いまひとたびの 19



「う……う…うううあああああああ!!!」
抑えた呻き声が、喉も裂けんばかりの叫び声へと変わっていく。
泰明が苦しみ、もがいている。

「直ちにここを離れるのじゃ!」
晴明が厳しい声でイノリと友雅に命じた。

高弟達が足早に参集してくる。
二人が庇から降りると同時に全ての扉が閉ざされ、
室内の様子を窺い知ることはできなくなった。

稀代の陰陽師安倍晴明が難儀するほど
泰明に生じた異変は深刻なようだ。

鈍色の空が、さらに暗く翳ってきた。
雨が、近い。

……さて、これからどうしたものか。
あの糸の切れ端の正体はもう分かったのだろうか。
友雅が考えを巡らしていると、
部屋の扉を睨みつけていたイノリが、突然くるっと踵を返した。

「泰明のことは晴明のおっちゃんに任せる!
ここは頼んだぜ、友雅。後で様子を知らせてくれ」
「おや、急にどこへ行こうというのだね」

「オレ、昨日東の市にいたんだ。
あかねと鷹通も一緒だった。そこで……」
「……っ! 道摩を見たと言うのだね」

「泰明が言ってただろ。あかねは東の市で道摩と出くわしたってさ。
間違いねえ。あの時のアヤしい坊主だ。
オレと鷹通に変な術をかけようとしやがった。
顔ならしっかり覚えてる。 絶対探し出してやるぜ!!」

息巻いているイノリに、友雅は静かな声で言った。
「気持ちは分かるが、少し落ち着きたまえ。
もしよければ、その時のことを話してもらえるかな。
泰明殿があの様子では、詳しい話はとても聞けそうにないからね」

「それは鷹通に聞いてくれ。
鷹通の方がキチンと話ができるだろうし……それに…
………あかねを守れなかったのは、泰明もオレも同じだ……」
イノリは肩をいからせ、拳を震わせている。

「止めても聞きそうにないね。決めたのなら行っておいで。
しかし道摩を探すといっても京は広いのだよ。
何か当てでもあるのかな」
「………そ、そんなもん、始めからあるわけねえだろ!
探し回ってるうちに見つけてやる!」

「では、まずは東の市にもう一度行ってみるというのはどうかな。
道摩がその場所にいたのには、何か理由があるのかもしれない」
「おっ、いい考えじゃん。さすがだぜ友雅!
最初の探索は東の市に決まりだ!」

「だがくれぐれも用心することだよ。
泰明殿をあのようにしてしまう輩なのだからね。
手がかりを掴んだなら、晴明殿か私に報せてもらえるかな」

「分かった。じゃあもう行くぜ!
ちょっとの間も無駄にはできねえ!!」

イノリは脇目もふらずに駆け出した。






土御門では、早朝の騒ぎなどなかったかのように、
常と変わらぬ様子で家の者達が働いている。

頼久もまた、いつものように屋敷を警護していた。
だが心がざわついてならない。

腰の剣が気になるのは事実だ。
晴明の呪を施された剣からは、
慣れ親しんだ重みとは別種の、強く波打つ力を感じる。
だがそれは、むしろ心地よい緊張感に近い。

――ではなぜこれほど落ち着かないのだろう……。

はっ……!
大事な務めの最中に考え事とは、私は何をしているのだ。

頼久は自分を強く戒め、任務に心を集中した。

「もう持ち場に戻っているのか」
左大臣は庭に頼久の姿を認めると独りごちた。
「心強いことよ、我が武士団は。特に頼久は……」

左大臣は昨夜からのことを思い返す。

夜戦で傷を負い、深夜に土御門に戻った頼久は、
それでもいつも通りに日の昇る前から鍛錬を行い、
異変に気づき、左大臣を守って鬼神と戦った。

だが頼久は、己が特別の働きをしたとは露ほどにも思っていない。
忠実に務めを果たしているだけだ。

だからこそ左大臣は頼久を信頼している。
くちなわを前にしても悠々と眠ることができたのもそれゆえだ。

「しかし、時には他の者と替わることも必要。
この儂がいちいち休めと命令しなければならぬとは、面倒なやつめ」
左大臣は小さく嘆息した。
頼久の疲れ知らずの体力が、少しうらやましい。

左大臣は声を上げて呼ばわった。
「誰かおらぬか」

「はい」
「はい」
左大臣に仕える男の声と、愛らしい女の子の声が同時に返事をした。

愛娘の声はすぐに分かる。
ここまで足を運ぶとは、何ごとであろうか。

「藤か!?」
「はい」
「どうしたのだ?」
「お願いしたいことがございます」
「入ってよいぞ」

左大臣の前に来るなり、藤姫は両手をついて懇願した。
「どうぞ、頼久をお貸し下さいませ。
神子様の家に、使いにやりとうございます」

……やはり龍神の神子のことか。
新しい着物でもねだってはくれぬものか。

無言の左大臣を、藤姫は真剣な面持ちで見上げた。
「今朝の怖ろしい出来事で不安になり、占いをしてみたのです……」
「……不吉の卦が出たのじゃな」
「はい」

左大臣の視野の端で、頼久が突然、弾かれたようにこちらを見た。
ここの声など届くはずがないのだが……。

左大臣はゆっくりと頷いた。
「では、頼久を使いに出すがよい」

「ありがとうございます、お父様!」
ぱっと顔を輝かせた藤姫に、左大臣は目を細める。
「藤の頼みとあらば、聞かぬわけにはゆくまい。
頼久にはもう一働きしてもらわねばな」

――そしてこの儂も、左大臣として知っておかねばならぬ。
内裏の怪しげな書状、そしてここ土御門に現れた鬼神。
さらには龍神の神子の近辺に不吉の影があるとは……。

事実を知らねば判断できぬ。
判断ができねば対処もできぬ。
内裏に上がらずとも、政は遅滞なく続けようぞ。





おおおおぉぉぉ……ん
庭の蟇蛙が奇妙な音を繰り返し発した。

その音に耳を傾けていた道摩の顔がみるみる歪んでいく。

吾が鬼神が斃された……と?
セイメイの仕業か。
いずれはあやつが出てくると思うたが、早過ぎる……。

おぉおぉおぉおぉぉ……
続けて別の蟇蛙が音を発した。

………左近衛府少将を仕損じた?

道摩はぎりりっと歯を鳴らす。

少将の骸は、吾が予言(かねごと)を 真たらしめるもの。
それが……破られたというのか。

乾の卦を持つ貴族に邪魔立てされた……?

――乾。
市にいたあの貴族か。

艮のヤスアキ、坎のエイセン、乾の貴族――。
既にして龍神の神子は、吾が企ての妨げであるか。

道摩はゆっくりと振り向いた。
視線の先には、真っ直ぐこちらを見ている龍神の神子がいる。

先ほどから背後にいるのは分かっていた。
だが後を取られたとて、か弱き娘に何ができよう。
掌に泰明から渡された護符を握りしめているが、
それもまた非力で弱々しい力しか持たぬ。

一見、どこにでもいる娘。
されど龍神の加護を受け、その声を聞く尊き存在だ。

ゆえに神子の周りには力が集い、吾が企てを阻むのか。

その時、おっっっぉぉぉんん……と
別の蟇蛙が鳴いた。

おっっっぉぉぉんん……おっっっぉぉぉんん……

単調に続く声が終わると、道摩はゆるゆると立ち上がった。

蟇蛙の声が伝えたのは
セイメイの術を解け、という右大臣の命令だった。

――アキミツ。愚かな謀に自ら嵌るとは。
内裏が混乱を極める今日こそが、
左大臣を押しのける好機であったというに。

「どこに行くんですか」

龍神の神子が問い、道摩は恭しく一礼した。
「この屋敷には無聊の慰めも無いが、
神子殿を守る式神共は置いてゆこう」

その言葉と同時に、朧な影がそこここに現れる。

「また誰かを傷つけようというの?」
「吾に助けを求める者がいるゆえ、出向く」

龍神の神子の強ばった顔が、ふっと緩んだ。
「……決めつけてごめなさい。
困っている人がいるんですね。
ならば、早く助けてあげないといけませんね」

道摩はそれ以上何も答えず歩を進め、
次の瞬間、神子の前からその姿を消した。

雨交じりの、暗い朝であった。





宮中からの使者は苛立っていた。

ここは高名な陰陽師、安倍晴明の屋敷。
一筋縄では行かないと覚悟して来たものの
屋敷に張り巡らされた不可思議な力に阻まれ、
恐ろしい形相の式神に睨まれ、
屋敷の者に会うまでに大変な思いをした。

それでも、晴明の弟子と覚しき者がやっと現れたので、
早速内裏よりの口上を述べた。

「即刻、安倍晴明殿に取り次がれよ。
宮中より命が下された。
追ってお召しの沙汰があるまで、安倍晴明殿は屋敷より出ることまかり成らぬ。
これは朝議の決定であり、当然、否やは許されぬ。
承服の旨、我が目の前で書状にしたためて提出するように。
言うまでもないが、妖しの術など使えば、極めて厳しい詮議を受けることとなる!
そのことは肝に銘じておくようにっ!!!」

しかし相手は恐れおののいてひれ伏すどころか、
「しばしお待ち下さい」
と、使者を一人残して立ち去ってしまったのだ。

しん……と静まりかえった屋敷には、人の気配というものがない。
だが恐ろしげな式神は、そこかしこにいるはずだ。
使者はぶるっと身震いした。

――立場はこちらが上。ここで待っていればよいのだ……。
だが……本当によいのか。相手は安倍晴明ぞ。
時間を与えれば妖しい術を用いるやもしれぬ。

怖れはやがて苛立ちへと変わった。

ええい、そもそも、宮中からの使いを待たせるとは何ごとか!
直ちに晴明を呼ぶのが当然ではないか。
しばし待てとは、無礼極まる!

苛立ちは容易く怒りへと変じ、使者はすっくと立ち上がった。
庇に下りて左右を見回すと、遠ざかっていく晴明の弟子の姿が見える。

「あやつの行く先に晴明がいる。逃さぬぞ!」
使者は、姿を見失わないよう、早足で弟子の後を追った。

幾度も回廊を曲がり、壁に空いた穴を潜り、
几帳を幾枚もかき分けて、真っ暗な広間に入った。
まるで悪夢の中を歩いているようだが、
弟子は足を緩めず、彼方に見える薄明かりに向かって歩いて行く。

おお、あれが出口か。
きっとあの向こうに晴明が……。
追跡に疲れてきた使者が、小さな希望を抱いて小走りになった時、
弟子が光を背に、振り返った。

「ここから先は、宮中の御使者といえどお通しできません。
お戻り下さい」

その時、弟子の後ろを見知った人物が通り過ぎた。

――あれは……まさか……いや、間違いない。
あのような遊び人は通しておきながら、宮廷の使者は通せぬと!?
怒りが一気に膨れ上がり、
弟子を力任せに押しのけて、使者は広間を飛び出した。

「橘少将殿!! 何故ここに!!」

その一声が、安倍屋敷の静寂を破った。
怨嗟と嫉妬の言霊に、
ぎりぎりと張り詰めていた力の均衡が、僅かに揺らぐ。

一瞬の間隙。

「泰明!!」
晴明の声より早く、つむじ風のような何かが
使者の傍らを掠めていった。
凄まじい風圧に巻き込まれ、使者の身体が宙に浮く。

そのまま地面に叩きつけられるところを、
誰かに腕を掴まれて、何とか体勢を直すことができた。

誰であるかは、顔を見なくても分かる。
侍従の香をたしなむ貴族は何人も知っているが、
なぜか橘少将の纏う香は、誰にも増して芳しい。

「今のは何だったのだ?
なぜ貴殿がここにいる?
左近衛府の勤めはどうした?」

だが矢継ぎ早な質問など耳に入らないかのように、
橘少将はつむじ風の通っていった先を見ていた。

「あれは……泰明殿だったのですか」
橘少将は問い、
「そうじゃ」
安倍晴明と覚しき老人が答えた。

「治療半ばで行ってしまった…ということですか」
「そうじゃ」

「どこへ……いや、これは尋ねるまでもありませんでした」
「そこが、問題なのじゃ」

「今の泰明殿の状態では、神子殿を救い出すのは難しいということですね」
「否。問題は泰明の心ぞ」

「心……。確かに、神子殿を眼の前で連れ去られ、
泰明殿は見るも痛々しいほど傷ついていますが……」

「深く想う心は諸刃の剣。
愛しき人を奪い去った者を許すことはない」

「泰明殿は、怒りに我を忘れている……と?」
「泰明は、『憎しみ』を知ってしまったのじゃ」



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頼久さん働きづめ。
ブラックな土御門であります。


2017.4.30 筆