いまひとたびの 7



暗い暁が訪れた。

浅い眠りから覚めた晴明は、自ら立って蔀を開け、
雨に濡れた冷たい庇に降りた。

一晩中降り続いた雨は止む気配もない。
庭の小径はとうに水没し、そこかしこの水溜まりが繋がって、
大きな池のようになっている。

昨日は大きな出来事が相次いだ一日であった。
播磨の弟子から、先の帝の寺に矢が打ち込まれたと報せがあり、
泰明が仁和寺の高僧に掛けられた呪詛を祓い、
道摩の存在があぶり出された。

それらを受け、昨夜、晴明は再度占いを試みたが、
結果は以前と変わらぬまま。

――南西の方角に凶兆あり――

集まった弟子達に子細を告げると、高弟の一人が言った。
――摂津の森は南西の方角であり、そこで仁和寺の高僧が呪詛を受けた。
また、先帝のおわす寺も近い方角にある。
これこそが占いの示した凶兆であろう。

それに反論する者もいた。
――凶兆はまだ消えていない。
なにがしかの障りが、どこかにあるのだ。

疑問を呈する者もいた。
――そもそも災いの源が一人の人間であるなら、
占いの結果はこれほどに漠然としたものではなく、
違う形で顕れるのではないだろうか。

しかし、道摩を知る者達は、一様に難しい顔をして黙していた。
彼らにとっては、道摩を知らぬ者の言葉が浅慮ゆえのことと思われてならないのだ。
道摩が去って五年。当時の状況を知る高弟は安倍家の中に多くはない。

ただし、京を追われた罪人が戻ってきたとあれば由々しき事態。
その点では、全員が一致している。

道摩を探し出すべく、安倍の陰陽師達はすぐに動き出した。
泰明だけが最後まで残り、書状の件を内密に話し合ったのだが……。

雨音の向こうから、刻を告げる鐘が聞こえてきた。
晴明は部屋に戻ろうと踵を返す。
その瞬間、異変は起きた。

うぉぉおぉぉぉんぉぉんおぉ……
鐘の音が歪み、耳を圧する。
その歪みを生じさせているのは……

「小賢しい真似を!」
晴明の手から一直線に呪符が飛んだ。

と、前栽の陰で小さな水音がして、
呪符に絡め取られた蟇蛙が空中に引きずり出された。

鐘の音がぴたりと止み、
蟇蛙のぬらりとした目が、晴明を凝視している。

結界を破り、我が庭にまで式神を送り込むとは……。

蟇蛙は、晴明を見据えたまま、人間のように目を細めた。

「滅…」
晴明が短く唱えると、蟇蛙は目を細めたまま跡形もなく消える。

呪詛ではなく、式神を仕掛けてきたか。

蟇蛙のいた一画をしばし睨んでいた晴明は、
薄明るくなった空に眼を移した。

――この雨空の下に、あやつが息を潜めている。
何故に戻ってきた、道摩。





「永泉も呪詛に倒れていたかもしれない……というのか」
清涼殿の御座所で友雅からの報告を聞くと、帝は膝に置いた拳を震わせた。

が、心の内を垣間見せたのは一瞬のこと。
すぐに兄から帝の顔へと戻り、友雅にねぎらいの言葉をかける。
「僅か一日でよくぞここまで調べた。心強く思うぞ、友雅」
しかしその顔には隠しようのない憔悴の色がある。

――これほどにご心労が重なっては、無理もない……。
畏まって頭を垂れながらも、友雅は帝の様子が気がかりだ。

もう夜の帳が落ちている。
内裏では早朝から慌ただしい動きがあり、
友雅がいつものように帝の御前に上がるのは不可能であった。
この間、帝がどれほどに多忙であったかは想像に難くない。

内裏が騒然とした理由は、播磨から事件の報せが届いたためだ。
先の帝が住まう寺に矢が打ち込まれた…という、晴明が入手したのと同じ内容だが、
この事件の影響は大きい。

幸い、先帝は無事とのことで、そこまではよい。
しかしこの件では内裏の誰もが、
弘徽殿の女御・定子の過去を思い出さぬわけにはいかないのだ。
それというのも、かつて彼女の兄弟は、
先帝に矢を射かけるという暴挙に及んだことがあるからだ。

その事件の後、定子は内裏を下がって落飾したが、
帝は、一年ほどで彼女を再び入内させたのだった。
これが異例の措置だったことは言うまでもない。
となれば、今回の事件に定子の兄弟がまたもや関わっていたなら、
帝、定子共に、苦しい立場に置かれることは間違いない。

まだ何の調べも行われていないというのに、
すでに、様々な噂があちこちで囁かれ始めている。
友雅も朝から何度も袖を引かれては、まことしやかな言葉を聞かされていた。
英明な帝が、そのような内裏の状況に気づかぬはずもない。

また、仁和寺の僧が呪詛されたことも大きな事件だ。
既に祓えが行われ、僧も本復に向かっているとはいえ、呪詛は重罪。
まして先帝の血筋に連なる高僧が倒れたとなればなおさらのこと。

そして謎の書状の存在がある。
内容の真偽は不明だが、永泉に関わる事柄もあるだけに、
さぞや、心に重くのしかかっていることだろう。

――書状を内密に、との主上のご判断は正しかった。
公にしていたなら、此度の事件と相まって、大変な混乱を招いていたところだ。

「この件は引き続き調べて、近々またご報告に上がります。
それでは、これにて御前を…」
帝の疲れた様子に、友雅は早々に退出しようとした。

しかし帝は、僅かに手を上げて友雅を制する。
そして、傍らの筺から折り畳まれた料紙を取り出した。

新たな書状のようだ。
またもや、帝の周囲の人々に対する讒言の言葉が書かれているのだろう。
覚悟して紙を開いた友雅だが、その内容に言葉を失った。

――弘徽殿の女御、先の帝を深く恨みて謀を為す

太く黒々とした文字は、昨日何度も見返したそれと同じ。
書き手の気の痕跡は残されていないと泰明は言っていたが、
この書状は……悪意そのものだ。

しかし友雅が顔を上げると、帝はその顔に力強い笑みを刷き、
きっぱりと言ったのだった。
「余は、揺らがぬ」
低く抑えてはいるが、毅然たる声だ。

「これを書いた者が誰であれ、
己の正体を隠し、他人の墨跡を模して告発するとは、卑劣極まる。
余が懐疑の念を抱けば、相手の策に嵌ったも同然」
「主上……」
我知らず真顔になり、友雅は頭を垂れる。

「顔を上げよ。そのように畏まるとは、友雅らしくもないぞ。
余のことは案ずるな」
「はい」
無理なことを仰る……友雅は心の内で思う。

「余は定子を信じ、永泉を信じている。そして……」
帝は言葉を切り、静かに言った。

「万が一の事あらば、永泉を守ってやってほしい」





「藤よ、何かよいことがあったのか」
いつもより遅く土御門に戻った左大臣は、藤姫と話している。

難しい問題の山積している朝廷で、
朝から次々と政務をこなしてきた左大臣にとって、
愛娘の笑顔ほどに心安らぐものはない。

「神子様から文が届いたのです。
昨日、お父様から頂いた唐菓子を差し上げましたら、
とても美味しかったと……」
藤姫は大事そうに、あかねからの文を取り出した。

「そうか、昨日頼久が出かけたのは、
藤の使いで神子殿の所に行っていたのか」
「はい。神子様の家にはちょうど鷹通殿やイノリ殿もいらしていて……」
藤姫は、にこにこしながら話を続ける。

――龍神の神子からの文がそれほど嬉しいのか。
何とも幸せそうな笑顔をしている。
母親によく似た、陽の光のように明るい笑顔だ。

今日も空は雨雲に覆われ、太陽の光は望むべくもないが……。

「お父様……? お疲れなのでしょうか」

物思いに囚われていた左大臣は、藤姫の言葉に我に返った。

「おお、すまぬ、藤。雨音が耳についてしまってな」
「早く雨が上がるとよいのですが……」
藤姫は、雨に閉ざされた夜の庭を振り向いた。

「貴船社への祈願が天に通じれば、きっと雨も晴れよう」
左大臣は、やさしく言った。
「ああ、そうですわね。
雨が晴れたなら、神子様をまた館にお招きしてもいいでしょうか」
「その折には、歓迎の宴を用意させよう」

晴天を祈願し貴船社に白馬を奉納する儀式を、
今回は左大臣が取り仕切っている。
これまでは右大臣が役目を頑として譲ろうとしなかったのだが、
奉納の日が方忌みに当たるからと、あっさり身を引いたのだ。

「私も、早く空が晴れるようにお祈りいたしますわ」
無邪気に顔を輝かせている藤姫に、慈しみの笑顔を向けながらも、
左大臣は、右大臣へのかすかな疑念をぬぐい去ることができない。



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2014.06.15 筆