・・・大人の時間・・・


珈琲の香りに



店の中にはコーヒーの香りが濃密に漂っている。
燻されたように煤けた柱、煤けた天井、明かり取りの小さな窓も、煤けた木製の枠。

繁華な通りに面しているのに、ここだけ時間が止まったような、
コーヒー豆を売る小さな店だ。

景時の前に、小ぶりのカップが置かれた。
中には黒く熱いコーヒー。

景時がカップを手に取ると、馥郁とした香りが広がる。

「本当に、いい香りだね〜」
「ありがとうございます」
「いつも悪いな。こうしてご馳走になっちゃって」
「うちは他の店より、待ち時間が長いですから」
「挽く前に豆を選り分けてくれてるんでしょ。
オレ、こおひい飲まなくても、ちゃんと待つよ」
「私の趣味のようなものです。
特に、味の分かるお客様に試飲して頂くのは勉強になりますし」

景時は、熱い液体を口に含んだ。
鼻腔に突きぬける苦さ、舌を柔らかく刺激する酸味にかすかに隠された甘み、
さらさらとした舌触りに反して、とろりと広がっていく強いコク。

「いかがでしょうか」
店主の問いかけに、景時は困ったような顔をした。
「う〜ん…」

「お気に召しませんか」
「ええと、そういうわけじゃないんだ。
とてもおいしいんだけど、いつものとは違うかな〜って思って。
今日のは舌触りが柔らかくて、そのくせ一筋縄ではいかない風味っていうのかな…」

「おおっ!」
「な、何…?!どうしたの?」
いきなり大声を出した店主に、景時は両手を上げて驚いた。

「いや、参りました。これがお分かりになるとは、
お客様は本当に舌が肥えていらっしゃる」
景時は思わず頬を掻いてしまう。
「そこまで言われると、オレの方が恥ずかしいよ。
でも、やっぱり別の豆だったの?」
「いいえ、そういうわけではなく、豆は同じものなのですが、
今日はアンウォッシュトタイプで……ローストの時に……」

店主の説明は、景時には全く分からない。
意味を類推しながら聞くしかないのだが、これがなかなか楽しいのだ。

……たぶん、何も知らないから、かえって味の違いが分かるんだろうな。

景時は、もう一口、熱い液体を喉に流し込んだ。

その時、店のドアが開き、男の客が一人入ってきた。
ドアにつけた古い真鍮の鈴が、チリ…と小さく鳴る。

暗い店の中に光が射し、コーヒーの香りに外気が混じった。
外には、道行く人々のざわめきが満ちている。

店の前を、若い女性の笑い声が通りすぎ、
「それでね…」
明るく交わされる会話が一瞬聞こえ、ドアが閉じると同時に消えた。

それは、景時が聞き間違えるはずもない声……

朔……そういえば、今日は望美ちゃんと出掛けるって、言っていたっけ。

閉じたドアを見、その向こうの賑わう街を思う。

さっきの声が、耳に残っている。
楽しげに弾んだ声だった。
二人とも、輝くような笑顔だったに違いない…。

ここは戦のない世界。

望美ちゃんも朔も、普通の女の子でいられる世界だ。

この世界を去る日は近い。
朔は……戻ってからも、ああして笑うんだろうか。
笑うことができるのだろうか。

あまりに違う二つの世界。
あまりに遠い二つの世界。

でも……
どこにいても、誰と共にいても、何をしていても
オレ達の時間は続く。

ここに、こうしてオレがいるように。

最後の一口を飲み干すと、景時は眼を伏せ、静かに息を吐き出した。

その時、先程入ってきた客が、店主のコーヒーを一口飲むなり言った。
「今日は機嫌がよさそうだな」

店の奥まった場所から聞こえたその言葉に、景時は驚いて顔を上げた。
「ええ〜っ?こおひい飲むだけで、そんなことまで分かるの?」

店主は苦笑しながらその客に答える。
「おいおい、読心術でも始めたのか?」
「まさか」客も苦笑した。
「そんな気がしただけだ」

「へえ、二人は知り合いなんだね」
景時が言うと、二人は同時に頷き、また苦笑いした。

店主が答える。
「学生の時分からの悪友なんですよ。
鎌倉(ここ) で生まれて、鎌倉(ここ)で育って、いろいろありましたが、
結局戻ってきて、こうして顔つき合わせてるんです」
客が後を続けた。
「私も若い頃は、ずいぶん遠くに行ったりもしたんですよ。
二度と帰ることもないだろうと思っていたのに、
戻ってみたら、こいつがいるじゃありませんか」
店主は屈託なく笑った。
「こういうのを、腐れ縁とでも言うんでしょう」

「結局、元の場所に帰る……か」

「海の向こうまで流離ったあげく、気がついてみたらこの通り、
故郷でコーヒーの店を開いてるってわけです」

「で、こいつの腕が鈍らないように、
私には最高の一杯を淹れることになっているんですよ」
客が言った。

「う〜ん、友達っていうのは、一番厳しいお客さんだよね」
景時が言うと、店主は深く頷いた。
「そして私がこいつの店に行った時には、今度は逆の立場になるんです」
「え?この人もこおひい屋さんなの?」

しかし客は笑いながらかぶりを振った。
「私の人生の伴侶は酒なんです。
こいつが来た時には、最初の一杯は店からのおごりで、
最高のカクテルを出すんですよ」

飄々とした口ぶりだが、それは彼らにとっての真剣勝負なのだろう。
最高の一杯に込めた心に、ごまかしはきかない。

「それって、なんだか、すごくいいね〜。ずっと続いてるの?」
「そうですね、店を構えてからですから、もう何年になりますか」
「こいつに対してじゃなく、自分への意地みたいなもんです」

コーヒーを飲み終えた客が、カップを店主に渡し、奥から出てきた。
景時の前に来ると、淡いグリーンのカードを差し出す。

「私の店です。よろしければ一度、おいで下さい」

渡されたカードを裏返すと、簡単な地図がある。

「ここから近いんだね」
「はい。少々目立たない場所にありますが」

「何だか高級そうだけど、オレなんかが行ってもいいの?」
客は、とんでもない、とでも言うように首を横に振った。

「お気兼ねは無用です。カウンターの中に私がいるだけの、
色気も何もない小さな店ですから」
そして、景時の眼を真っ直ぐに見る。
「けれど、胸を張ってお客様に提供できるものが、二つあります」
「こだわりのカクテルは、その一つだよね。
もう一つは何なのかな?」

「静かな時間、です」

チリ…と真鍮の鈴が鳴り、客は表通りへと姿を消した。

景時はもう一度、カードに眼を落とした。
そこには、店の名が控えめな文字で書いてある。

「BAR る・いーだ」と。




      




大人の時間

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番外編

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あとがき


前作「『る・いーだ』ふたたび」で、永遠にお店を去ってしまった大人 三人組。

気に入っていたお店でしたが、もうこれで行かれないよぅ…(泣)と思っていましたら
神子様からメールでステキなヒントを頂きました。

−−景時さんは、どのようにしてあの店を知ったのでしょう−−

この手があったか!というわけで書いたのが、この1編です。

ヒントをくれた神子様に感謝。
そして、景時さんとオヤジ×2という、色気もへったくれもない
渋すぎる話をお読み下さった神子様達、
ありがとうございました!!


なお、この物語はフィクションであり、
実在の人物、店、地名等とは、一切関係ありません。


2008.5.3 筆