いまひとたびの 17



刻を告げる太鼓が、重い音を響かせた。

――使いはもう御室に出立した頃か。
帝は心の中でつぶやいた。

朝議が終わり、次の政務が始まる前の束の間の静けさの中、
思いは先ほどまでの嵐のような時間に引き戻される。

今日の朝議には、話し合いの要を務めるべき左右大臣がいなかった。
参内を禁じられた左大臣と、急の病を得たという右大臣。
折悪しくと言うべきか、これもまた道摩とやらの謀の一部であるのか。

道摩――。
帝は朝議の場で、その名も含め、これまでに起きた事実と、
明らかになったこととを、筋道立て、事分けて語った。
書状が多くの目に触れた今となれば、
全てを明るみに出すことこそが、謀に抗する方法だ。

常ならば帝自らが語ることではない。
左大臣がいたなら、このような形で朝議を進めることはせず、
話し合いをまとめていっただろう。

だが、今日は違った。

皆は書状の語る由々しき内容に心を奪われていた。
自分や縁者のことが書かれていた者達は、
この書状は偽りだと声高に主張した。
そうでない者達は、互いに疑いの眼を向け合った。

何としても避けなければ、という事態が、
帝の眼前で繰り広げられた。

しかし道摩の関与については、
永泉と覚仁への呪詛の件を知った後も、皆半信半疑であった。
怪しいのはむしろ安倍晴明ではないか、との意見も多かった。
晴明の筆跡を知る者がいて、書状は晴明の手によると言い出したからだ。

「畏れながら……安倍晴明殿は自らの仕業を隠すため、
都から追放された陰陽師くずれを利用したのではありませぬか」
「だが、それで安倍殿に何の利がある」
「そうじゃ。むしろ、安倍晴明殿が関わっているならば、
ここにある企みの数々は真かもしれませんぞ」
「警告ということか」
「いや、それならば然るべき筋から上申するであろう」
「ううむ……」
「何もかもが怪しい」
「いったい何から手をつければ……」

このような堂々巡りの末、朝議で決まったことは一つだけだった。

――書状に名を挙げられた者を、身分の別なく全て調べる。

そして早速、永泉を呼び出すため仁和寺に急ぎの使者が送られたのだった。
「異心がある」とは見逃すことのできぬ事柄だ。
また、道摩なる者から呪詛されても、法親王は無事であったという。
本当に呪詛を受けたのであろうか。
帝がすぐに弟君を問い糺さなかったのは、いかがなものか。

最初に永泉が呼び出されたことは即ち、参議達から帝への無言の非難に他ならない。

――甘んじて受けよう。
永泉の疑惑はすぐに晴れる。

しかしふと、帝は思い出した。
永泉の名が出た時、顔色の変わった者がいたのだ。

摂津の寺での永泉の見事な働きぶりは、内裏にも聞こえてきている。
さらには、献上品を収めに来た寺の僧侶たちが手放しで賞賛したこともあり、
沈鬱な事件の続く中、内裏では明るい話として、永泉の名が口の端に上っていた。
その中で特に熱心に話を広めていたのは、確かあの者…新たに参議となった左大弁だった。

太鼓の音に呼応して、寺々の鐘が聞こえてきた。

側仕えの侍従が控えめに声をかける。
「お支度が調いましてございます」

支度というのは、御祓のことだ。
これより帝は潔斎に入る。
重要な行事が間近い。鎮護国家を祈願する神事だ。
晴天祈願が失敗に終わった今、その祈願はさらに重みを増している。

だが帝は侍従に、唐突に異な事を尋ねた。
「本日、内裏で傷を受けた者はいるか」

「……………いいえ、そのような報せは入ってきておりませんが、
念のため即刻お調べいたします」
「その必要はない」

短く静かな声の中に、なぜか激しいものを感じた侍従だが、
彼にはその理由は想像もつかない。
今朝、新しい書状が帝の枕頭に置かれていた……などとは。

そこには「左近衛府少将、内裏に斃れる」とあった。

書状が人の死を告げたのは初めてのことだ。
友雅は、今日は姿を見せていない。
目通りの願いも出ていない。

しかし………
帝は深く息を吸うと、真っ直ぐに前を見て歩き出した。

――友雅、卑怯な者には負けまいぞ!



その頃、御室の寺は大騒ぎになっていた。
永泉が昨日から寺に戻っていないのだ。

戻らないのではなく戻れない……ということを、
この時は誰一人として知る由もなかった。






「もう少しのっ……辛抱だっ…泰明!
もうすぐっ……着くからなっ!!」
「イノリ……すまぬ」
「弱ってるヤツをっ……助けるのはっ…当たり前だろっ!」

イノリが泰明を肩に背負い、ぬかるみで滑らないよう
一歩ずつ足を踏みしめながら歩いている。


――私をお師匠の所へ連れて行け。
これが、イノリに助け起こされた泰明の、第一声だった。

「泰明、動けないのか?
お前の師匠って、安倍晴明だよな。
一条戻り橋んとこにある、でっかい屋敷に行けばいいんだな」

「そう……だ。神子が……さらわれた」

「何だって!?
お前をこんなにしたヤツが、あかねをさらったのか…?」
「永泉も……いなくなった」
「あかねと一緒にさらわれたのか?」

「分からない……何も……分からない。急げ……イノリ」
「よし、任せろ!!」

そして、イノリは全力でがんばっている。

ずるずるずる………と、身長差のある泰明を、
背負うと言うより引きずりながら。

時々、泰明の身体が震え、氷のような冷たさと火のような熱さが
交互にイノリの背に伝わってくる。

そして、「道摩……許…さぬ……」
イノリが初めて聞く、泰明の暗い怒りに満ちた声。
鍛冶場の熾火のように、灼い熱を内にこもらせた声だ。
その熱に、泰明の心が炙られているのが、イノリには分かる。

――いてもたってもいられねえ気持ちはオレだって同じだ。
でも……どうしちまったんだ、泰明。お前らしくもねえ。

イノリは思わず声を荒げていた。
「負けんな、泰明!!
お前がしっかりしなかったら、二人を助けるなんてできねえだろ!!」

不安を払いのけるように、足に力を込め、
ずるずるるるるるっ……と泰明を引きずって走り出す。

一人で駆けるなら、造作もない距離だ。
だが今は、足の速いイノリにとっては、走っている内には入らない。

「くそっ! こんなことで、イノリ様が音を上げてたまるかってんだ」
ぎりっと歯噛みしたその時、馬が近づいてくるのに気づいた。

そして馬上から聞き覚えのある声といい匂いが降ってくる。

「イノリ、泰明殿に何かあったのか?」

イノリがばっと顔を上げると、険しい表情の友雅と眼が合った。

「友雅、泰明を乗せて安倍の屋敷に行ってくれ!
あかねと永泉が……!!」


ほどなくして、友雅とイノリは泰明を安倍屋敷に運び込み、
土御門から戻ったばかりの晴明の元へと案内された。





右大臣は驚愕した。

見舞いに訪れた左大弁から、
内裏での騒ぎと、紛糾した朝議の模様を聞かされたからだ。

そこでは、首謀者として「道摩」の名が出たという。
しかも帝自身の口から………。

道摩め!!! 勝手なことをしおって!!!
右大臣は怒りに打ち震えた。

だがもしも……自分と道摩との繋がりが知れたなら……。

そこに思い至ると、怒りは一瞬で恐怖へと変わる。

「斯様なことでこざいまして……まさか永泉様のことが……
異心などとはあまりに大げさな書きぶりで……
私共はまだ何も……昨日お会いできなかったのは幸いと……」
真っ青になった右大臣の様子など窺い知る由もなく、
几帳の向こうで左大弁はまだぺらぺらとまくしたてている。

右大臣にとって、道摩という大事の前では、
法親王を担ぎ出そうといしていたことなど取るに足らない小事だ。

――ふん。先走った罰よ。
法親王の件では、まだ儂が深入りしていなかったのがせめてもの幸いだ。
左大弁はあちこちで法親王を推していたようだが、こちらは関係ない。
自分の身は自分で処してもらうとしよう。

だが――道摩めのことは捨て置けぬ。
どうしてくれようか。

「しかしながら、右大臣様のお名前までが出るとは………」
右大臣が考えを巡らせている間に、左大弁の話題が変わった。

「ふむ。……ふむ? 何じゃと?」
右大臣の生返事が途中で止まる。

「確か、左大臣様を陥れるために謀を巡らせたとか。
あまりに荒唐無稽で、よく覚えてはおりませぬが」

一瞬、右大臣は言葉を失った。

「……右大臣様?」
左大弁のいぶかしげな声。
だがそれは病人を気遣ってのものではなく、探りを入れようとする声だ。
そもそも、法親王の件より後にこの話を持ってきたのは、
意図してのことに違いない。

まずい……!

右大臣は苦しげに装った声を精一杯張り上げた。
「ううう……衷心よりお仕え申し上げている儂が……あり得ぬ!
そのような讒言、帝は一顧だにされぬぞ!
ううう……病がますます悪くなったわ。
今日はこれまでじゃ! 帰れ!!!」

「仰せのままに。思いの外お元気なご様子に安堵いたしました」
右大臣の怒りに触れたことを気に掛ける様子もなく、
左大弁はねちりとした言葉を残してそそくさと堀川第を退出した。





「お師匠……自分の力で……気の流れが制御できぬ。
溢れ出ないように抑えるのが……精一杯だ」
かすれた声で、泰明は言った。

ここは安倍晴明屋敷に建つ祓えの間。
泰明は部屋の中央に横たわり、その周囲には五枚の呪符が配されている。

イノリと友雅は、晴明の術に巻き込まれぬよう外庇まで下がり、
泰明と晴明の様子を固唾を呑んで見守っている。

「ここまでよくぞ耐えたな、泰明よ」
晴明は頷き、手を休めることなく術の準備を進めて行く。

泰明の体内で、陰の気が暴走している。
気が乱れている……などという生やさしいものではない。
岩礁に砕ける荒波のように、陰の気が脈絡無く飛び散り渦巻き、
泰明の身体を蝕んでいるのだ。

晴明は、心配でたまらない様子でこちらを見ているイノリに眼をやった。
――体内に留めていても、この陰の気は尋常ならざるもの。
そのような泰明を背負って来るとは……。
離……天の朱雀が持つ陽の気が守ったか。

「泰明よ、術の前に知っておかねばならぬ事がある。
苦しいことだろうが、何があったのか話してみよ」

「分かった、お師匠」
晴明の言葉に応え、泰明は昨日の出来事を途切れ途切れに語った。

東の市であかねが道摩と遭遇したこと。
夜になって永泉が来たこと。
鐘の音と共に式神が現れたこと。
式神を退治している間に身体が痺れていき、
身動きできなくなったこと。

「式神の瘴毒を浴びてしまった。
神子と永泉を部屋の奥に下がらせた時、道摩が…現れ、
動けぬのは毒のせいだと……偽りを……言った。
充ち満ちた陰の気に……私は気づけなかった……。
私は……神子を…守れなかった!!」

泰明は大きく眼を見開き、突然くいっと上半身を起こした。
「神子……!!!」
「動くでない!」
晴明が一喝する。

「分からぬか、泰明。道摩は人の心を操るのじゃ。
瘴毒はお前の動きを抑えるに十分であったろう。
そして、毒を使ったと言うことで、お前の注意をその一点に向けさせたのじゃ。
真実を一部だけ明かすは、言の葉の罠。
その罠にかかれば、幻さえも命取りとなる」

鳴り止まぬ鐘の音と、滅するそばから次々と現れる式神。
そして夜陰と雨。
傍らには、命を賭して守るべき神子。

道摩は、冷静で揺らぐことのない泰明の心を、ほんの少し傾けたのだ。
僅かな揺らぎに、あやつは斬り込む。

泰明はゆるゆると身を横たえた。
「壊れたくない……神子を救い出さなければ……」

「それを願うなら己に全力で向き合うのじゃ、泰明。
眼を閉じ、気を正すまじないを一心に唱え続けよ」

言われるままに泰明は眼を閉じた。
言の葉の形に動く唇から氷のような息が漏れ、
次の瞬間それは火炎のような熱さに変じる。

離れて見ているイノリが、小声でぼそりと言った。
「……なあ友雅、泰明は治るんだろうか」
友雅も声を抑えて返す。
「いつになく弱気だね。晴明殿を信じることだよ」
「……そうだな。オレ達が弱気になったらいけないよな。
どんと構えて待つことにするぜ」
「その調子だよ、イノリ。
それにしても永泉様が泰明殿の家にいらしたとは……」
「きっと何か大事な用事があったんだろ。
オレもあかねんとこにはよく行くしさ。
とにかく泰明を早く治してもらって、
一緒にあかねと永泉を助けに行こうぜ」

声を潜めていても、二人のやり取りは晴明の耳に届いている。

――まこと、八葉とは不思議な縁。
泰明よ、よき友に恵まれたな。
その絆を道摩ごときに断たせはせぬぞ!!



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知る由もなかった――
てな陳腐な言い回しは、管理人のプライドが大いに許しちゃうので、
どんどん使ってま〜す。


2016.8.7 筆