凍 月

9. 蝶



雪が降っている。
静かな冬の朝が今日も訪れた。
しかし、奥州にとっては、極めて厳しい日々が続いている。

源氏の軍は平泉から退き、本隊は鎌倉へと戻った。
とはいえ、鎌倉との和議は、まだ成立していない。
いや、成立の目途さえ立っていないというのが本当のところ。
連日の交渉は難航し、一進一退を繰り返している。

今日もまた、傷の癒えぬ身体を押して、泰衡は話し合いの席に出向く。
その身支度を手伝いながら、銀が言った。

「お疲れのご様子にございます。ご無理はなさいませぬよう」
その言葉に泰衡は眉間に皺を寄せ、遠慮のない返事を返す。
「他ならぬお前が、よく言うものだ」
しかし、
「長引けばこちらが不利なのは分かっている。春までには、終わらせるさ」
そう言うと泰衡は、自ら扉を開け、簀の子に出た。

外は今日も雪。
鈍色の空から、白い雪片が絶え間なく降りしきる。
その彼方に目をやり、泰衡は一言、呟いた。

「桜が、あの山を覆うまでには…必ず」

泰衡の視線の先には束稲山。
雪に煙って輪郭すら定かでないが、泰衡にはその稜線の形までも、
くっきりと思い描くことができる。

「さぞ美しいことでございましょう。
束稲山の桜花は、歌にも詠まれております」

「美しい…か」
泰衡は振り向きもせず言った。
「雅な都人とは、勝手なものだ。
あるがままの花に、己の心を託したに過ぎぬものを」

銀は泰衡の背に向けて、微笑んだ。
「そうかもしれません」

泰衡の眉間の皺が、さらに深くなった。
心の端を思わず覗かせてしまったゆえのことだ。

不機嫌な声で、泰衡は続けた。
「その雅な殿上人が、なぜいつまでここにいる。
ましてや、和議は奥州と鎌倉の間のことだ。
平家の大将が、国守の従者など、なさることでもあるまい」

銀の声は平静だ。
「平家追討の院宣が出されて後、官位は全て失いました。
今は宮中の参内すら叶いません」
「フ…だが、お前には無関係…でもなかったか。
御館を奥州の国守に任じたのは、平家だったからな」
「はい。奥州と越後、どちらも源氏を牽制するための任でございました」
「平家が滅んだ後に、その思惑が実現するなど、皮肉なものだが、
平重衡殿は、これをどう思われるのか」

一瞬の沈黙の後、頭を垂れて銀は答えた。
「平重衡は、鎌倉の土牢にて身罷った由にございます」

泰衡の声に冷笑が混じる。
「都合よく過去を葬り去るか」

銀の伏せた眼に、かすかな光が走った。
「いいえ、生きている限り、平重衡の罪は消えず、
私がそれを忘れるなど、許されることではございません」

泰衡は黙したまま振り向かない。
銀は続けた。
「されど、泰衡様への恩義もまた、消えるものではなく、
どうか、私が平泉に留まる間は、お側にお仕えすることをお許し下さい」

最後まで銀に目をやることなく、泰衡は外套を翻し、歩み去った。

「……好きにしろ」
その言葉だけを、後に残して。





雲間から明るい日が射している。
吹雪く日が続いたため、道には雪が降り積もっていたが、
高館へと続く道には人の足跡が無数に残り、雪は踏み固められていた。

その足跡は、九郎達が柳御所へと向かった時のものだ。

高館の一行は今頃、泰衡と鎌倉方との話し合いの席に立ち会っているはずだ。

丘を巻いて上る道を、銀は一人辿っていた。
この道を、望美と共に夜をついて走ったのが、つい昨日のことのように思われる。
あれから、奥州を取り巻く情勢は大きく変わった。
自分もまた、同じように…。

木々の向こうに、雪を頂いた束稲山が、陽に照り映えている。
山裾を流れる衣川のきらめきに、銀は眼を細めた。
雲が切れ、広がりゆく空は、深く澄み切った青。

この山野、この地に生きる人々の思いは、
異郷から流れてきた者には、想像することしかできない。

だが、銀にはわかる。
御館も泰衡も、奥州を、平泉という地を、深く愛していることを。

そしてこの美しき北の地は、
厳しい冬の時を過ぎ、明るき春を迎えようとしている。

だが、もしも荼吉尼天に勝利できなかったなら、この平泉は……。
銀の眼が翳る。

鎌倉の目的は、奥州を完全に手中に収めることだった。
そのために鎌倉軍は、三方向から進軍してきていた。
梶原率いる本隊は、政子と共に真っ直ぐに平泉を目指し、
残る二隊は、常陸からの道と、越後、羽前への進路に分かれて。

本隊との緒戦に敗れていたなら、ここ平泉は間違いなく
殲滅戦の舞台となっていただろう。
続く二隊に要路をも抑えられて、陸路、海路共に物資の流れも止まり、
奥州は疲弊し、壊滅的な打撃を被っていたはずだ。

頼朝は、躊躇無く非情な手段を選び取ることのできる者。
人智を越えた力と結びつき、容赦なき力を振るうはずであった。

それに対抗した、苛烈な泰衡の意志。

それは、あるがままの心を誰よりも遠ざけて生きる、意志。

「ききもせず、束稲山の桜花…」
歌が口の端に上る。

父清盛の元を訪れた僧侶の詠んだ歌だ。

「…吉野の外にかかるべしとは…」
銀は坂道を振り仰ぎ、再び歩き出す。





「よく来たな。寒かっただろ」
「何もないが…、上がって火に…あたるといい」

高館で銀を迎えたのは、将臣と敦盛だった。

「あいにくだったな。あいつなら、留守だぜ」
「入れ違いになってしまったようだ…」
「そのことでしたら、存じております。
神子様は、和議の話し合いに同席されていらっしゃるのですね」


「交渉は長引いているようだが…、少しは進んでいるのだろうか」
火桶を囲んで座ると、自然、話題は和議のこととなった。
「あっちは景時がいるからな。一筋縄じゃいかないぜ」
「朔殿にとっては…辛いと思うが」
「兄と敵味方に分かれるなんてな…。敦盛には、他人事じゃねえだろ」
「いや…私は…自ら決意したことだ…。それを言うなら、将臣殿も…譲殿と」
「まあな。でも正直、あの戦の中じゃ、しみじみ嘆いてる余裕なんてなかったぜ」

和議と兄弟の話題とが、ひとしきり続いたところで、銀が言った。
「難航はしておりますが、ここに来て少し明るい話も出ております」
「熊野か。ヒノエから聞いたが、朗報だな」
「はい。平泉にとっては、心強きことにて」
「それにしても景時とヒノエか。タフなネゴシエーター同士だな」
「…たしか猫舌…とは?」
「敦盛、お前の変換耳、面白過ぎ。手強い交渉相手ってことだ」

銀は、そのような二人の話を微笑みながら聞いている。
敦盛が改まって問うた。
「重衡殿は、なぜ泰衡殿と共に和議の場に出ないのだろうか」

「お二方同様、私は同席しない方がよいと思われますので」

銀の答えに、顔を見合わせて将臣と敦盛は笑った。
「そりゃ、そうだよな。平家が出て行ったら、話がややこしくなるだけだ」
しかし、すぐに真顔になる。
「だが、昔話をしに来たってわけじゃ、ねえんだろ、重衡」

銀は、居ずまいを正し、将臣に向き直った。
ここからが、本題だ。
「本日参りましたのは、お二人にお目にかかりたかったからです」

将臣は、頭に手をやった。銀が見知っている、将臣が考える時の癖だ。
「みんながいない時を見計らって、来たってことだよな…」
「はい」
敦盛が銀を見据えて言った。
「平家一門のこと…だろうか…」

「その通りにございます」




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