いまひとたびの 23



雨脚が強くなってきた。
泥を蹴立てて駆ける足音が近づいてくる。

――何者!?
瞬時に頼久が動いた。
素早く門の脇に身を寄せ、剣を構える。

そこへぜえぜえと息を切らせて走りこんできたのはイノリだった。
速さ自慢のその足が、がくがくと震えている。

「泰明!!」
叫んだとたん、イノリはげほげほと咳き込む。

「イノリ! どうした!?」
「イ…ノ…リ……?」

「道摩に……あかねの名前を知られた!!」

崩れ落ちそうなイノリを、とっさに頼久が支えた。
「大丈夫か、イノリ!?」

だが頼久の手を振り払い、イノリは泰明に向かって続けた。
「オレ、東の市に昨日のことを調べに行ったんだ。
騒ぎを起こしたおっさんを見つけたけど、
道摩のことだけ忘れてやがって……。
頭にきて問い詰めてる時に、あかねって言ったんだ。
それを、道摩に聞かれちまった」

「道摩……道マ…が………」
泰明の気が大きく揺らぐ。

「道摩のやつ、喜んでた。
神子の真名はあかねと言うのかって……」

「イノ…リ……オ前は……みこ……を」

「オレ、道摩に術みたいのをかけられて、
情けねえことに身動きが取れなくなっちまった。
すぐに知らせなきゃなんねえってのに、もう夕暮れ時だ。
ホンッとにすまねえ!!
謝ってすむことじゃねえが、この通りだ!!」

イノリは拳を握りしめ、深々と頭を下げた。
が、どすっという鈍い音に顔を上げる。

頼久の拳が深々と泰明の鳩尾に入り、泰明が地面に頽れている。

『未熟者をよう留めてくれた。上首尾じゃ、頼久』
白鷺が翼を広げてふわりと樹上に飛び上がった。

「えっ!? 鳥がしゃべった……
って、なんだ、晴明のおっちゃんか」

『イノリよ、詫びは不要。
お前もお手柄じゃ。
真名を知り得て道摩が喜んだのなら、それはすなわち
神子殿は無事ということじゃ』

「……そうなのかもしれねえ。
でも……オレは……」

『詳しい話は安倍屋敷にて聞こうぞ。
頼久、泰明を頼む』

「承知」
頼久は鷺に一礼すると泰明を造作も無く肩に担ぎ上げた。

叩きつける雨の中、鷺は飛び去り、
「行くぞ、イノリ」
頼久は泥にぬかるむ道を、着実な足取りで歩き出す。

――オレは大変な思いだったのに、
頼久は泰明を引きずらなくても運べるのか………。

心の片隅に詮無いことがよぎり、
イノリはぐっと顔を上げた。

――今は落ち込んでるヒマはねえってことだ!

そして頼久の後を追って走り出す。





これから出仕すると先触れまで出して勇んで宮中まで来たというのに、
右大臣は牛車の中で座ったままだ。
御簾が上げられてもどうにも身体が動かない。

「………?」
随身がこちらをのぞきこんで何やら言っているが、
右大臣の耳には意味を成さぬ音が届くだけだ。

わけの分からぬその音は、やがて幾つも重なって聞こえてきた。
うるさい!と一喝したいのだが、どうすればよいのか分からない。
いや、そんなことはどうでもよいことだ。

「……!!」
そして何者かの手により、右大臣は牛車から引っ張り出された。

無礼な!と一喝したいが、無礼……とは何だ。

儂を取り囲んでいる者たちはいったいどこの誰だ。

……………呪詛返し……………
……………汝にも少し分けてやろう…………

肺腑の底から声がした……ような気がする。
意味は分からぬ。
だが冷え冷えとした塊が、
蝸牛のようにゆっくりと広がっていくのは分かる。

ああ……怖ろしい……。
………怖ろしいとは………何だ。





「あ……! お待ちください……イノリ殿ではありませんか……」

後ろからすごい勢いで走ってきたイノリが、
永泉に気づくことなく、あっという間に追い抜いて駆け去って行った。

届かぬと分かっていても、思わず永泉は声を振り絞っていた。
だが弱々しい声だ。
朝から歩き続けてきた永泉は疲労困憊している。

見知らぬ街から方角だけを頼りに進んだものの、
空を見上げても太陽のありかは見えず、
灰色に沈んだ雨模様の道には標を探すこともできず、
すっかり迷ってしまったのだった。

それでも、なんとかここまで来た。

イノリが向かっているのは間違いなく泰明の家だ。
永泉は思うように動かぬ足を引きずりながら急いだ。

しかし―――

泰明の家までもうすぐというところで、
白い鷺が雨をついて飛び立った。
続いて何かを担いだ頼久が現れ、
イノリと一緒に、永泉とは反対の方に遠ざかっていった。

「頼久が運んでいたのは……あれは……泰明殿?」

だが永泉は二人を追うことはしなかった。
しばし逡巡してから主のいない家の前で一礼し
泰明の家へと入る。

「すみません神子、泰明殿……。
勝手に上がり込むことをお許しください」

庭に面した部屋は昨夜の戦いで庇も蔀も壊れ
雨が容赦なく叩きつけている。
だがその奥の部屋は元のままだ。

そこで永泉はとうとう探していたものを見つけた。

自らの法衣と、笛――。

昨夕、御室の寺を抜け出し、雨の中を歩いてここに来た時、
濡れたままでは風邪を引くからと、
あかねが泰明の着物を貸してくれたのだ。
湿った袋から取り出した笛も、法衣と一緒に置いていた。

――大切な笛を肌身から離すなど、愚かなことをいたしました。
二度とこのようなことはいたしません。
どうか……私の手に……もう一度。

永泉は端座して合掌し、経を唱えた。
そして心を静め、笛へと手を伸ばす。

街人が我が身をすり抜けたように、
笛もまた触れることすらできないのではないかと怖れつつ、
なればこそ再びこの手に……と切に祈りながら。





あかねの後を幾つもの式神がゆらゆらとついて回っている。
行く手を塞いでも、きぃきぃと声を出して脅しても、
にっこり笑うだけで、屋敷の探索を続けるあかねを警戒しているのだろう。

折しもあかねは扉を開いて中を確かめると、
くるっと振り向いて一体の式神に話しかけた。

「ねえ、赤影さん、この部屋ってさっき来たところ?」

赤影と呼ばれた靄のような式神は、
しゅるしゅると縮んでぺとっと床に張り付いた。

「答えてくれてありがとう。
赤影さんは『はい』って言ってくれたんだよね、黒影さん?」
黒影と呼ばれた式神は、きぃきぃと声を上げた。

「青目さんもそう思う?」
隻眼の怖ろしげな式神が、牙をむいた。

――ふふっ、黒影さんのきぃきぃは仕方ないって意味みたい。
青目さんは困ってる。
式神さん達のこと少し分かってきたかな。
みんなに名前をつけたら区別がつけやすくなったし。

あかねはためらいなく部屋に入り、庭を見た。

思った通り、先ほど見た部屋と同じ位置にある前栽の竹、置き石、
そして同じように庭の奥は雨に隠されたまま。

ぞろぞろとついてきた式神は、
あかねが立ち止まると一斉にその場で動きを止める。

――やっぱりこのお屋敷には術が施されているみたい。
さっきから同じ場所をぐるぐる回ってるもの。
晴明様のお屋敷の術と似たような感じかな。

あ、そういえば泰明さんも自分の部屋には
私以外は入れないように術をかけていたっけ。
この前雨宿りに来たイノリくんの子分さん達、驚いてたなあ。
「ぐるぐる〜」って言ってた子、可愛かったなあ。

思わずにこにこしたあかねから、式神たちは少し距離を取った。

あ、いけない!
ここで緩んだらだめだよ、私!

あかねは気合いを入れようと、両手でぱんと頬を叩いた。

式神たちは騒然となる。

その時―――

「……去ね………」
ひんやりとした声が漂い来た。

一瞬で式神達は姿を消す。

「………」
あかねはゆっくりと声のした方に向き直った。

酷薄な道摩の笑みがそこにある。

「貴方をこれまで神子殿としかお呼びできなかったことは遺憾の極み。
だが今より先、斯様な非礼はあり得ぬと申し上げよう」

心の臓がぎゅっと掴まれたような威圧感。
そして息が苦しい。
身体が……動かない。

「―――ア カ ネ―――
汝が真名は捕らえた。
これよりは吾が令に従え」



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あとがき

イノリくん……身長差は仕方ない。
でもいずれ父さんに負けないでっかい漢になります。
間違いなく。

で、式神は決して仮面の忍者ではありません。為念。
だってあかねちゃんは知りませんもの。


2020.11.6 筆