・・・大人の時間・・・


望郷のヌルヌルジーベン(零零七番)



街の灯りが目にしみるぜ。
俺は雑踏の中、人波にもまれながら一人歩いている。
周囲を通り過ぎていくのは、異国の言葉、異国の人々。

ここは東洋の最果ての国ニッポン。
俺はブシの古都カマクラに来ている。

急ぎ足で家路を辿る人々が、俺を追い越していく。
ここでは毎日のように、こんな光景が繰り返されているのだろう。
俺には関わりなく過ぎていく、異国の時間だ。

灯ともし時の憂愁など、ハードボイルドな俺には無縁のものだが、
やはりこんな時には、何か忘れ物をしたような気分になるものだ。

ふっ…
大人を気取っていても、所詮男ってやつは、
永遠のロマンチストなのかもしれない。

ここで紫煙をくゆらすというのが、やはり渋い男の定番だろう。
俺は懐から愛用のブローニング…じゃなかった、
煙草を取り出そうとして、
周りを見て止めた。

前からおじいさんとおばあさんが歩いてくる。
親子連れもいる。
それに、路上喫煙はいけないと、アキバで叱られて
罰金払ったばかりだったことも思い出した。

俺は公衆マナーを守る男だ。
よきエージェントはよき社会人たれと、
俺の尊敬する諜報員も言ってたし。

ああ、そうだ。自己紹介をしていなかった。
俺の名は ヌルヌルジーベン(零零七番)、 凄腕のスパイだ。

安心してくれ。
ニッポンには休暇で来ている。
だから愛用のブローニングも、持ちこんではいない。
よき社会人は法律を守るものだ。

もちろん「仕事」とあれば、空港の検査など、
いくらでもくぐり抜ける方法は知っている。
今までうまくいったことはないが、知っているだけなら知っている。
ふっ……まあ、そんなところだ。

夜空を眺め、俺は片頬で渋く笑う。
冷たい風が通りを吹き抜け、俺はトレンチコートの襟を立てた。

寒いよ。
冬だから仕方ないけど、
クマノはもっと暖かだったのに。

びょおぉぉぉぉ…。

ぶるぶるぶる。
いやだなあ、風邪ひきそうだ。
俺、意外とデリケートな体質だし。

そうだ!!
こんな時、俺を暖めてくれるのは、あれしかない。

ふっ…
「あれ」だけでは、大人にしか通じないか。

背中で哀愁を語る男につきものなのは、
酒と、
酒場に漂う、男のロマンの香りだ。

そうと決まれば、俺の行動は速い。

アタッシェケースから、素早く七つ道具の一つ、黄色い鉛筆を取り出す。
後ろに消しゴムの付いた優れものだ。

俺はその場にしゃがみ込むと、アタッシェケースを地面に置き、
その上に、キョウトで買ってきたハンカチを広げた。

このハンカチだって、ただの布きれではない。
オンミョウジの使っていたという、占い盤の模様が描いてあるのだ。
これを使うのは初めてだが、俺は神秘の力を軽視するような人間ではない。

その時

ぽかっ!…痛っ!
げしっ!…痛っ!
がこん!…痛っ!

礼儀の国ニッポンで、無礼な通行人に連続して蹴られてしまった。

「jamada」
「meiwakune」
「hajikkodeyare」
何か言われているようだが、ここで集中力を途切れさせてはいけないのだ。

慎重に占い盤の中心に鉛筆を立て、そっと指を離す。

カラ…
乾いた音を立てて、黄色い鉛筆は19時の方向を指して倒れた。

ふっ…
俺はおもむろに秘密道具をしまうと、早足で歩き出す。

もちろん、行き先は酒場。
鉛筆が示したのは、よい店のある方角だ。

他にも、尾行をまかれた時の人探しとか、
潜入した場所で迷った時とか、
休日に行ったレジャーランドで、
可愛い6人の妻と1人の子供じゃなかった、
1人の妻と可愛い6人の子供とはぐれてしまった時などに、
俺はこの黄色い鉛筆を使う。
本当に汎用性の高い道具だ。
いざという時には、文字を書くことだってできるのだから。


鉛筆に従って歩いて行くと、俺はいつの間にか、
人通りの少ない路地に入り込んでいた。
突き当たりに、控えめな文字で「BAR」という看板を出している店がある。

俺は重い木の扉を開き、中に入った。


その店は、全体をくすんだ赤と茶色で品よく統一しており、
照明も抑え気味で落ち着いた雰囲気だ。
ピアノの生演奏が流れている。

先客もいたが、皆低い声で談笑しながら、ゆっくりと酒を楽しんでいる様子だ。

ふっ…また当たりか。
いつもながら、俺と鉛筆の勘は冴えてるぜ。

真っ直ぐカウンターに向かおうとして、
俺はそこに超いい男が3人も居るのに気づいた。

おとなしく隅のテーブル席に着くことにする。
バーでは止まり木に座るのが渋い男の定番だが、
あの3人と並ぶなんて……気が進まないよなあ…。

髪の色からして、明らかにニホンジンじゃない大男が一人、
後の2人も、少し奇妙な髪の色をしているが、
3人とも超いい男なのは確固たる事実だ。

と、彼らの前に、どどん!と大量のグラスが置かれた。
ピアノの演奏が、激しいを通り越して、嵐のような狂乱状態になる。

何だろう?

その時、髪の短い男が何か言った。

あ……なつかしい声だ…。

ニホンゴは分からない。
だが俺は、確かにその声に聞き覚えがある。

誰だったか思い出そうとして、耳をそばだてた時

ぱっ!!!

俺の周りから、何もかもが消えた。

上下左右を見渡しても、何もない空間に、俺はいる。
一瞬、頭が空白になり、次いで言い様のない恐怖に襲われた。

しかし、俺が悲鳴を上げる一瞬前、
ぱっ!ぱぱっ!ぱぱぱっ!ぱっ!ぱっ!ぱっ!ぱっ!
俺の周囲に、酒場にいた男達が次々と現れた。

ああ、よかった。
これでもう、独りぼっちじゃない。

ぱっ!!
カウンターの向こうにいたマスターも、
シェーカーを握りしめたまま現れた。

無事、あちら側に残っているのは、あの3人と女達だけのようだ。

いいなあ、女の人に囲まれて……。

そう思った時、俺は、記憶の中の声の主を思い出した。
なつかしい気持ちがしたのも道理。
カウンターの前の男の声は、
俺の同僚 ヌルヌルノイン(零零九番)に そっくりだったのだ。
同僚とはいえ、彼はスパイにあるまじき、かっこいい男だ。

誤解の無いように言っておくが、
有名な映画みたいに目立ちまくっていたら、俺達スパイは仕事にならない。
目立たないこと、地味なことが一番だ。
俺の天職と言ってもいい。

でも、見た目がかっこいいと、声まで似るんだろうか。
いいなあ。
俺も一度でいいから……

などと考えているうちに、いつの間にか俺達は、
元の酒場の、元の場所に戻っていた。

男達は怪訝な顔で周囲を見回し、
女達はなぜか一様に淋しそうな顔をして、カウンターを眺めている。

あの3人は、もうそこにはいなかった。
代金とおぼしき紙幣が、テーブルに置いてあるだけだ。

ふっ……

俺は片頬で笑った。
一応、自嘲の笑いのつもりだ。

ふと耳にした懐かしい声で、故郷を思い出してしまうとは、
俺もまだまだ青いのかもしれない。

そんな俺の席に、マスターが来た。

「何か、うんと…」
そう母国語で言いかけて、止めた。
ここは無難に、とりあえずビールの方がいいのかもしれない。

するとマスターは、トレーに乗せて来たグラスを静かに俺の前に置いた。

「最初の一杯は、店からのおごりです。
どうぞごゆっくり…」
マスターは、俺の国の言葉でそう言うと、音もなくカウンターに戻っていく。

俺は銀の持ち手の付いたグラスを取り、遠い我が故郷に乾杯をした。

グラスを傾ければ、熱い酒が心に染み渡っていく。

言葉が通じないと思い、言いかけて止めてしまったが、
ちょうど欲しかったところなのだ。

うんと甘いお酒が。

マスターが運んできたのは、
ホットチョコレートをベースにしたカクテルだった。

ふっ…
やはり俺の勘に、狂いはなかったようだ。

異郷の夜は長い。
今宵の友は、この酒になるのだろう。

俺は手を上げて、マスターに「おかわり!」と言った。




      




大人の時間

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番外編

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あとがき




初めての方には申し訳ありません!!!!
零零七番氏は、ヒノ望小説(@異世界の熊野)に登場しているキャラです。

そんな彼のそっくりさんが、現代の鎌倉に出現。
「大人の時間」の第1作「『る・いーだ』にて」に顔を出しました。

というわけで、この話は、
細々と連作状態?な「大人の時間」の超・番外編です。


なお、この物語はフィクションであり、
実在の人物、店、地名等とは、一切関係ありません。


2008.6.2 拍手より移動