・・・大人の時間・・・


「る・いーだ」の迷宮

「迷宮」ノーマルエンド背景。
連作・大人の時間の [珈琲の香りに]の続きのお話です。



景時は八幡宮の高台に立ち、
夕闇に沈んでいく鎌倉の街を見ていた。

冬の日没は早い。
鮮やかな残照が薄墨色にけむり、空は夜の帳に包まれていく。
空の色に抗うように街並みには明かりが灯り、
暗い海を縁取り、燦めく。

馴染みのない夜景に不思議な懐かしさと一抹の淋しさを感じながら、
拝殿を背に、景時はゆっくりと大石段を降りた。

迷宮の扉があった場所に眼をやるが、もうそこには何も無い。

戦いの跡も、焦燥と惑いの残滓も、
遠い時空を渡りきた神の痕跡も、何もかも。


景時は八幡宮を後にすると鎌倉駅へと向かった。
若宮大路を冷たい風が容赦なく吹きぬけていく。

寒さには強いのに、夜風がやけに身に沁みる。
景時は上着の襟を立てた。

凍てつく空に星が一つ、二つとまたたき始めた。

――なぜだろうな……。
もう少し、一人でいたい気分だ……。


景時はポケットから小さなカードを出した。
馴染みになった珈琲豆の店で、店主の友人という男から渡されたものだ。

薄い萌葱色をしたそのカードには
控えめな文字で「BAR る・いーだ」と書かれていて、
裏側には簡単な地図がある。
ここからそれほど遠くはなさそうだ。


人々が行き交う繁華な通りを離れ、
地図にある建物を目印に、景時は目立たぬ細い脇道に入った。

ほんの数歩で、表通りの明るさと賑やかさが、失せた。

人の声も車の音もない。
見知らぬ建物と板塀と石の壁が影を孕んで続いている。
点々と並ぶ街灯の下だけがほの明るく滲み、
道の奥は眼を凝らしても見えない。

足元に眼をやれば自身の影法師が伸び、
顔を上げれば建物の輪郭に切り取られた細長い夜空。

――迷宮……みたいだ。

このまま薄闇に絡め取られて彷徨うのも、
いいかもしれない――。

ふとそんなことを思った時、小さな路地が眼に入った。

柔らかな光を放つ街灯が、
突き当たりに建つ古びた建物を照らしている。

ああ、ここだ。

手の中のカードを見るまでもなく、景時は確信した。

建物の階段を降りると、その先にがっしりとした木の扉。
景時は、扉の横に置かれた、
「BAR る・いーだ」という小さな看板を確かめ、
重い扉を静かに開いた。




――来てよかった。

マスターに供されたグラスの酒を一口含み、
景時はふっと肩の力を抜いた。

周囲を見回すと、カウンターの中では、
マスター――景時にカードを渡してくれた男だ――が
酒壜のぎっしり並んだ棚を背に、
鮮やかな手さばきでシェーカーを振っている。

全体をくすんだ赤と茶色で統一した店内は、
照明も抑え気味で落ち着いた雰囲気だ。
客は穏やかに語らい、時折上がる楽しげな笑い声も
野放図な大声にはならない。
中年の男性がピアノの前に座り、静かな曲を弾いている。

――ふうん……あの黒い箱が楽器なのか。
前に座っている人が奏でているんだろうな。
でも不思議だなあ。
指で叩くだけで、どうしてこんなにきれいな音が出るんだろう。
中の仕組みが気になるなあ……。

「ピアノがお好きですか」

カウンターの止まり木から身を乗り出していた景時に、
マスターが控えめに声をかけた。

「あ、ああ……、素敵な音色だなあって。
思わず引き込まれちゃうよね」

マスターの顔に穏やかな笑みが広がる。
「けんたろすさんはすばらしいピアニストですから。
うれしいことに、この店を気に入って弾きに来てくれるんです」
「けんたろす? 変わった名前だね」
「ここでの芸名です」

ピアノの音色は、川面の光のように輝きながら、
静寂の音を紡いでいる。

――音があるのに静かだ。
ぴあのの音も、お客さんの笑い声も、
「ますたあ」の言葉も……。

マスターは景時に店の案内を渡す時に言ったのだった。
自分の店は「よい酒と、静かな時間を提供する」と。
その声に滲んでいたのは、慎ましやかでいながら揺るぎない誇りだった。

異国をさすらい、故郷の鎌倉に戻ってから、
自分の店を持ったのだとマスターは話していた。
その時から少しずつこの店を育ててきたのだろう。
その時間があるからこその、誇りなのだろう。

――オレには、誇れるものがあるだろうか。
恐怖に負け、手段を選ばず手を汚してきたオレに………。
家族と梶原党を守るために、オレはそんなやり方しかできなかった。

景時はグラスの中の琥珀色の液体を見つめた。
カランと音がして、液体の中の氷が動く。

ひんやりしたグラスを握れば、
鎌倉の街を巡り歩いた今日一日のことが次々に思い出される。

大刀洗川、報国寺、梶原邸の跡、
源氏山公園、由比の若宮、そして……
幾たびも訪れた頼朝様の墓所。

この世界の遠い過去に生きた「梶原景時」はオレじゃない。
頼朝様も政子様も、オレ達の世界と同じ名の人がいた……それだけだ。
分かってるのに、引きずられてしまう。
オレはここにいるのに……。

グラスを傾けると馥郁とした香りが鼻に抜け、
まろやかな熱さが喉を伝い胃の腑へと染み渡っていく。

きらきらと輝いていたピアノの音色が変わった。
きらめくせせらぎが、ゆるやかな流れとなって動き出している。
音のうねりの中から、新たな旋律が浮かび上がる。

――人の時も、流れていく。
そこに現れる未知の旋律は誰にも分からないんだ。

政子様の力に伏したあの「時」の先に、
今のオレがいる。
そして遙かな時空を越えて、ここに来た。

不思議だなあ。
そんなオレが、ここでこうして美味しいお酒を飲んでいるなんて……。

そして明日の朝には、みんなで朝ご飯を囲んで、
他愛もない話をするんだろう。
望美ちゃんと朔は、今日は一日中二人で「じょしかい」をするって言っていたから、
その話も聞けるだろうな。
そういえば今朝、二人が留守になるって分かった途端に、
男たちは適当に散らばっちゃったんだっけ。

かつての敵も味方も裏切り者も、
しがらみなど意味を失ったこの世界で、みんな賑やかに過ごしている。
朔が屈託無い笑顔で過ごす日々。
戦いのない日々。

それも、間もなく終わる。

この世界に渡り来た政子様は、迷宮と共に消え去った。
政子様亡き頼朝様のいる世界に、オレ達は還る。

空いたグラスをマスターに向かって上げると、
すぐに景時の前に、新しいグラスが音もなく置かれた。
ちょうど欲しかった冷たい水も添えられている。

「ありがとう……。
この店のこと教えてもらってほんとによかった」
「何よりのお言葉、こちらこそありがとうございます。
酒と時間はよき友です。どうぞごゆっくり」

ふいに、当たり前のことに気づいた。

束の間の出会い。
間近に迫る別れ。

景時は小さく微笑み、この世界での穏やかな日々を思った。

そうだ。
明日は早起きして洗濯して布団を干そう。

晴れるといいな。
うん、きっと明日もいい天気だ。

―――オレは今、幸せなんだ。




      




大人の時間

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番外編

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あとがき


ここでは景時さんをフィーチャーしましたが、
この後ほどなくして、
有川兄弟以外の八葉も朔も、神様の白龍さえも、
誰もが何かを問い、自らの答を見つけ、
あるいは問いを抱えたまま、
あの世界に還っていくのでしょう。

切ないです。

そして「迷宮」という物語の行く先に立ちこめる、
この切なさが大好きです。

無印、十六夜記と辿った長い長い道のりの果てに、
これなんですもの……。


なお、この物語はフィクションであり、
実在の人物、店、地名等とは、一切関係ありません。
分かる人には分かるピアニストのけんたろすさんは
管理人のリスペクトです(汗)。


蛇足1:景時さんはピアノを分解したがっていると思います。

蛇足2:いろいろなお店を開拓したり知り合いを作ったり、
新しいことを体験したりするのは
八葉の中でも景時さんが一番得意な気がします。
ヒノエくんは一足飛びに店のオーナーとかになっていそう。

蛇足3:九郎さんは兵糧の参考にするため(という名目で)、
かっぷめんを食べまくっていると思います。


2019.5.26 筆