凍 月

10. 祈



金色に覆われた御堂はほの暗く、音も無く、
時が止まったかのように、灯明の炎さえも動かない。
扉の外に広がる明るき昼とは切り離された、ここは墓所であり、祈りの場。

浄土へと導く阿弥陀仏に真向かい、銀は一人、祈る。

それは自らへの救済ではなく、逝った者への鎮魂の祈り。


「祈りなどいらぬ…と、言っただろう」
気だるげな声が聞こえるようだ。
兄上、あなたは、神仏の加護など信じぬ人だった。

次に続く言の葉も分かる。
「まあ、お前がそうしたいというのなら、別にかまわぬが」

そうして、ふい、と背を向けるのだ。

それと同時に、兄上は心から全てを消してしまう。
最前の会話も、自分に向けられた思いも、向き合っていた相手のことすらも。

私だけではない。誰も皆、兄上にとっては同じこと。

殿上人も、兄上に歌を詠みかけ、文を送る女房達も、
貴なる姫君も、父上も、帝とても。

彼らの眼前では、何一つ欠けるところ無く恭しげに振る舞い、
請われれば、美しく舞い、風雅な歌も詠み、戯れの言葉も交わし……。

だが、それは意味なきもの…儚く脆い一握の砂のようなものと、あなたは知っていた。
雲上にあって、夢を夢と知っているあなたは……
醒めていた。
飽いて、一人だった。


兄上……

あなたにとって生きるとは、
死に向かって、ゆっくりと滑り落ちていくだけの時間だったのかもしれません。

心の内に広がる空虚と、それを満たそうとする狂気に似た思い。
あなたの眼が爛々と輝くのは、戦の中で、命のやりとりをしている時…だけ。

けれど……、兄上は、出会ったのですね。
あなたを満たすものに。

ただ一人、御座船に残り、
遙か彼方へと遠ざかっていく一門の舟を…
あなたも見送った。

高館で、将臣殿が言っていました。
「みんなを逃がすために、知盛を残すと決めたのは俺だ」と。

生田の後の出来事を語ってくれた時のこと。
その時の将臣殿は、とても辛そうでした。


でも、私にはわかります。

兄上が、自ら望み、残ったのですね。

戦場での刹那の時が全て…、何かを待つことなどしないあなたが、
ひたすらに「その時」を待ち焦がれて。

そして兄上、
あなたは初めて、自由になった。
あなたは初めて、幸福を知った。
あなたは初めて、生きることができた。

魂の奥底から求めてやまぬものに、やっと触れることができたから。

十六夜の君……あなたが、全てを受け止めた。
応えた。

自らが傷つくことを知りながら、全身全霊を以て、真っ直ぐに。



銀は、阿弥陀仏を見上げた。

「修羅の地から遙か遠き、浄土におわします阿弥陀仏…」

弥陀の像は何も語らず、ただ沈黙をもってそこに在る。



己の心の真実から、人は時に目をそむけ、時に自らを偽って生きる。
真実という刃に触れずにすむように。

十六夜の君…あなたはその刃を、素手で握りしめた。

壇ノ浦の海を越え、平泉へと……
春宵の言葉のままに、私に出会うために。




扉が開いた。
外界の明るい光が射し込み、すぐに消える。

望美が御堂に入ってきた。

黙したまま銀の隣に来ると、静かに眼を閉じる。

ここは墓所であり、祈りの場。

微風に揺らめいた炎が、すぐに静まる。
柱に施された夜光貝の装飾が、かすかに光った。



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