いまひとたびの 16



友雅の全身が糸に覆われていく。

糸は友雅の外側に、内裏を行き交う貴族の形を巧みに紡ぎ出していた。
たとえ誰かが通りかかっても、
人の中に人が囚われていると思う者はいないだろう。

動きを奪われた友雅に、外界の音は聞こえず、
耳の中でざあざあと大きな音が鳴るばかりだ。

まだ眼の周囲だけは糸が薄く、そこからかろうじて見えるのは、
宙に浮かんだ人の頭ほどの糸の塊。
先ほどまで貴族の姿で友雅と対峙していた異形のものだ。

自らの身を解き友雅に巻き付いているため、人の形は崩れたが、
それは今もなおするすると解けて、友雅の顔を覆いつつある。
塊は残りあと僅かだ。

――本体はどちらにあるのだろう。
私を縛している方か、残り少ないあちらの方か……。
いや、元々本体などというものは、ないのかもしれない。

全身を締め付ける糸の力が次第に強まり、
意識が遠のきそうになる中、思考だけは醒めている。

その時、ぎりぎりぎり…と糸が動き、
友雅の腕が操られて上に曲がった。

「く……うっ……」
不自然な方向に捻られた痛みに、思わずうめき声を漏らす。
そして、痛みと同時に視界に入ってきたものは、自身の剣。
友雅の手は剣を握ったまま糸に絡め取られていたのだ。

ぎしぎしとぎこちなく友雅の腕は動かされ、
自らに剣を突き立てる場所を探っていく。

糸に閉ざされて唇はほとんど使えないが、
食いしばった歯の間から友雅は声を振り絞った。
「止めて……おきたまえ。
君の大切な身体を……切ってしまうよ」

と、友雅を覆った糸が激しく震えた。

震えは声となって友雅をびりびりと締め付ける。
「ワがミヲ キるホド オろカ デハナイ
むクろニ ナルのは トモマサ」

友雅の顎にかかった糸が、ぐいっと上下に分かれた。
顔は仰向けになり、喉元が露わになる。

薄い糸の間から、鈍色の空が見える。
天から落ちてきた雨の滴が、ほとほとと当たっては顔に冷たく滲む。

捻られた腕が、軋むように角度を変えていく。
全力で抗っても腕は動き続け、
剣の切っ先が喉元に向かっているのが分かる。
糸がびりびりと嗤っている。

その時、ざあざあという耳鳴りの向こうで、
声がした……と思った。

「…もまさどの!!」

刹那、腕の動きが止まり、
絡みついた剣が、手から叩き落とされた。

糸が逡巡するかのように僅かに緩む。
「ミツかッタ ニゲる ?」

「友雅殿!!」

「チがう むクろ コろがす」
糸がさらなる力で友雅の全身を絞る。

しかし次の瞬間、びんっっっ!! と振動が走り、
友雅を縛していた糸がばらりと落ちた。
雨気に満ちた大気が、解放された喉に一気に流れ込み、
友雅は激しく咳き込む。

「友雅殿!! ご無事ですか!?」
「た…か…みち……感謝するよ」

「待てっ!!」
友雅が顔を上げると、鷹通が小太刀を構えて周囲を見回していた。
だが異形のものは姿も気配も無い。
二人が互いを案じた一瞬の隙に逃げたようだ。

友雅は、ふっと肩の力を抜いた。
鷹通は友雅に向き直ると、小太刀を収める。

「友雅殿、今のはいったい……」
「それが、私にも分からないのだよ。
怪しい気配を感じて正体を突き止めようと追いかけたら
このようになってしまってね。
怨霊の類なのかもしれないが、
鷹通が来てくれて本当に助かったよ」

「そうですか………。
珍しく友雅殿が急ぎ足だったのはそのためだったのですね」
「鷹通は、私を見かけて追ってきてくれたのかい」
「ええ、途中で友雅殿を見失いましたが、
どうしても探し出さなければ、と思い……。
なぜか分かりませんが、ひどく胸騒ぎがしましたので」
「胸騒ぎか……」

――助けてくれた鷹通には悪いが、
これ以上深入りしない内に話題を変えた方がよさそうだ。
友雅は、剣を拾い上げて鞘に収め、艶やかに微笑んだ。
「私のために治部省の仕事を中断させてしまったようだね。
真面目な鷹通の評判を落とすことになったら申し訳ない。
今日のお礼は必ずさせてもらうから、
鷹通は急いで仕事に戻るといい」

と、鷹通は驚いたように言った。
「では、友雅殿は内裏の騒ぎをご存じないのですか?」

友雅の背にひやりと寒いものが走る。
まさか………?

それでも、口調も表情もいつもの通りに、
友雅は眉を上げて問い返した。
「おや、騒ぎとは穏やかではないね。
慌ただしい気配はしていたが、大事でも起きたというのかな?
ずっとあの化け物を追っていたので何も知らないのだよ」

「内裏のそこかしこで、不穏な書状が見つかったのです」
「……書状……? どのようなことが書かれていたのだろうね」
「私も伝え聞きなので詳しくは分かりませんが、
よからぬたくらみに手を染めている者が、内裏に多数いるとか。
しかもそれが名指しで書かれているそうで」
「っ!!」

今はもう、朝議が始まっている刻限だろう。
ならば主上は………。

「……それで鷹通は、様子を見に来たのだね」
「はい。今は噂ばかりで、治部省の皆は仕事に手が着かないありさま。
そこで、内裏に行って確かな話を聞いてくるようにと、
上の者から命じられたのです」
「ははっ、情報集めというわけか。鷹通ならば適任だ」

「ですので友雅殿」
「ああ、引き留めて悪かったね。
そういうことなら私も左近衛府に戻らなければ」
「書状には何が書かれているのか、教えて頂けませんか」

聡明怜悧な鷹通の眼が、友雅を真っ直ぐに見据えている。

「何を言い出すのだね、鷹通」
「以前からご存知だったようにお見受けしましたので」
「優秀な鷹通らしくもない、見当違いだよ」
「私とのやり取りに、一呼吸に満たない遅れがあることに
まだお気づきではありませんか。
失礼ながら、話をそらすのがお上手な友雅殿らしくありません」

やれやれ、熱い若者には遠慮というものがない。
友雅はため息を吐いた。

「知らないままでよいこともあるのだよ」
「一度内裏の人々の目に触れたなら、いずれは皆の知るところとなります。
となれば、私の耳に入るのが早いか遅いかの違いだけではないでしょうか」

「鷹通がこれほどに内裏の噂を知りたがるとは意外だね」
「噂ですむことではないと思いますが」
「鷹通が言うように、いずれはみんなが知ることになるのだよ。
気の早い治部省のお歴々には、今の時点で分かっていること伝えればいい」

「つまり友雅殿は、それ以上のことを知っているのですね」
「私をかいかぶりすぎだよ、鷹通」

以前は、のらりくらりと話をそらすのも容易だったのだが……。
頭脳明晰で勘が鋭い鷹通は、いつの間にやら
友雅にきっちりと食らいつく能力を身につけていたようだ。

友雅は身仕舞いを調えると、鷹通に背を向けた。
「ここでこうしていても始まらないよ、鷹通。
お互い、自分の勤めに戻ろう」

と、友雅の手に、鷹通がいきなり何かを押し込んだ。
見れば、細い糸の切れ端だ。
「鷹通、これは……あの化け物の」
「はい。友雅殿の剣を払った時、咄嗟に切り取ったものです」

ちり…ちり……と糸は微かに動いている。

鷹通は友雅の背に向かい、声を潜めた。
「申し訳ありませんでした。
友雅殿がどなたの為に動いていらっしゃるか、
背を向けられるまで気づかなかったとは、
自分の不明を恥じるばかりです」

それだけ言うと、鷹通は急ぎ足で立ち去った。

そして友雅も、糸を握りしめて内裏を走り出る。
朝議は気になる。
内裏の様子も気になる。
主上にこの経緯を報告しなければならない。
だが今は―――。

馬上の人となった友雅は、一条戻り橋の安倍屋敷へとひた走った。





「はあああああっ!!」
気合いの声と共に、頼久の剣が一閃した。

立ち上がった黒い波が真っ二つに割れ、
波しぶきが空中高く飛散する。

「とおっ!!」
足を絡め取るように押し寄せた波に
寸刻の遅れもなく二の太刀を浴びせると、
剣の切っ先が、何かにがちりと触れた。

「む……ぐっ…!!」
頼久が剣を引こうとすると、逆に引きずり込まれそうになる。
黒い水の底で、二つの赤い目が光る。
くちなわが頼久の剣をくわえているのだ。

「今ぞ!!」
晴明の合図と同時に弟子達が動いた。
黒い水の上に光が走り、大きな桔梗印が描かれる。

続いて晴明自身が、つい…と前に進み出た。
そして宙に描かれた桔梗印の上に乗ると、こともなげに歩き出す。

「おおお………」
土御門の者達は、呆けたように見守るばかりだ。

晴明は桔梗印の中央、左大臣の御帳台の前まで行くと、
「お目覚めか、左大臣殿」と声をかけ、するりと中へ入った。

「おお、晴明殿か。ちょうど頼久の声で起きたところじゃ」
「この場所をお借りしたいのだが、よろしいか」
「無論。ここは全てお任せしましたぞ」

晴明は頷くと静かに目を閉じ、左大臣との会話とはうって変わって、
深く厳しい声で呪を唱え始めた。

桔梗印が力を増し、黒い水面に向かってゆっくりと降りていく。

晴明はかっと眼を見開いた。
「偽りの影は失せよ!」

その時、桔梗印が水に触れた。
水面は波立つこともなく、見えぬ力で圧されたように下がる。

「何と……!?」
「水が……どんどん減っていくぞ」
「水面はどこまで下がるのだ」
屋敷の者達は驚きの声を上げながらも、
固唾を呑んで成り行きを見守っている。

晴明は、視線を頼久に向けた。
「さて、仕上げじゃ。もうよいぞ、頼久」

「御意!!」
その時まで剣をくちなわにくわえられたまま、
黙して対峙していた頼久が、一気に動いた。

力の限り剣を引くと、浅くなった水底から巨大なくちなわが宙に躍り出る。
一瞬、剣を噛んだ牙の力が僅かに緩んだ。
その時を逃さず、頼久は剣を引き抜くと一気に振り下ろした。
くちなわの頭が、ばっくりと左右に分かれ、
そこに過たず、弟子達の投じた呪符が、短剣の如く突き刺さる。

赤黒い光が明滅し、くちなわの身体が暴れながら瘴気を噴き出した。
桔梗印が、おぞましい光に抗するように燃え上がる。

「偽りの…影……」
頼久は剣を構えたまま、くちなわから部屋へ、そして水面へと
視線を移動させながら、小さく呟いた。
――ここではない……どこだ。
かすかな殺気が……息を潜めている。

「ひいいっ!!」
屋敷の者達は腰を抜かし、尻餅をついたまま後ずさっていく。

と、頼久はいきなり桔梗印に背を向け、庭に飛び降りた。
明滅する光と人々の悲鳴が交錯する中、心を静める。

そして――
「そこだ!!」
頼久は剣を地面に深々と突き立てた。

その瞬間、御帳台の周囲から水もくちなわも消えた。

「おおおおっ!!」
「消えた……!!」
「さ……左大臣様!!」

屋敷の人々が御帳台に駆け寄る中、晴明が庭へと降りてきた。
頼久と晴明を、弟子達が囲む。

「おお、確かにここだ」
「陰陽の心得無きまま、よう気づいた」
弟子達は口々に頼久を讃えると、周囲に素早く結界を張った。

「見せてみよ、頼久」
「畏まりました」

頼久が剣を抜くと、細いくちなわが土中から現れた。
赤い目の間を、剣が貫いている。
結界の中でそれは小さく縮んでいき、ぷすりと消えた。

「怨霊ではないな」
「式神か」
「弱々しい見かけだが、札より作られたものではなさそうだ」
「お師匠様は如何に思われますか」

「どこぞの古き沼の主であろう。
幻術を操り、瘴気を吐き、
危うくなれば身を隠す賢さも持ち合わせている。
見かけによらぬ、強き鬼神じゃ」

「そのような鬼神が左大臣様の屋敷に入り込むとは考えにくいな」
「とすれば、誰かが送り込んだのか」
「だが、これを自在に操るのは難儀なことだぞ」

「うむ、その通りじゃ。
こちらの力が圧倒的に強くなければ、逆に取って食われる」
「それほどの力の持ち主が……!」
「………!」
「………!」

弟子達の間に緊張が走ったのが頼久には分かった。
昨日の奇妙な使いといい、やはり何かがあるのだ。

考え込んでしまった頼久に、晴明が声をかけた。
「頼久よ、我が言の葉の意を違えず理解したこと、見事であった」

はっと我に返り、頼久は頭を下げた。
「畏れ入ります。
恥ずかしながらこの頼久、偽りの影というお言葉がなければ、
暴れるくちなわばかりに気を取られていたことと存じます」

その時、屋敷の者がやって来た。
「晴明殿、左大臣様が折り入って話があるとのことでございます」

「直ちに」
そう答えた後、口の中で呪を唱えながら
晴明は指先で宙に何かを描いた。
それは小さな白い光の球となってふわりと浮き上がり、消えた。

「頼久、昨日に続いて此度の働きぶり、見事であった。
晴明からの褒美を受け取るがよい。
だが、使わぬままですむのなら、それが上々」

それだけ言うと、晴明は弟子達と共に行ってしまった。

「褒美?」
頼久は怪訝な面持ちで頭を下げ、晴明を見送った。
晴明はいったい何をくれたのだろう。
だがそもそも、自分は務めを果たしただけで、
褒美など受ける謂われはないのだが……。

その時、ふと何かを感じて頼久は剣を抜き、
驚きのあまりしばしその場に固まってしまった。

刃が透き通った光に包まれている。
目を凝らせば光の底に、護符の文字によく似た文様が透けて見える。

――晴明殿はたわむれにこのようなことはなさらない。
ならば、これから先、不可思議な力が必要になるかもしれないと、
お考えになっているのか。


しばしの後、左大臣と晴明は人払いをし、声を潜めて話していた。

「晴明殿の箱が奪われましたぞ」
「ほう、それはそれは。
奪った者はさぞや後悔していることでありましょうな」
「どのような趣向を施されたのか」
「箱を開けた者の顔に印が付きまする」
「印…とな」
「朱色の丸が、頬に、これこのように」

晴明が指で丸を作り、頬に当ててみせると、
左大臣はぐっと息を詰めて笑いをこらえた。

「身分ある方ならば、しばらく人前には出られぬやもしれませぬ」
「そういえば、今朝方内裏に使わした者が帰ってきたのだが、
その者が言うには、右大臣が急の病でしばらく内裏に出られぬそうな」
左大臣がわずかに眉を上げてみせると、晴明は小さく頷いた。
箱を奪うよう命じたのは、右大臣と見て間違いないようだ。

しかし、左大臣の次の一言に、晴明は言葉を失った。
「だが、誰も右大臣のことなど気にかけてはおらぬ。
内裏は今、怪しげな書状とやらの話でもちきりじゃ」

思い出したように雨がぽつぽつと降り出し、
すぐに雨脚は激しくなった。
人払いをした部屋は薄暗く、雨の音ばかりが響いている。





つるっと足元が滑り、「うわっ……ととと…っと…」と
両手を振り回して、イノリは体勢を立て直した。

「へっ、こんなぬかるみくらいでこのイノリ様が転ぶかよ」
得意げに鼻の下をこすったイノリだが、
「っといけねえ、今はそれどころじゃないんだ」
すぐに真顔になって周りを見回した。

イノリは、泰明の庭にいる。
外から呼んでも答えがなく、扉は頑として開かなかったため、
塀を乗り越えて、庭に飛び降りてきたのだった。

もちろん、泰明の家に来ても応答が無い時はある。
扉が開かないのは、泰明が術をかけているので、いつものことだ。

だが朝早いとはいえ、静かすぎる。
ひりひりとした胸騒ぎに急き立てられ、イノリは塀を越えてきた。

「あかねーーー!! 泰明ーーー!!!」

辺りは物音一つしない。

「いるかいないか、返事しろーーー!!」

返事はない。

「気に入らねえ……。だって、これっておかしいじゃん」
イノリはカリッと親指の爪をかんだ。
「泰明の術が効いてるなら、
こんなに簡単に庭に入るなんてできないはずだ……」

その時、誰かに呼ばれたような気がした。

「うわっ!!」
イノリは飛び上がった。
「だっ誰かいるのか!?」

きょろきょろと周りを見るが、誰もいない。

イノリは握りしめた拳をぐっと立てた。
「何か分からねえが、変なことが起きてるってことだよな。
こうなったら、とことん調べてやるぜ」

ぬかるんだ土に下駄の跡をつけながら、
イノリはずんずんと庭を横切った。
と、外から家の中が見えることに気づく。
扉が開け放たれたままになっているのだ。

そして床にほの白く見えるのは……布……着物……人の形。

「泰明!!!」



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2016.5.22 筆