いまひとたびの 2



散り敷いた桜花の上に卯の花が白い花弁を落とし、
そこにはらはらと紅い葉が舞い降りた。

安倍屋敷の奥の奥。
晴明の居所を囲む庭には、四季の花々が咲き乱れ、芳しい香を放っている。

その不思議な彩りに満ちた光景に心を奪われそうになりながらも、
あかねは晴明と泰明の話に一生懸命耳を傾けていた。
だが、二人の話は以前からの続きのようで、あかねにはさっぱり分からない。

「そうか、法親王様が……」
「気の滞りはどれだけ広がって……」
「……どこかで異変に遭っては」

よそ見して庭に眼をやっていたあかねは、はっとして交互に二人を見た。
淡々とした口調で、穏やかならぬ言葉を続けているのだ。

「どうした、神子。庭に何かあるのか」
あかねはふるふると首を振る。
「気になったのは泰明さん達のお話の方です。
どこかで大変なことが起きそうって、ことですか?」

晴明は僅かに眉を上げた。
「ここまで来る間に何も説明せなんだか、泰明。相変わらずよのう。
足労してくれた神子殿にきちんと話すのじゃ」
「分かった、お師匠」

そこで初めて、あかねは話の経緯を知った。
事は半月ほど前、晴明の占いに京の裏鬼門――南西の方角に凶兆あり、と出たのが始まりだ。

すぐに安倍の陰陽師が調べに赴いたが、
洛内ではないらしい……ということ以外分からずに帰ってきた。
そこで、さらに遠くに出向くと、洛西、洛南の気が滞っているのが確かめられた。
しかし原因となりそうな穢れや怨霊、呪詛の類は見つからぬままで、
晴明の底知れない呪力を考えれば、さらに遠い場所の異変が
感知された可能性もある。

ならば、京から南西の方角にある摂津、播磨も凶兆の範囲ではないのか。
しかし、その範囲はあまりに広い。

そこで晴明が泰明を呼び、これからの方策の検討を始めたちょうどその時、
あかねが永泉からの依頼を伝えに安倍家に来たのだった。

  『問題は永泉だ。確か、摂津から戻ったばかりのはず』
  『……? はい。使いの人もそう言っていましたけど……』
  『だからだ』

そういうことだったのかと、やっとあかねは理解した。
それでも、少しだけ疑問は残る。

――摂津、播磨といえば、ええと……大阪とか兵庫の辺りだったよね。
京からはずいぶん遠い気がする。

あかねが疑問を正直に口にすると、晴明はゆっくりと頭を振った。
「摂津、播磨は京の喉首じゃ。かつての過ちを繰り返してはならぬ」
泰明は小さく首を傾げて問い返す。
「志多羅の神のことか?」

「生まれる前のことまでよう知っておる」
晴明は苦笑し、静かに立ち上がった。
話はここまで、ということだ。

あかねは屋敷に招き入れてくれたことに礼を言い、素早く庭に降りる。
……と、ぽつりと顔に冷たい滴を感じた。
空を見上げると、いつの間にか重い雲が全天を覆っている。

また今日も雨……。
あっ!

あかねは泰明に向き直ると、急いで言った。
「私は一人で帰れますから、心配しないで永泉さんの所へ行っ……!」
言い終わるより先に、ふわっとした布があかねを包んだ。
透き通って軽い薄衣だ。

「お師匠、不濡の羽衣を借りる」
「泰明、いつの間に……」
「や、泰明さん、無断借用はいけません!」
「今、断りを入れた。
お師匠、仁和寺には式神を先に向かわせた。
私は神子を家に送り、すぐに永泉の所へ行く。
これで問題ないか」
「うむ、問題なくはないが、とにかく早う行くがいい。
まずは法親王様の憂いを晴らして差し上げることを第一と心得よ」


泰明とあかねが庭から去ったのと入れ替わりに、
晴明の高弟が慌ただしくやって来た。
よからぬ知らせを持ってきたことは、その強ばった表情から
晴明ならずとも見て取れる。

弟子が口を開くより先に、晴明は言った。
「播磨か」
大きく息を呑み、弟子は首肯する。
雨が叩きつけるように激しく降り出した。

暗い部屋の中、晴明は口を引き結び、弟子の報告を聞いている。





「安倍泰明殿に会いたいのだが、今日は出仕しているのかな」
「おお、これは橘少将殿! ええと……」
ふらりと現れた友雅と、その依頼の両方に、陰陽寮の役人は驚き慌てた。

「し、しばしお待ちを。
あの安倍殿は、どこにいるやらなかなか掴めぬお人ゆえ……」
「これは、忙しいところに来てしまったかな。
仕事の邪魔をしたなら申し訳ないので、出直すとしようか」
優雅に扇を使いながら、友雅は微笑む。

「い、いいいいえ、すぐに見てくるゆえ……」
役人はばたばたと奥に走っていき、大声の会話が聞こえてきた。
「頭痛歯痛腹痛腰痛休みの届けは出ているか!?」
「いや、安倍泰明殿なら……」

そして待つほどもなく、役人は小さな紙片を指でつまんで戻ってきた。
「お待たせした、橘少将殿。行き先が分かりましたぞ。
安倍殿は、晴明殿からの呼び出しで、お屋敷に出向いたとのこと」
役人は、紙片をこわごわと見ながら言った。

「それは泰明殿が書き置いていったものかな」
「ああ、これは……式神とやらが持ってきた、晴明殿からの呼び出し状で……」
陰陽寮に勤めていても、この役人にとって式神とは、
ひどく薄気味悪いもののようだ。

「ありがとう。行き先まで調べてくれるとは、なかなか気が利くね」
「い、いや、お役に立てたなら何より……」
役人は鼻をふくらませて紙片をひらひらさせた。
紙の端だけを持っているので、書かれた文字がいやでも眼に入る。

「稀代の陰陽師」という言葉から想起される厳格、精緻な連想とは裏腹の
勢いある筆致、黒々と滲む墨跡。


――泰明殿の知恵を借りようとして、
予期せぬものを見てしまったか……。

陰陽寮を後にして、友雅はふっとため息をついた。

帝に届いた書状には、呪詛を告発するものもあったが、
こればかりは友雅の手に余る。
そこで泰明を訪ねたのだったが……。

あの小役人には気の毒だったかな。

友雅の手には、役人の手から抜き取ったあの紙片がある。
帝に届いた書状と照らし合わせるために、どうしても必要なものだ。

だが、まずはどちらから調べるべきか……。
書状の送り主か、内容の真偽か。

いや、手がかりの少ない今は、できる所から始めるしかない。
まずは永泉様にお会いしよう。
もう、摂津からお戻りになっている頃だ。

ご自分が出家するに至った、帝の座を巡る争いを、
自ら繰り返すような永泉様ではない。
主上もそれをご存知なのだ。
だからこそ、御心を傷めておられるのだろう。
血を分けた弟君が、陰湿な謀略に再び利用されそうになっていることを。

馬を駆り、友雅は仁和寺へと向かう。
暗い空からは、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。





仁和寺の一室に、ひょろりとした僧侶が伏せっている。
紫斑の浮かんだ顔はげっそりとやつれ、
苦しげに息をするたびに、胸がせわしく上下する。

泰明は僧侶の額に呪符を置き、その上に指を当てた。
淀みない呪が、唇から流れ出る。

周囲に居並ぶ僧侶の大半は、泰明の挙動全てを胡散臭げに見守っていた。
法親王に呼ばれて来たのでなければ、次の貫主とも目される大事な僧を、
陰陽師に任せるなどしなかったのに……。
しかもこの陰陽師、先触れに式神などを送って寄越し、寺の中を調べて回らせたのだ。
さらに我慢ならぬ事は、法親王である永泉様を呼び捨てにするという無礼。

泰明の隣に座した永泉は、彼らの狼狽や嫌悪感を痛いほどに感じ取っている。
が、当の泰明はそのようなことを全く気にしないことも分かっていた。

そしてもう一つ、永泉がはっきりと確信していることがある。
この僧侶が苦しんでいるのは、病ではなく……

「呪詛だ」
泰明が顔を上げて言った。

僧侶の額に置いた呪符が、
泰明の指の下で奇妙な印を浮かび上がらせたかと見る間に、
黒い炎を上げて消えた。



次へ





[1]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20]  [21]  [22]  [23]  [24]  [25]  [26]

[小説・泰明へ] [小説トップへ]




2013.9.25 筆