしをする主人が 淹れるものだからね」
そう言ってヒノエは、紅茶と焼きたてのお菓子をテーブルに運んできた。

「さあ、召し上がれ、姫君。ミルクティーと、オレの作ったスコーンだよ」
「わあっ!!すごい!これ、ヒノエくんが?おいしそうだね・・・。早速いただきます!!」
「ジャムと、生クリームもどうぞ。残念だけど、クロテッド・クリームは近くの店にはなかったんだ。 」
「んぐ、んぐ・・・フィフォフェふん、ふふぉくおふぃひい・・・」
「姫君のお口にあって、何よりだよ」
「ふぇふぉ、ふぁんで、そんなに詳しいの?」
「まあ、紅茶もお飲みよ。お前はあまりミステリは読まないんだっけ?」
「うん、そうだね。お菓子と何か関係あるの?」
「ミステリの本場イギリスの話にはね、よくお茶のシーンが出てくるのさ。
見たこともない異国の風習だけど、読んでると好奇心がわいてきてね」
「それで、自分で作っちゃったの?」
「ああ、この手でやってみるにこしたことはないからね。
『レシピ』というのに書いてある通りにすればいいから、わりと簡単だったよ」

「うーん、私じゃこんなに美味しくできないなあ。ヒノエくんが料理上手だなんて 知らなかった」
「オレも、自分にこんなことができるなんて、思ってもいなかったさ。
熊野じゃ 経験できないことだよ。別当には、料理とは別の仕事があったからね」
ヒノエは楽しそうに笑った。
「・・・あはは、それもそうだね・・・」
その屈託のない笑顔につられて自分も笑いながら、望美は聞かずにはいられない。

「ヒノエくんは、どうしてそんな風にしていられるの?」
「オレが、何かおかしなことでもしたかい?」
「ううん、ヒノエくんて、どこにいても変わらないから・・・。
戦の時も、みんなで旅をしていた時も、水軍の人達と一緒の時も、この前みたいに
もう少しで死ぬかもしれないって時でも、ヒノエくんはいつも落ち着いてる。
今だって、ここはヒノエくんにとっては、異世界でしょう。なのに、まるで自分の世界みたい」
「お前だって、あの世界で立派にやっていたよ。戦の世に平和を導いたんだ。
そんなこと、オレの姫君以外にできるヤツなんて、いないと思うけど」
「そんな、私なんて、いっぱいいっぱいだったんだよ。 今のヒノエくんみたいに、楽しむ余裕なんてなかった」
「オレが楽しいのは、お前がいるからだよ」
「え、と・・・そうじゃなくて・・・」

「・・・・・・・」
ヒノエは真顔になった。
望美の手をとると、両手で優しく包み込む。
「お前は悩んでいるんだね・・・」
心の内を見透かされ、望美はどきっとした。
ヒノエにあんな質問を浴びせたのは、心の奥に自分の迷いがあったからだ。
行き場のない迷いなど、ヒノエには感じられない。
だから、ヒノエに問えば何か答えが返ってくるかもしれない、
ぐらつく自分を支えるものが見つかるかもしれない・・・と。

ヒノエは望美の目を見つめながら、静かに言った。
「ここはオレの世界じゃない。けど、今オレは、確かにここにいる。分かるね?」
「うん・・・」
「ならば、自分のいる場所は、自分で見つけて作るしかないだろ?できれば楽しく・・・ね。
お前を待つ時間は悪くない。いや、オレにとっては、とても大切な時間さ。
熊野にいたらできないことが、たくさん経験できるしね」
「ヒノエくんは、先のことが心配になったりしないの?」
「できることは、全部やり尽くしてるからね。ま、お前の世界の言葉を借りるなら、
今のオレは別当職の夏休みを楽しんでる・・・ってとこかな」
「・・・・・・・・」
「オレが変わらないのは、どこにいても、何をしていても、
オレはオレ以外の何者にもなれないから・・・それだけのことさ」
「ヒノエくん・・・」

「お前の心を曇らせているのは、オレ・・・なんだね」
「違う!違うよ、私が弱いから・・・だから・・・」
「焦らなくていいから・・・オレは待っているから・・・。
大丈夫。お前なら、悩んでも、迷っても、必ず答えに辿りつくさ」
「・・・ありがとう・・・ヒノエくん・・・」


外が薄暗くなってきた。
「小降りになったようだね。送っていくよ」
ヒノエからコンビニの傘を借りて、一緒に外に出た。
家も近いし、相合い傘はやはりまずいような気がする。

「さっきお前が読みかけていた本だけど」
「女の子が主人公のミステリだね。おもしろいの?」
「あのシリーズは全部読んだよ。主人公がサイコーだね。
お前みたいに清らかで、純粋な心の姫君なんだよ」
「うーん、どっちを褒めてるのかわからないよ」
「その中にね、悪い女の子達が出てくる話があるんだ」
「え・・・、女の子が犯罪者?」
「いや、少しだけ、おかしなことをするだけさ」
「???」
「喫茶店でね、順番に、お茶に砂糖を入れていくんだよ。
それもスプーン1杯や2杯じゃない。何杯も何杯も、繰り返しね」
「えーっ、甘党にしても行き過ぎだよ」
「そう思うだろ?では、なぜでしょう?」
「むむむ・・・」
「ふうん、教えて・・・って、言わないんだ」
「当たり前だよ。今度貸してもらおうと思ってるんだから」
「喜んでお貸しするよ。おもしろさは保証付だね」

「あら、ヒノエくん」
後ろから声がした。
どこかで聞いた声だと思ったら・・・
「お母さん!」
「こんにちは」
ヒノエが笑顔で挨拶する。

「ヒノエくん、お母さんと知り合い・・・だったの?」
「ああ、そうだよ」
「お母さん?!」
「この前スーパーで買い過ぎちゃって難儀してたら、荷物を持って 家まで運んでくれたのよ。
近頃珍しい親切な若者だと思ってたら、あなた達、こんなに仲良しだったの?」
「望美さんのお母様とは存じませんでした。改めて、よろしくお願いします」
さわやかな笑顔でウソをつく。熊野男の本領発揮だ。

「じゃあ、これで失礼します。さようなら、望美さん」
「さよなら、ヒノエくん、今度遊びにいらっしゃい」
「・・・・・」
望美の顔は引きつっている。

「すごいわよねえ、ヒノエくんて」
「え?」
「アメリカの大学に飛び級で進学が決まってるんですって?」
「!!!」
「お家の都合で今は一人暮らしだそうだけど、身だしなみもきちんとしてるし、礼儀正しいし、
おまけに優秀だし美形だし、非の打ち所のない子って、ほんとうにいるのね・・・」
完全に術中にはまっている。

家に着くやいなや、ヒノエからメールが来た。
「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ・・・ってね」

熊野の別当殿は、確かにどこにいても変わらない。





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