いまひとたびの 11



今日の右大臣は機嫌がよい。

堀川第に戻ってきたのは、日も暮れかかった頃。
右大臣にしてはかなり遅い帰宅だった。
朝廷で何か重大事が起きたのでは、と思われるが、
右大臣の頬は緩んだままだ。

館に仕える者達は首を傾げながらも、
今日ばかりは主から八つ当たりされることもない、と
ほっと胸をなで下ろしている。

右大臣はなみなみと注がれた酒杯を手に満足の吐息を漏らし、
いやいや、まだ始まったばかりなのだと己に言い聞かせた。
それでも左大臣の渋面を思い出せば、自然と口元がほころぶ。

――些細な褒美であそこまでやってのけるとは、奴も心を入れ替えたとみえる。
どのような妖しの術を使ったのか分からぬが、
生き物の黒白を入れ替えるとは、なかなかの腕前よ。

喉を鳴らして杯を干すと、側に控えた女房の一人が再び杯を満たす。

右大臣はこれまで、宮中での階位も、娘の入内も、帝の外戚となることも、
藤原一族の中での権威ある立場も、常に左大臣の後塵を拝してきた。
だが、今度こそは………。

右大臣は太い指で丸い顎を撫でながら思いを巡らせた。

――道摩めが、五年前に首尾よくやっていたなら、
このような日がもっと早く来たであろうに。
奴が呪詛の咎で捕らえられた時には、さすがに肝を冷やしたわ。
死罪でもおかしくないところを、遠流どころか追放ですませるために
裏で手を回すのは大変な苦労だった。

ふん、それを思えば此度のことなど、埋め合わせにもならぬな。
奴にはもう一働きさせねば。
一度の功だけでつけあがられても面倒だ。

手の中の杯はすぐに空になり、素早く次が注がれる。

――やり手の左大臣が、このまま何もしないとは考えられぬ。
ふむ……奴にも道長の動きを封じる手を打つように命じておこう。

自分が道摩に「命じた」と信じて疑わない堀川第の主は、
その夜、上機嫌でしたたかに酔った。





「絶好の機会を逃したか……」

安倍晴明は、泰明の式神が届けてきた文を読み終えると、
雨に閉ざされた夜の庭を見やった。

泰明からの式神の使いは本日二度目だ。

一度目に小鳥の形の式神が伝えてきたのは、
――神子が怪我をした。摂津の森での調査報告は明日する――
という短いもので、晴明は苦笑しただけであった。

だが二度目のこれは、泰明自身が書いた文。
そして、そこには晴明も予期していなかったことが書かれていた。

――神子が道摩と覚しき者と市で遭遇した。
イノリと鷹通が術を受けたようだが、神子がそれを祓った。
………云々――

「市か……。考えておくべきであった。
あやつめは、また見ていたのだ………」
晴明の胸に、昔日の苦い思い出がよみがえる。


  数十年も前、まだ晴明と道摩が師匠である賀茂保憲の元で
  陰陽道を学んでいた頃のことだ。

  師匠から与えられた調伏の務めを抜け出し、
  道摩は何をするでもなく、市の道端に立っていた。
  
  「こんな所にいたのか! 早く調伏に戻ろう」

  探しに来た晴明が声をかけても返事をせず、
  道摩は道の反対側にある古びた木の祠を指さした。

  「晴明、お前にはあれが見えよう」

  指さす方に眼を転じると、そこには姿の消えかけた小さな神が座しており、
  祠の陰からは膝丈ほどの小鬼共が、こちらの様子を窺っている。

  道摩は無言で石を拾い、祠に手向けられた花に向かって投げた。
  萎れかけていた花はあっけなく飛び散り、小さな神はさらに小さくなる。

  「何をする!」
  晴明が声を荒げた時、腰の曲がった老婆が祠の前に屈んだ。

  地面に落ちた花を片付け、手にした野花を手向けて手を合わせる。
  と、小さな神はちょん、と跳ねて老婆に乗り、すりすりとその腰をさすった。
  蛍よりも微かな光が老婆に宿り、消える。

  ううん、と一度腰を伸ばすと、来た時よりも少し軽い足取りで老婆は立ち去った。
  小さな神の大きさが、少しだけ戻っている。

  しかし道摩の口の端に浮かんだのは、薄ら寒い笑みであった。
  「弱々しき土地神だ。
  石を投げた吾に祟ることもできず
  己を拝する者には取るに足らぬ祝福しか与えられぬ」

  「お前は間違っている!!」

  道摩が身をかわすより早く、
  晴明はその背に呪符を思い切り叩きつけた。
  縛された道摩の身体が石のように固くなる。

  「二度と神を穢すな! 次は縛するだけではすまさぬぞ!」
  固まった道摩を引きずりながら、晴明はずんずんと歩き出した。

  「どこへ行く」
  「式部卿の屋敷に怨霊の調伏に行く」
  「何故に行く」
  「お師匠様から聞いたはずだ。
  女房が三人も怨霊に取り殺された上、姫君の身も危ういと」
  「師は怨霊に祟られたのは式部卿であるとも言った。
  式部卿自身が始末をつければいい」
  「怨霊と戦えるのは陰陽師だけだ」
  「陰陽師は官職の名にすぎぬ」
  「陰陽の力は名ではない! 闇と対峙する覚悟だ!」

  「………晴明は彼の方に与するか」

――今にして思えば、あれはあやつめの決別の言葉であったのかもしれぬ。

生まれ落ちてよりずっと、晴明の観る世界は
人と人ならぬものとが共に在る世界であった。
長ずるにつれ、己と他者との違いを知り、
己の異能を他者に知られ、孤独を知った。
それは道摩もまた同じ。

だがそれでも、互いの間に相通じるものは生じなかった。

「かのほう」とは、道摩から遠き彼方。
眼に映る世界は同じでも二人の違いは埋められぬと、道摩は言ったのだ。

――あの時なら、できたのであろうか。
あやつめを邪悪の道から引き戻すことが………。

歳月を経た今も、昔日の思い出は生々しく胸を噛む。





右大臣の浮ついた気分とは逆に、内裏は重苦しい雰囲気に包まれている。
貴船社での不吉な出来事は、公にされる前に広まってしまったのだ。

先帝の事件にきびすを接するように、怖ろしいことがまたしても起きるとは、
さらなる凶事の先触れか。
人々の尊崇を集める今上帝が、天子たる資格を失ったのではないか……?

漠然とした恐怖が、人々の間にじわりじわりと染み入っていく。

そんな中、友雅はしれっとした顔で帝への目通りを願い出た。
常と変わらぬことが、目立たぬための最良のやり方だ。

「つまりは、書状も呪詛も道摩という者の仕業。
今、安倍晴明殿の弟子が、総力を挙げてその行方を追っているとのこと。
彼らの力を以てすれば、足取りを掴むのも間近いことかと」
友雅は帝に向かい、晴明の話を全て伝えた。

「そうか……」
黙って友雅の話に耳を傾けていた帝は、短く頷き、
吐息と共にもう一度、「………そうか」と呟いた。

低く抑えた声だ。
どのような時にも、帝は感情を露わにすることはない。
だがそこにある静かな安堵の色を、友雅は聞き逃しはしなかった。

「友雅、余の決断は……誤ってはいなかったのだな」

決断とはもちろん、件の書状を秘匿したことだ。
その結果が、今の混乱した状況だ。

しかし一方、もしも帝が書状の詮議を公に行っていたならば、
まずは内裏に疑心暗鬼と不和の種がまかれ、
さらに二つの事件が相次いで起きたことで、
書状は単なる讒言ではなく真実であると思い込む者が
内裏の多数を占めることになっただろう。

恐怖と疑念が人々の心を覆えば、真が見えなくなる。
書状を公にしないことで、帝はより悪しき状況を回避したのだ。

しかし、自身に代わって決断を下せる者はいないゆえに、
正しい判断であったのか否か――
その思いはこれまで帝の心を責め苛んできたのだ。

帝の限りない孤独を思い、友雅は深々と頭を垂れた。
――ともあれ、御心を安んじて頂けた。 これ以上、帝の休息を妨げてはいけない。

「御言葉の通りにございます。私の報告は以上にて……」

しかし、帝は友雅の言葉を止めた。
「余を気遣って話を切り上げるには及ばぬ。
友雅にも…分かっているはずだ。
呪詛と書状の主が知れたところで、まだ何も解決しては……いない」

帝の声にいつもの強さはなく、むしろ痛々しいほどにか細い。
だが友雅の報告が暗闇に光を灯し、帝に力を与えた。
暗澹とした気持ちで朝議の場に臨んでいた時とは、もう違う。

「友雅、今こそ真を……見極めるのだ。
道摩なる者の追補は、検非違使にも命じておこう。
だがその者が容易く捕らえられるとは考えられぬ。
また捕縛されたとして……全てを話すだろうか。
友雅の考えを聞かせよ」

――主上のお気持ちは揺るぎないのだ。
胸にこみ上げた熱いものをぐっと飲み込み、友雅は居住まいを正した。

「畏まりました。
まずは先帝と貴船社の件に道摩が関わっていた証を
見つけることが重要と存じます。
証があれば、例の書状を讒言の書として公にすることができ、
内裏の動揺も収まっていくことと思います」

「貴船には右大臣から調査の者が遣わされているはずだが……
その者が陰陽の道に長けているかは分からぬ。
友雅、もう一度安倍家に足労を頼む」
「御意」

「次だ。
何故に、他ならぬ稀代の陰陽師の墨跡を……真似たのだ。
早晩、書き手を突き止められることは明らかで……あろうに」

「晴明殿ははっきりとは口にされませんでしたが、
賀茂保憲殿の元で修行していた頃から、二人の間には確執があった様子。
京を追放される時にも、二人は戦ったとのことでした。
晴明殿と比肩する陰陽の力を持つとはいえ、道摩も人。
晴明殿に対しては思うところがあるのではないかと」

「余を使って、旧敵への挑発をしたというのか」
「畏れながら。
しかしもう一つ、考えられることがございます」
「始めから……正体を隠す心積もりがないのかもしれぬ…か?」
「はい」
「捕まることはないと高をくくっているか……あるいは」
「しばしの間、目を引きつけておければ、それでよしと考えたか」

帝は深く息を吐くと、眼を閉じた。
いつもは真っ直ぐな背が、少しずつ前に傾いていく。
「すまぬ、友雅。余は……疲れて…いるようだ」

「主上! 即刻お休み下さい!」
「友雅……後は……分かっているな。
余の…近辺を……調べよ……」

「御意!!」
答えると同時に友雅は立ち上がっていた。
「主上がお休みになる!! 支度を!!」


側近の者達と入れ替わりに、友雅は部屋を追い出された。

雨音に包まれた暗い渡廊を歩きながら、友雅は拳を握りしめている。

陰陽師ではない自分にも一つだけ、確かに分かることがある。
あの書状は、呪詛だ。
陰陽道で言う呪詛とは違う。
書き手の気が残っていようといまいと関係ない。

あれは、人の心を追い詰め蝕む、悪意という呪詛なのだ。





泥の中に、ぬらりとした目の蟇蛙が這いつくばっていた。
小さな庭の、植え込みの下。
微動だにしない蟇蛙は、石と化している。

と、その目が、若い僧の姿を捉えた。
僧は辺りを気にしながらこっそりと門をくぐり、庭に入ってきたところだ。

蟇蛙の目だけが動き、僧を追う。

若い僧は、ためらいがちに家の中に向かって声をかけようとした。
その時、この家の主が出てきた。

男二人、女一人の声が庭に流れ出る。
「神子はそこにいろ。
永泉、何の用だ」
「あ…あの……それが……」
「永泉さん、いらっしゃい」
「神子は出なくていい」
「あ! びしょ濡れじゃないですか。
早く上がって下さい。
このままでは風邪を引いてしまいます」
「す……すみません、神子」
「すまぬ? その通りだ」
「すっ、すみません、泰明殿」
「泰明さん、乾いた布を出してもらえますか?」
「分かった」
「さ、どうぞ、永泉さん」
「は…はい。ありがとうございます。
お邪魔します、泰明殿」
「その通りだ」


雨の底、蟇蛙は動かない。



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メインキャラの登場がC・Dパートのみと、少なくてすみません。
前回も書きましたが、左右大臣、安倍晴明、敵ボスは、話の都合上この先も出番が多いです。
メインキャラ以外が苦手な方はご注意下さい。


2015.5.3 筆