凍 月

2. 傷



夢とうつつの間を彷徨いながら、うねる波の幻を見ている。

銀…。
あの海を越えなければ、私はあなたに出会えない。

銀という、あなたには…。


肩の傷が、灼けるように痛い。


ゆらゆらと揺れる青い波間に、いくつもの命が消えていった。

あの人も……還ることはなかった。

遠ざかっていく一門の舟に背を向け、
ただ一人、私達を…
私を待っていた、あの人。


勝手だ…
本当に、勝手な人だ。

自分だけ、逝ってしまった。

水底の青い眠りへと。

あんなに、幸福そうな笑みを浮かべて…。
短い別れの言葉だけ残して…。


後悔?
      違う…。
哀惜?
      惜しまれたいなど…あの人は思わない。
未練?
      あの人には無縁の言葉。


交わす剣の舞い散る火花から伝わってきた、あの人の心。
苛烈に、純粋に、一途に希求する心。


それは、死への渇仰ではなく
生…そのものだった。


それなのに…
いいえ、だからこそ、変えられない心。
幾度繰り返しても。

  「無理…だよ。源氏の神子。
   俺は…変わらない」


たとえ千度繰り返しても、あの人は、否と言うのだろう。


心の奥にうねる、茫漠たる海。

見渡す限り続く波。
深く…底知れず。


繰り返し、あの人は波間に沈む。


私は、変えられるのだろうか…。

あの海の先に続くこの道を、
銀の運命を…。




すうっと、意識が目覚めの領域に入る。


しかし、身体に力が入らない。

頭が…ひどく重い。
前と同じ…。
急速に五行の力が失せていくのがわかる。

なぜ、こんな時に…。
自分の無力さが歯痒くて、唇を痛いくらいにかみしめる。


「命じられております」
「役目にございます」
「申しつかっておりますので」

親切に接してくれたけれど、銀の言葉はいつも同じだった。
白龍が言った通り、悪意も善意もない。
己の意志というもののない言葉。

そんな銀が、
私と一緒にいたいと…
初めて、自分の願いを口にした。

やっと心を開いてくれた…
銀の心に触れることが出来た…そう思った矢先の、不調。


私はまた、同じことを繰り返してしまうのだろうか。

鎌倉は着々と準備を進めている。
呪詛の種も、景時さんが来たことも、前と同じだ。
白龍も、子供の姿になってしまった。


私は、何も変えていない。


「ワン!ワンワンワン!」


外で、犬が吠えている。

……金!!


氷の刃が押し当てられたように、望美の全身に冷たい悪寒が走った。






気配が伝わってきた。
気づかぬ…ではすまぬだろう。
「頃合いか…」
泰衡はやおら立ち上がった。

しかし、総領に報せるより、曲者の探索を優先する。
父上の腹心達のやり方は、さすがというべきか。

扉を開き、大声で呼ばわる。
「騒がしいぞ!何があった!!」

具足を鳴らしながら、駆けてくる音がする。
「一大事にございます!」

泰衡の前に、転がるようにして郎党が走り来た。

「御館が、曲者に襲われました!!」
「何っ!」

郎党と共に早足で急ぐ。
「殿直の者はどうした?!」
「交代の隙をつかれました。ただ一人になったところを襲われ…」
「手練れの者か」
「はっ。相当な腕の持ち主かと」


慌ただしく武士が行き交う。
雑兵の掲げる松明の明かりが、あちこちを動き回っている。

御館の部屋の前に控えた郎党達の中には、銀の姿があった。

何食わぬ顔で…というよりも、あれが変わる方がおかしいか。
返り血も浴びず、足跡も残さず、気も乱さず、
大事の決行の後で、あれだけ平静を保てるとは、やはり…。

口に出しては、警護の武士に厳しく問う。
「曲者は、まだ捕らえられないのか」
「総出で探しておりますが…」
「手がかりもないと?」
「はっ。しかし、鎌倉の手の者に間違いはないと思われます」
「鎌倉のこのように卑怯な手段、許すわけにはいかぬ。
草の根分けても、必ず捕らえよ!」
「御意!!」



秀衡は、襲われた時のまま、自分の寝所にいる。

急所を外れたとはいえ、傷は深い。
手当の最中にも相当な痛みがあるはずだが、秀衡は呻き声一つあげなかった。

部屋の外から、声がかかる。
「御館、泰衡様にございます」

秀衡は、一呼吸すると言った。
「人払いせよ…」
「されど、傷の手当ては…」

秀衡は何も言わず、一同をねめ回した。
潮のように、郎党達がその場を退いていく。

それまでの喧噪が嘘のように、辺りを静寂が支配した。

暗い部屋の中、高燈台が灯っている。
泰衡が秀衡の側に進み入ると、小さな炎は頼りなげに揺らいだ。

「傷の具合はいかがか」
「それを…問うか」

無言のまま、二人は対峙した。
遠くから、郎党達の声や具足の立てる音が聞こえてくる。
それに混じり、さらに遠くからごろごろと季節外れの雷の音もする。

「不覚を取ったものじゃ」
「鎌倉の刺客は、必ず捕らえます。ご安心を」

「泰衡よ…」
そう言って、秀衡は息子の眼をじっと見据えた。
瞬き一つせず、心の奥まで見透かすように。

「はい、御館」
そう言って、泰衡は父の視線を真正面から受ける。

太刀を持たず、視線で剣を交わす。
火花が散る。
どちらも、譲らない。


ややあって、秀衡は言った。
「覚悟は、できておるのだな」
その声は、押し潰されたように低く、かすかな苦みが混じる。

「もとより」

「ならば……」
秀衡の声が、奥州国守のそれとなる。
「これより後は、お前が奥州全軍を率いよ」



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