いまひとたびの 6



「泰明さん、お帰りなさい。
ずいぶん時間がかかったみたいですけど、どうでしたか?」

夜遅く帰宅した泰明に、あかねが真っ先に尋ねたのは、
原因不明の病に倒れた僧侶の容態と、永泉の様子だった。

泰明は、あかねが問うたことだけに答えた。
「遅くなったのは、安倍屋敷に戻ってお師匠と話していたからだ。
祓えは無事に終わり、件の僧侶は快方に向かっている。
永泉は安堵していたが、摂津への旅の疲れは残っている様子だった」

泰明の言葉に、あかねの顔に笑みが広がる。
「よかったですね、泰明さん」

陰鬱な雨音に閉ざされた部屋の中にあっても、
あかねの笑顔は陽光のようにあたたかく明るい。

その笑みを引き寄せると、穏やかなぬくもりが泰明を満たしていく。

この日、泰明が対峙したのは、
僧侶を蝕んだ呪詛、帝に届けられた讒言、言の葉を操る道摩法師――
これらに纏わり付く、人の心の暗き深淵だった。
人は争い、憎み、呪う。それがなぜなのか、泰明には理解できない。
だが、一つだけ分かることがある。

神子は………違う。

「神子……」
泰明はあかねを抱え上げた。

「や…泰明さん、あの……」
あかねは頬を赤く染めて、足をばたばたとさせる。

「どうした、神子」
「晩ご飯、ちゃんと食べてください。
それから、藤姫が届けてくれたお菓子もどうぞ。
とってもおいしいんですよ」

――藤姫の菓子が、ここまで歩いてきたはずもない。

「頼久が来たのか」
「はい。せっかくなので、上がってもらいました。
頼久さんに鷹通さん、イノリくんと子分さん達が揃って、
みんな一緒にお菓子を頂いたんです。
にぎやかで楽しかったですよ」

――雨宿りと称して彼らは長居をしていたのか。

「あ、あの……先にお菓子を食べちゃってごめんなさい。
でも、泰明さんの分はちゃんと別にしておきましたから……」

泰明は首を傾げた。
「藤姫は神子に菓子を送った。だから菓子は神子のものだ。
神子がなぜ私に謝るのか、分からない」

「それは……そうですけど……」
「先に食べたのが問題ならば、私の分を今から一緒に食べよう。
それでいいか、神子?」
「うわあ、ありがとうございます、泰明さん!」
あかねの顔に、再び笑顔が零れた。

「神子が礼を言う必要はない」
「う〜ん、でも寝る前におやつを食べると太っちゃうかも……」
今度は泰明の腕の中で、あかねは難しい顔で考え込んでしまった。

「……………?」
あかねが何を気にしているのか、これもまた泰明には理解できないことだった。





左京四条の自邸で燈台に火を灯し、
友雅は所在なげに琵琶をかき鳴らしていた。

時折、撥を置いて傍らの酒杯に手を伸ばすと、
弦の音に代わって、激しい雨音が無遠慮に入り込んでくる。
その音は物思いに耽るにはいささか強すぎ、風情に欠ける。

だが、気だるい様子とは裏腹に、友雅は今日一日のできごとを
冷静に思い返しているのだ。

明らかになったこともあれば、さらに深まった謎もある。
書状の書き手を探るのは泰明の方が適任と分かった。
そこに書かれたことが真か否かを見極めるのは友雅一人の手に余るが、
永泉に関しては、しばらく様子を見てもよいだろう。

となれば、次に調べるべきは、主上への奏上文に
書状を紛れ込ませた人物だ。
そのようなことが可能なのは、ごく限られた者達だけ。
それは………。

友雅の撥が強く弦を弾き、鋭い音が響き渡る。

―― 一部の公卿、蔵人の頭………そして左大臣殿。

ふっと息を吐き、友雅は琵琶を下ろした。

思い込みは禁物だ。
このようなことは、主上はとうにお考えになっていたはず。
ともあれ、まずは永泉様のご様子を主上にご報告に上がろう。

友雅は懐に入れた書状に触れ、少し苦笑しながら立ち上がった。

やれやれ、主上もお人が悪い。
この人目を憚る預かり物のおかげで、
長い雨夜に独り寝を託つことになるとは……。





ひた…ひた…ひた……
絶え間ない雨音に紛れ、仁和寺の廊を進む足音がある。

暗闇の中、赤黒い光を放つくちなわが冷たい床を這い、
その後にひた…ひた…と足音が続く。

やがて足音は、小さな明かりを灯した一室の前で止まった。
寝ずの番をしていた若い僧が、ふと気配を感じて顔を巡らせる。
が、次の瞬間、僧はことりと倒れて寝息を立て始めた。



永泉は闇の中で眼を見開いている。
身体は疲れ切っているのに、眠れないのだ。

とめどない思いばかりがぐるぐると渦を巻き、
頭の中で羽虫が飛び交っているような、ひどく落ち着かない心地だ。

泰明と友雅に、伝え忘れたことがあるような気がしてならない。
見たはずのこと、違和感があったこと……
あれは何だったのだろう。

そして、もう一つ――

――ああ私は……またも逃げてしまいました。
もっと気持ちをしっかりと持てば、
献上品をお届けする役目も果たせたはず……。

けれど、このような時に内裏に行ったなら…………。
そう、やはりお断りしてよかったのでしょう。
私が動揺していることを、兄上……主上はきっとお気づきになる。

その時、永泉は突然寒気に襲われた。
ぞくりとしたこの感覚は、あの時とよく似ている。
――摂津の森。

雨音に耳を凝らしてみるが、何も聞こえない。
気のせいだろうか。
しかし、この胸騒ぎは異様だ。

永泉は震えながら起き上がった。
辺りは鼻の先すら分からぬ闇だ。
それでも、寺の中ならば手探りでも進んでいける。

意を決すると、永泉はそっと寝所を抜け出した。



     「……よ、目覚めよ」

出家前の真名を呼ばれ、覚仁は眠りの底から引きずり出された。
しかし目を開こうとしても、目蓋はぴくりとも動かない。
それどころか身じろぎ一つ、することができなくなっている。

     「吾に答えよ」

覚仁の中に、声の主の命令だけが抗いがたく轟き渡り、
己の意志がゆるゆると溶け出ていく。

     「汝の呪を祓ったのは何者か」

………あれは……永泉の知り合いという安倍の陰陽師だった。
名は確か………
身動きできない中で、言葉だけが喉から流れ出る。

「安倍…泰…明……殿」



「あの……何か起きたのではありませんか?」
「そのお声は……永泉様!」

小さな明かりを灯した覚仁の部屋に永泉が辿り着くと、
中から若い僧が何事かと驚いた様子で出てきた。

――異変はない。

若い僧は怪訝な面持ちで答え、
覚仁までもが、夜具の中から弱々しい声でそれに同意する。

安堵とかすかな当惑を覚えながら、永泉は寝所に戻った。


そして雨は、止むことなく降り続けている。



次へ





[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20]  [21]  [22]  [23]  [24]  [25]  [26]

[小説・泰明へ] [小説トップへ]





友雅さんの屋敷の場所は、
DSで発売されたポケットシナリオシリーズ
「遙かなる時空の中で 舞一夜」付録の設定集によるものです。
ゲーム本編中にも出てきたかもしれませんが、よく覚えていなくて(汗)。

このDS版はゲームではなく、
「舞一夜」登場キャラ全員の立ち絵、背景、音楽が内蔵されていて、
それらを自由に組み合わせ、セリフを入力できるという、
夢のような二次創作ツールでした。

発売当初は公式さんがシナリオコンテストを開いたりもしていたのですが、
今ではあまりメジャーな存在ではないような。
シリーズと銘打ったのに、続編がでないし……。
入力がイマイチ面倒だったのが理由かしらと、勝手に推測していますが(汗)。

でも、二次の文字書きには、この付録がとてもありがたく、
キャラの一人称とキャラ同士の呼び方の一覧表や、
公式ガイドブックとはひと味違った内容のキャラ紹介とか、とかとかとか…
今でも便利に使わせて頂いています。


2014.05.07 筆