・・・・・夏の空・・・・・


4.たたずむ人


週末も雨降りだった。
モノレールの駅を降りると、雨の中をヒノエと歩き出す。

美術館の閉館時間は早い。学校の帰りに寄るのは無理とあきらめ、
結局、学校が休みの日に来ることにした。

紫陽花の花が咲く静かな住宅街をしばらく行くと、 こじんまりとした美術館があった。
ガラスのドアを開けて中にはいると、冷んやりとして、絵の具のにおいが混ざったような、 独特の空気。
天気のせいか、週末なのに来館者の姿はまばらだ。

入り口で招待券を見せると、あちらでどうぞ、と左の方を示された。
よく見れば、写真や手芸の展示も行われている。

藤堂先生達のグループ展には、絵画だけでなく、彫刻や陶芸、彫金などの作品も 展示されていた。一人が数点ずつ、出品している。
ヒノエは興味深そうに一つ一つ見ていく。

周囲が静かなので、声をひそめて話しかける。
「どう?」
「お前はどうなんだい?あの彫金の小箱なんて、とても美しいけど」
「うーん、すてきだなって思うのもあるけど、あの針金と石の組み合わせみたいなのは、
よくわからないよ。ヒノエくんはわかる?」
「オレにもわからないけど、感じることはできるよ。それでいいんじゃない?
わざわざ手間をかけてああいう形を造ったのは、言葉で説明できるものじゃないから、なんだろ?」
「ああ、そうだよね」
「ここはおもしろい場所だね。神仏のためでもなく、商いのためでもなく造られたものが、
人々に訴えかけている。声のない祈りが聞こえてくるようだね」
「ヒノエくん・・・・すごすぎ」
「でも、お前の声はどんな祈りよりも美しいよ、姫君」
「う・・・・」

油絵は一番数が多い。作者名に、なかなか藤堂の字を見つけることができなかった。
それもそのはず、先生の作品は一番奥まった所に展示されていた。

鎌倉の海を描いた風景画が数点。見慣れた景色ではある。
けれど、その絵を見ていると、きらめく水平線の彼方へ漕ぎ出していきたくなる。
その向こうに何があるのか、せつない憧れにも似た気持ちがわき起こる。
いつも、ぬぼーっとしている藤堂先生の目には、こんなに美しい風景が映っているのだろうか。

「補陀落浄土を目指して船出してしまいそうだ」
ヒノエも同じことを思っているようだ。

風景画の中に、1枚だけ人物画がある。
ふと気がつくと、さっきからその絵の前で動かない人がいる。
すらりとしたその姿には、見覚えがあった。

「由希先輩・・・」
声をかけようとした時、ヒノエがそっと望美の腕を押さえた。
「今は話しかけない方がいいと思うよ」
そう言われて、気づいた。様子がおかしい。

由希の横顔・・・・大きく見開いた瞳から、涙がぽろぽろと流れ落ちている。
幾筋も頬を伝い落ちる涙をぬぐおうともせず、由希は絵を見つめていた。

絵の題は「陽光」。

山を背景に、白い花をいっぱいつけた大きな木。遠くに湖水が輝く。
光に満ちた風景の中、幼子と母の姿がある。

後ろ姿の母親は、陰の中に沈み、顔も見えない。
けれど子供を抱く様子から、我が子を慈しんでいることが痛いほどにわかる。
そして子供は、笑っている。まばゆい光の中に手を伸ばし、何をつかもうとしているのだろうか。

由希の肩は、小刻みに震えている。
どのような経緯で、由希と藤堂先生が将来を誓い合ったのかは分からないし、
望美が立ち入ることでもない。
けれど、由希の気持ちを察することはできる。

ヒノエを振り返ると、ヒノエも黙ってうなずいた。
二人はそのまま美術館を後にした。

「ふうん、そんなことがあったのかい」
喫茶店に落ち着いてから、望美は美術展の招待状をもらったいきさつを話した。
「うん、友達から貰ったとしか言ってなかったけど、そういうことなんだ。
別に隠してたわけじゃないけど、いろいろ複雑そうだし、言うことでもないかなって思ったから」
「いや、いいさ。どこかの不埒なヤツが、展覧会にかこつけて姫君を誘い出そうと
したんじゃない・・・って、わかったからね」
「えーっ!そんなこと、あるわけないよ」
「オレの姫君は無防備だね。油断してると悪い花泥棒に摘まれてしまうよ」
「悪い花泥棒って、ヒノエくんのこと?」
「もちろん。じゃ、オレに摘まれてくれる?」

「もう、ヒノエくんったら・・・。でもね、さっきの話だけど」
「鮮やかにかわされたようだね。女の子のことかい?」
「うん、まみちゃん。あの子の気持ち、わかるような気がする」
「あの絵でお母さんに抱っこされてた子供は、たぶんその子だね。
それで、姫君はあの子がどんな気持ちでいると思うんだい?」
「えーっ?そんなの、当たり前じゃない・・・・。お父さんを取られたくないんだよ」
「それで、どうして学校まで?」
「おばさんの亜矢ちゃんに、由希さんのこと、頼みたかったんじゃないかな。
『お父さんを取らないで』って」
「ふうん、あのあでやかな姫御前を嫌っていると?」
「ヒノエくんと5歳児じゃ、由希さんの見方は違うよ。由希さんて、きっといい人で、
みんなからも好かれてるんだと思う。でも、まみちゃんにとっては・・・」

「お前の同級生の方も、重症・・・かな。察するに、姉妹で同じ人を想っているみたいだけど。
なかなかスミに置けないヤツもいるものだね」
「ヒノエくんが言うと、説得力ないよ。でも、亜矢ちゃん、やっぱりそうだよね・・・」
「ハナから勝負になってなかったみたいだけど」
「ちょっと、その言い方ひどいよ!!」
「キツかったかい?でもね、本当に大切なものも見極められないようじゃ、
いつまでたっても、あの姫御前にはかなわないと思うよ」
「そんな・・・冷たいよ。誰だって、悩む時くらいあるじゃない。まして、心の支え だった人が・・・」
「心の支えと、絵と恋心をごっちゃにしてたら、そうなるのも当然かもね。
でも、いい絵を描くんだろ、お前の友達・・・」
「うん。私、亜矢ちゃんの絵、好きだよ」
「きっと、大丈夫さ。お前がそう思うんなら」
「・・・・・」

望美は目を閉じた。
さっきのヒノエの言葉が心の中に渦を巻く。
「本当に大切なものも見極められない」
今の私だ。

店には静かに音楽が流れている。
外の雨音と同じくらいかすかな・・・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」。
くすんだ木造の薄暗い店の中、雨に満たされた窓の方だけが、閉じた瞼に明るい。

「神子姫様・・・」
ヒノエが手を伸ばして、望美の頬に軽く触れた。
望美は目を開く。

「お前が・・・・泣き出すのかと思った」
「えっ・・・・・そ、そんなこと、ないよ」
望美は笑ってみせる。ちょっと目が赤いかもしれない。
恥ずかしくて顔を伏せた。
「あでやかな姫御前の涙もいいけれど、可憐な花に宿る雫も見てみたいね」
「ちょ、ちょっと、それって、私を泣かせるようなことでもする気なの?」
「はははっ。オレがそんなこと、すると思う?」

別れ際に、ヒノエから本を渡された。
「あ、これって」
「そうだよ。この前、借りるって言いながら、オレの家に起きっぱなしで 帰っただろう?」
「ごめんね。ヒノエくんに一日中持たせたままだったんだ」
「お前に重たい思いをさせるなんてとんでもないさ」
「これでお砂糖の謎がわかるね。楽しみだな」
「あれ?お前は自力で謎を解くんじゃなかったかい」
「え、あ、まあ、そうだけど、結局最後は降参ってことになりそうだよ」
「じゃあ、とっておきのヒントを」
「あーっ!!だめだめだめ」
「大丈夫。ヒントっていうのはね、自分が思っている通りにしか、人は見ることが できないってこと」
「???」
「ね、大丈夫だっただろ?」
「難しいヒントだね」
「いや、オレの姫君の純粋な心には、無用のものだと思うよ」

「ヒノエくん、買いかぶりすぎだよ。でもこの本、すぐには読み終わらないかも」
「返すのはいつでもいいよ。なんならオレが真夜中に姫君の部屋まで受け取りに行くって、どう?」
「もう、真夜中はよけいだよ。もうすぐ、期末試験が始まるんだ」
「お前の顔を見ると、試験というより試練て感じだね」
「ううう、その通りだよ」
「ま、その間はお前を独り占めするわけにいかないってことは、わかってるさ。
でも、オレ達の仲を裂くなんて、無粋な仕組みだね」
「試験が終わったら・・・」
「ああ、それまでの分は、いっぱい埋め合わせしてもらうからね」


勉強の息抜きに1話ずつ読もうと思っていたが、結局一気に読み通してしまった。
犯人当てなら勘を頼りにすることもできるが、なぜ?を問いかける謎には、当てずっぽうは通用しない。
結局、どの話の謎も自力では解けなかった。
が、本当におもしろい。そして、主人公の「私」の凛とした清々しさに、心惹かれる。
確かにヒノエの言った通り、清らかで純粋な心の持ち主だ。

「読んでよかった。ありがとう」
早速ヒノエにメールを送った。

返事が来ない。
電話をした。
「留守番電話に接続します・・・・」
無機的な声が応答する。

ヒノエの家に行ってみた。
ドアホンの呼び出しに応えはない。
悪いとは思ったが、ヒノエから預かっている鍵で部屋に入った。
ヒノエはいない。

「ヒノエくん・・・どうして?」




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