いまひとたびの 10



夕暮れ時になって雨は止んだ。
大内裏の濡れた屋根が、雲の切れ間から射す薄日に光っている。
治部省を出た鷹通は、ぬかるんだ道を足早に歩き出した。

朱雀門の前まで来ると、広場の片隅に見知った顔を見つける。
友雅と泰明だ。

何やら話しこんでいるようだが、鷹通はためらわずそちらに足を向けた。
いつもであれば人の話に割り込むようなことはしないが、
あかねから聞いた話によれば、泰明は早朝から遠出していたという。
だとすれば市での事をまだ知らないかもしれない。

丁寧に無礼を詫び、市での一件を伝えると、
泰明の顔色が変わった。
「神子が怪我をしたのか!?」

泰明は京に戻ってからは家に寄らず陰陽寮に出仕し、
これから安倍屋敷に行くつもりだったという。
当然、あかねにはまだ会っていない。

友雅が憂い顔で尋ねた。
「怪我は肩だけなのだね。
家には歩いて戻れたのだろうか」
「ええ、打たれたのは一度です。
イノリと一緒に家まで送っていきましたが、
帰り道ではいつも通りの足取りで、普通に話もしていました」
「ひどい怪我ではないということか。
ともあれ、鷹通とイノリが居合わせたのが幸いしたようだ」

「友雅の言う通りだ。感謝する、鷹通」
そう言うなり、泰明は二人にくるりと背を向けて駆け出した。

「そちらは晴明殿の屋敷の方向ではないが」
友雅が呼びかけると、泰明は振り向きもせずに答える。
「お師匠の所には行かぬ!」
その手から札がひらりと宙に舞い、小鳥になって飛び去った。

すれ違う貴族達が勢いに気圧されて次々と道を空ける中、
泰明は真っ直ぐに広場を駆け抜け、門の向こうに姿を消した。

「……あの小鳥は、式神だったのでしょうか」
「そのようだね。自分の代わりに安倍屋敷に送ったのだろう。
今の泰明殿には、晴明殿への報告よりも優先すべきことがあるのだから」

そして友雅は門に眼を向けたまま、独り言のように呟く。
「泰明殿の弱点……か」

「弱点…?」
聞きとがめた鷹通に、友雅は笑みを向けて言った。
「思うのだが、ある意味、市で居合わせたのが泰明殿でなくて
よかったのかもしれないね」

はぐらかされるのはいつものことだ。
鷹通は内心でため息をついたが、友雅の指摘は的を射ているとも思う。

「そうかもしれません………いえ、そうだったと思います。
男一人の乱暴狼藉を止めることなど、泰明殿にとっては造作もないでしょう。
けれど、男があかね殿を傷つけたなら……」
「ああ、私なら店主の立場にはなりたくない」

「正直なところ、あの時、私は少し冷静さに欠けていました。
怒りを露わにしてはならないと、自分を抑えることに懸命で……」
「まして泰明殿ならその怒りはいかばかりか…というところか。
だが鷹通はその場をきちんと納めたのだろう?
若い者にはなかなかできないことだよ。さすがだね、鷹通」

「友雅殿、からかわないで下さい」
「おや、私はからかってなどいないよ。
ほめ言葉は素直に受け取っておけばいい」
「では……私のような者を認めて下さるとは、
さすがです、友雅殿――これでよろしいですか」
「ははっ、これは見事に切り返された。真面目な鷹通にしては上出来だよ。
次からもこの調子で頼みたいものだね」

言い返す気にもなれず、とうとう鷹通がため息をもらした時、
数台の牛車がしずしずとやってくるのが見えた。
どれも大臣や参議の乗る、格の高い車だ。
このような刻限まで残っているとは、何かあったのだろうか。

その時、友雅が鷹通に負けぬ大仰なため息をついた。
「さて、私はそろそろ仕事に戻ることにするよ。
たまには顔だけでも出しておかないとまずいのでね」
「たまには、ですか」
「何ごとも、ほどほどがよいのだよ」

いつもの調子で軽口を叩くと、友雅は行ってしまった。
優雅に衣を翻し、ぬかるみなどないかのような足取りで
悠々と内裏に向かって歩いて行く。

だが去り際に一瞬、友雅が真顔になったことに鷹通は気づいていた。
まるで戦いの最中のような、鋭い武官の顔に――。





左大臣は口を一文字に結んだまま、ゆっくり立ち上がった。

「出立する」
「御意」

左大臣の配下は、このような時にも常の通り動いている。
主と同じく、動揺した様子はない。
たとえ、左大臣はしばらくの間昇殿を控えるようにと、朝議で決まった直後であっても。

――「しばらく」の間か。

左大臣は内裏の一画に設けた執務の部屋を出た。

期間は、貴船社での凶事の原因が明らかになり、
改めて神に白馬が奉納されるまで、と定められた。

だが、この事件が完全に決着するより前に、
再び昇殿が叶うことを、左大臣は確信している。

勢い込んだ右大臣の追求は長時間に及んだが、
非難の言葉が続くにつれ居並ぶ参議の多くは醒めていき、
賛同の声もうなずきも、次第に少なくなっていった。

左大臣がいない間、その職務の大部分は自分が肩代わりすると
右大臣自ら言い出した時、あからさまな反対はしなかったものの、
参議達はあれこれと代案を持ち出し、
結局、右大臣の受け持ち分はかなり減ることになったのだ。
彼らの大部分は、右大臣に信頼を置いていない。

己の権力への過信でもなく、ましてや傲りでもなく、
なすべき務めと、それを実現する宮廷内の力の在り様を、
左大臣は冷静に見極めている。

政は世の動きと共に変化するのが常だ。
その時々の浮き沈みに心を乱していては、
この地位にまで登りつめることはできなかった。

だが左大臣には自身の処遇よりも気にかかっていることがある。
帝の憔悴しきった様子だ。
朝議の間に聞こえたのは、少し嗄れた低い声。
弱々しさなど微塵も感じさせぬ御方が、いたわしい限りだ。
度重なる事件の心労はいかばかりだろうか。

前方から細身の貴族が一人、歩いてくる。
左大臣一行に気づいたのか、貴族は渡殿の隅に退いて頭を下げた。

――誰であったか……よく会うのだが……。

のっぺりと細い顔に、ぞんざいに線を引いたような細い目と口。
何もかもが細い作りで、いるかいないか分からぬような存在感の薄い男だ。

しかし、内裏に数多行き交う貴族を全員覚えていられるはずもない。
牛車に乗り込む頃には、左大臣はその男のことなど考えてはいなかった。

細身の男は、左大臣が通り過ぎた後も頭を下げたまま動かない。

殿舎を仕切る塀の向こうから、話し声が切れ切れに聞こえてきた。
「おう、これは橘の少将殿」
「どちらへ、などは問いませぬぞ。
少将殿なら花の方からなびくというもの」

その瞬間、男は頭をくねらせながら顔を上げた。
顔には異形の笑みが貼り付いている。
線のごとき口は大きく横に伸び、
顔の半ばを占めているのは、かっと見開かれた目だ。

奇怪な笑みを浮かべたまま、男の身体が足元から欠け始める。

「さあ……どうだろうか。
なびかぬ花も、趣深いと思うのだが。
では、失礼するよ」

織られた衣が糸に戻るように、男の輪郭がするすると解けている。
その内側には、何もない。

「少将殿の余裕がうらやましいのう」
「そうじゃそうじゃ。せっせと歌を送り、さんざん通い詰めても
一目見ることすら叶わぬこともあるというのに」

解けた糸は床の色に変わり、その先端は柱に絡みつき梁へと登っていく。

「誰かいるのか!?」
塀越しに不穏な気配を感じ、友雅がその場に走り来た時には、
すでに何者の姿も残ってはいなかった。





「なくなった物は荷台の箱の陰に落ちていました。
鷹通さんが、落ち着いてよく周りを見てみましょうって提案して、
みんなで探したら、店主さんが見つけたんです。
ええと、いきさつはこれで分かりましたか、泰明さん?」

「分かった」
あかねが市での顛末を説明すると、泰明はこくりと頷いた。

「男の子の疑いは晴れたし、店主さんも売り物を無くさずにすんだし、
本当によかったですね」

しかし今度は、泰明は頷かなかった。
「よくない。神子が怪我をした。
鷹通から話を聞いた時には、心配で壊れそうだった」

「心配してくれるのはとてもうれしいけれど、
心配しすぎですよ、泰明さん。
私、けっこう丈夫にできてますから、少しの怪我くらい平気です」

「お前が怪我をしたのに心配するなと言うのか。
それは無理だ。
そもそも、不注意と誤解で乱暴を働いた店主は許せぬ」

「すまないことをしたって、とても後悔していましたよ。
最初は私も怒りましたけど、男の子にも謝ったし、
もうあんなことはしないって約束してくれたから、いいです。
でも何だか今日は、市全体がぴりぴりした感じでした。
雨が続いて、みんな困っているんですよね」

「そのようなことは言い訳にならぬ。神子は人に優しすぎる。
イノリと鷹通が間に入らなかったら、もっと酷い目に遭っていたかもしれない」

言われてみれば、その通りだ。
だが自分が行かなかったら、子供が打たれていたのだ。
あかねは小さく身震いした。

そういえば、あの僧侶が現れた時にも、こんな風に冷んやり寒い感じがした。

「どうした、神子。まだ話していないことがあるのか」
「はい、私の怪我とは関係ないことですけど、少し気になることがあって……。
ちょっと怖いような、変わった感じのお坊さんに会ったんです」

「お坊さん……僧形の者………」
泰明の眼が、鋭い光を帯びた。
「できるだけ詳しく話せ、神子」

その頃、暗い夜の小路を、人目を避けるように二人の家に向かう人影があった。
雨が、再び降り出している。



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2015.2.15 筆